2012年08月06日

「燃えよ剣」の虚構と実像

司馬遼太郎著「燃えよ剣」は、小説です。

その小説は、いかにも記録や事実を元にして書いたという書きぶりで描写を連ねています。それを元にライターが著作を書き、メディアが作品を作り、無数の評論や創作が世に呈されてきました。結果、歴史ファンが土方歳三に惚れ、一方で司馬に貶められた人物がその余波を被っています。

一方で、各資料で事実を比較対照し、そこに明らかな名誉毀損があれば、その「小説」に基づいた像について、虚構と実像を腑分けしたくなるのは、自然なことかと思います。

以下、主に土方歳三と大鳥圭介について「燃えよ剣」の描写とそれに対する所感をまとめます。
参照は新潮文庫、平成元年十二月四十一刷です。

土方像についての詳細検討にご関心ありましたら、以下の過去のポストもご参照くださいますと幸いです。

戊辰物語その3 新選組と土方歳三 http://irisio.seesaa.net/article/35582662.html
土方歳三の実像と箱館戦争 http://irisio.seesaa.net/article/30847145.html

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P.267 「歩兵頭大鳥圭介」

→ 脱走時、大鳥は歩兵奉行。

P.270 (鳥羽伏見の戦いの後)城中に歳三が帰ってきたとき、大鳥が土方に話しかけ、大鳥が土方を嫌なやつだと思った。

→ 創作であろう。大鳥が脱走前に正規陸軍訓練の受けていない新選組へ関心を寄せる理由はなく、土方との初対面は市川である可能性が高い。

P.271「市川屯集の幕士のあいだで、大鳥を将とすべきか土方を将とすべきか、多少の問題になっていた」 大鳥が「あれは剣術屋だ」と吐き捨てた。

→ この時土方を将とすべき、将に推された、という話は関係者の記録には無い。大鳥の台詞も司馬の創作。

P.273「市川で実戦を指揮した経験者は土方だけだった」

→ 天狗党の討伐軍の大川正二郎、鳥羽伏見の戦いの伝習隊参加者はじめ、脱走旧幕軍に実戦経験者は多数いた。

P.276 歳三は副将軍格、大鳥と馬を並べ中軍の先頭を行進。小山の戦いの後、兵に酒を飲ませた大鳥を土方が諌めた。兵の泥酔後、小山の再戦を土方が伝習隊・新撰組を率いて戦い勝利した

→ 土方は副将でも大鳥の参謀でもなく、前軍の会津脱藩伝習隊の秋月登之助の参謀。大鳥の参謀は柿沢勇気。土方は大鳥と同じ中軍ではなく、秋月と同じ前軍だった。小山の戦いの時、もちろん土方も新選組もいない。記述は司馬の創作。なお、小山の再戦は大鳥と本多が指揮し勝利した。

P.276「この男(大鳥)は大将のくせに地形偵察というのはすべて人まかせで、じぶんでいっさい見にゆこうとしない」

→ あまりに事実と異なる中傷だ。大鳥は、今市でも藤原でも母成峠でも地形視察を自分で行い陣地構築している。箱館では1ヶ月かけて江差〜箱館の広域を、雪中氷中、大鳥が自分の目と足で偵察している。

P.279 「(大鳥は)実のところ将才はない」

→ 「大鳥、韜略に通じ、機略群を抜く」(戊辰戦史)、「性正毅豪膽韜略に通じ、善く兵を用い、幕府八萬の旗下中、稀に見る處の人物なり」(会津史)、「真に大鳥氏の神算といふべし」(北線日誌)はじめ、大鳥の「将才」を伝える史料は無数にある。

P.282 土方が、街道の交わる要衝である宇都宮城攻を大鳥に提案。反対する大鳥に、兵三百と砲二門があれば陥とせると土方は云い、宇都宮城攻めに向かう。副将を秋月登之助とする。土方が落城させると、大鳥は舌を巻いた。

→ 実際は、土方が将、副将が秋月ではなく、逆。秋月が前軍の将、土方がその参謀。そして、彼ら前軍が、中・後軍の大鳥に断りもなく、宇都宮城を攻め落した。大鳥は宇都宮攻を知らず、空が燃えているのを見て初めて知った。急いで城に行くと、前軍に放火され、城内はそのまま放置された状態。大鳥は前軍の後始末のため、消火と略奪兵の鎮圧の為に苦心した。大鳥は治安維持のため、見せしめに略奪者の首切りまで行った。

この時宇都宮は、一揆鎮圧に疲弊しきった藩兵と、武井村・小山の戦いで大鳥伝習隊と戦い破れ壊滅した、士気皆無のボロボロの彦根、官軍兵しかいなかった。また、宇都宮は南側の防備が薄く、攻めるに易く守るに難しい、要塞としての機能に問題がある城だった。いわば、攻めれば誰でも落せる状態だった。

P.287 土方は「自分には弾があたらぬ、という信仰がある。事実、弾は歳三をよけて飛んでいるようであった」

→ 創作表現だが、主語が大鳥だったら頷ける。大鳥は箱館で「『ナーニ、おれに銃丸が命中るものか、銃丸の方が避けて行くぞッ』と大気焔を吐いて、尚も指揮しつつあると、部下の者は我輩の前に立ち塞がつて、銃丸避けになってくれる。それを突きのけて前に踏出すと、また立塞がる」という様だった(死生の境)。

P.304 榎本武揚が荒井郁之助に「土方歳三というのはどういう男だ」と尋ね荒井は「沈着剛毅といった男で、大軍の指揮ができる点では、あるいは大鳥以上でしょうな」と答えた。

→ 荒井がこのような言を呈する根拠はない。土方に大軍の指揮ができる能力があるという根拠もない。土方が指揮したのはせいぜい数個小隊であり、指揮した際の挙動を記録してたのは新選組配下の者だけで、組以外の隊の者の記述は大鳥のそれに比して些少であり、敵の記述はほとんど見られない。

P.306 仙台国分町の宿「榎本が歳三の評判をきくと非常な人気で、大鳥のことはだれもあまりよくいわない」

→ 逆ではなかろうか。
大鳥は、「沈勇にして大度あり、且文武兼備の人なれば当時の豪傑」(もしほ草)、「全戦闘を通じて、官軍の敵の中で一番すぐれた指揮者の一人であり、彼が指揮するところでは、どこでもその名は大敵とみなされた。彼こそ他の誰よりも官軍の進軍を食い止めた。若松では勇敢な天才であることを示した」(ヤングジャパン)はじめ、当時の新聞などで一般人にもその名が喧伝されている。
一方、三斗小屋の悪戦を戦い抜いた幕臣望月行蔵が「夢乃うわ言」で土方を「其傲慢、人を易ずるを悪む」と記したり、土方が本宮などで放火を行っていたので、土方のほうが評判は良くなかった可能性あり。

P.307 「『土方さん、あなたは旧幕府きっての歴戦の人です。頼みます』と榎本は、西洋人のように歳三の手をにぎった」
P.315 「榎本は、同類のフランス式武士大鳥圭介をさほどに信頼していなかった。この榎本は、近藤勇にひどく興味をもっていた。のちの函館の攻防戦のときも、永井尚志という旧幕府の文官あがりに都市防衛の指揮権をゆだねたことを後悔し―― たとえば死せる近藤勇、あるいは陸軍奉行並の土方歳三に函館をまかせれば、ああいうざまはなかったであろう、と晩年までそういうことをいった」


榎本にも、永井にも、大鳥にも、失礼な記述である。榎本がこのように述べた根拠もまた寡聞にして存じ上げない。
後年に渡って榎本が土方を高く評価していたという根拠も無い。
二股戦で後述するが、榎本の土方への評価はむしろ低かったものと考えられる。

P.308 仙台におけるフランス式用兵の演習を、土方が完全にの見込み、砲兵教官ブリュネーが驚き「『土方さん。フランス皇帝があなたを師団長に欲しがるでしょう』」と真顔でいったほどであった。

→ これも司馬の創作だろう。さもそういう史料があるかのような書きぶりだが、ブリュネの書簡、「絹と光」「フランス人の幕末維新」をはじめとした考えうる各資料に、この記録は無い。あるならご教示いただきたいと思う。

P. 317 「かれ(榎本)は、土方歳三という男が、江戸脱走依頼、宇都宮の奪取、日光の籠城、会津への転戦、会津若松城外での戦闘など、かれがどんな戦をしてきたかを、土方の下にいた旗本出身の士官からきいてよく知っている」
若松城外の戦闘の例では、前哨兵を捕虜にしようとした大鳥に対し「土方は自分で撃たず、自分で本隊を見た方が様子が分かるとし、実際に偵察した。将校斥候としては理想的な行動といっていい」

同上。なお、土方は日光の籠城はしていない。会津も母成峠はどこで戦ったのか具体的な記録はない。浅田惟季「北戦日誌」で、本宮で放火して逃げただけのことを「戦勝」と報告したことが確認される程度。会津若松城外の戦闘の土方の参加も確認できない。なおこの時大鳥は、母成峠戦の壊滅で、最後までしんがりで戦った後、若松にはいかず檜原の山中を流離い、敗残兵を再編して粘り強く泥沼のゲリラ戦を展開している。一方、土方は戦わずそのまま仙台に落ち延びている。

P.318 「平素、歳三に臆病者とののしられている大鳥圭介」

大鳥が土方に臆病者と罵られる謂れは無い。大鳥は確かに戦は忌避し可能な限り戦闘回避しようとしたが、それでも大鳥は土方の三倍以上の戦闘数を有し、戦場期間も長く、勝率は土方よりも高い。大鳥は、勝つ戦は部下に任せ、負け戦ほど前に出て指揮し、自軍の損害を減じるよう努めた。時に最前線で弾丸に陣羽織を打ち抜かれ(函館戦)、時に軍が撤退するまでしんがりに居座った(宇都宮落城、母成峠、千代ヶ岡他)。その大鳥を「臆病者」と土方が言ったのなら、土方もそこまでの人物である。

P340 「大鳥軍は新選組を傘下に入れた。歳三の配慮であった。『新選組は新政府のもので、私の私兵ではありませんから』」

→ 大鳥が新選組を欲した記録はない。なお、大鳥の新選組評価は、低いようだ。「心元なく思い少し下りて之(新選組)を見るに、撒布の法も宜しからず(母成峠)」「新選組躊躇して進まず(七重浜)」「番兵怠慢(箱館山)」等が大鳥の南柯紀行の記述に見られる。
また、土方のほうに、藩主付人数制限の為にやむを得ず新選組に加入した岡崎藩士が、新選組から離脱する際に激怒したこと、陸軍奉行添役に相馬主殿、安富才輔ら新選組出身者を採用しているなど、むしろ土方が新選組を私兵扱いしているような節がある。

P.341 松前攻めの際「『土方さんは城攻めの名人だ』と、松平太郎は軍議の席上でいった」

→ そのような議事録も記録も無い。なお、土方は前述の崩壊寸前の宇都宮城を落とした隊にいただけであり、土方を城攻め名人と称える当時者の記録もない。土方が松前城攻めを指揮した将である書き方であるが、丸毛利恒「感旧私史」等を見ると、責任者は松平太郎であった。例えば彰義隊の地位争いなど混乱があったが、土方は関与せず、松平が納めている。余談ながら、司馬はこの時土方が松前藩主の正室を助けて斎藤一ら新選組隊士に江戸まで送らせているという美談を「ここで、あまりこの男にふさわしくない、ひどく人情的な始末をしている」とさぞ真実であるかのように書いているが、無論そんな記録はない。斎藤も会津ですでに離別しこの場にいない。

P.331 宮古寄港の際、土方が宮古湾海戦の、接舷から甲鉄奪取のアイデアを得て「この妙案がのちに世界海戦史上稀有といっていい歳三らの宮古湾開戦として実現する」
P.356 軍議で土方「とにかく海軍はわれわれを運んでくれるだけでよい。則るのは陸軍でやる」
P.357 歳三の案は榎本の口から旧幕府の仏人軍事教師団に伝えられた。ニコールという男が「それは外国の戦法にもある」といった

→司馬は宮古湾発案における土方の役割を、頁を割いて何度も強調している。一方、宮古湾開戦を思いつき計画を策定したのは、土方ではない。立案者は荒井郁之助、甲賀源吾、二コール、マルラン、フォルタンらの面々。土方は同乗したのみとしか伺えず、戦闘参加したかどうかも不明。宮古湾海戦参加者の安藤太郎による「美耶古能波奈誌」、経緯をフランス側史料から検証している「フランス人の幕末維新」他、丸毛利恒「北州新話」鈴木金二郎の「函館記事」等の記録も、土方については参加者として名前が羅列されたのみ。新選組の野村利三郎について記述はある。小説本文でも土方の活躍が長々と描写されたが、ソースは司馬と子母澤寛の想像力だろう。

P.372 (宮古湾海戦にて) 黒田が室内に他人の徳利を発見、抱き上げて口に入れた。「またたくまに大徳利から黒田の腹の中へ酒は移された」「黒田は生涯でいくつかの失敗をさせたが、このときもやはり失敗のうちに入れれば、入れられるかもしれない」

→ 黒田は確かに宮古湾海戦に遭遇している。しかしいくら酒癖の悪いことで有名な人物といえ、この戦闘前に酒を飲んだ記録はない。黒田の酒乱は、明治政府での政治争いと家庭の不幸のストレスからの逃避であり、この時期に酒乱者扱いするのは間違いであるのみならず、真剣に戊辰を戦い抜いた黒田への侮辱だ。

P.408 (二股にて)「――土方さんがいるかぎりは勝つ、という信仰が、函館軍のなかにあった」「歳三は函館政府軍における唯一の常勝将軍であった」

そんな信仰は無かった。現在はファンの間にあるだろうが、少なくとも当時にはない。
「常勝将軍」というのはファンの間で非常に好まれて、土方を修飾するのに頻繁に用いられる。無論この言葉は、司馬の創作である。勝ったのは司馬が強調している宇都宮城攻、松前、二股ぐらいであり、その他鳥羽伏見、宇都宮陥落、会津や本宮での敗北など全体の土方の勝率は高くない。ましてそれに対応して大鳥に「常敗将軍」というレッテルを貼るなど、言語道断である。

二股は、天嶮で防衛は容易な上、工兵隊の吉沢勇四郎が陣地を固めた。そして大鳥の両腕とも言える歴戦の伝習隊の大川と滝川、衝鋒隊の今井伸郎を、二股に投入した。
司馬は二股における土方の活躍を華々しく描くが、実際土方が二股の前線に出たという明確な記録は無い。伝習歩兵隊隊長として二股を率いた大川正二郎は、土方の名を羅列したのみ、同じく二股で衝鋒隊の隊長だった今井信朗は「土方歳三等を擁護して退却」とだけ記した。

二股の土方を賞賛しているのは、「又寡ヲ以大敵ニ当リ動カサルハ是土方君ノ力也」石井勇次郎(戊辰戦争見聞略記)、「士卒の心を得た」大野右仲(函館戦記)など、新撰組身内の筆であり、これが新撰組ファンの拠り所にされている。
新撰組以外の各史料で称えられているのは、二股に布陣した隊の活躍であって、土方自身の行動ではない。

なお、二股の戦いで土方が実際に活躍していたのなら、その後は、さぞ彼が頼りにされたことだろうが、その後の七重浜の夜襲の三連戦に土方が出陣した様子は無い。5月11日の箱館決戦も、大鳥・本多・大川・春日・人見・二関ら、奉行や各隊長たちは、明け方から七重浜・有川・大川の防衛線に詰めて、早暁から戦闘を開始したが、土方は、箱館山の寒川から官軍が攻めてきて、箱館の街が陥落するまで待機しており。つまりは予備兵力扱いだった。

P.410 「銃身が焼けて装填装置が動かなくなった。歳三は、ふもとから水桶を百ばかり運ばせて、銃を水につけては、射たせた。水冷式の射撃戦をした男など、同時代のヨーロッパにもいなかったのではないか。『弾はいくらでもある。射って射って射ちまくれ』と、陣地々々をまわっては、激励した」

→ 「水冷」が行われたのは事実だが、それをしたのは伝習隊や衝鋒隊の兵たちであり、土方ではない。少なくとも土方が前線で自分で射撃したとか、陣地回ったなどの記録は無い。大野右仲が土方がよく統率したと書いてはいるが、実戦での立ち回りなどの記述は見られない。

なお、「射って射って射ちまく」られると、弾薬確保に苦悩して女郎にまで給金払って作業してもらい弾薬製造していた大鳥は、さぞ頭が痛かっただろう。

P411 榎本から何度も送られる伝令に対して土方「『薩長は天下を取ったが、二股だけはとれぬといっておいてくれ』とこの男にはめずらしく広言をはいた。」

この言も司馬の創作だろうが、土方が連絡を怠っていたのは事実らしい。「奥羽蝦夷戦乱史」に「土方歳三、沈勇豪邁と雖も、防御のみに留意し、西軍餌兵の実情偵察を困却したる欠点あり。後年榎本子、大鳥男、人見勝太郎氏、佐々木京運氏が一堂に於ける回旧談に、二俣口の実常話題に上りしとき、榎本子、盃を捨て机を叩きて大息せりき。それ或は然らむ」つまり、榎本が二股の土方が偵察を欠いて連絡を行わなかった事に対し、戦後の酒の席で、榎本が盃を捨てて机を叩き、ため息をついた、と記録されている。

P.412 「閣下は芸術家(あるていすと)か」と、仏軍陸軍の下士官はちょっと妙な顔をしていった。…二股の攻防戦では、都市像はほとんど芸術家的興奮でこの戦を創造した。ちと刀と弾薬が、歳三の芸術の材料だった。歳三らのすさまじい戦いぶりについて、それらの(官軍が援軍を乞う)手紙には、窮鼠必死頚敵とか、余程狡猾、何分練磨、などという極端な表現が使われている」

「あるていすと」のソースは、司馬脳内だろう。そういうことを述べた仏軍士官の記録は目にしたことがない。二股で、土方の名前以外の活躍を描写した官軍側の史料も寡聞にして知らない。「余程狡猾」「何分練磨」は、大鳥や大川ら伝習隊を描写するのに類似のものはあった。大鳥は「児玉大将伝」で「大鳥圭介の神謀鬼策、古えの楠氏にも喩うべき名将」と記述されるなど、確かに官軍側で高い評価だったことが伺える。

P.414 「二十二日には大鳥圭介が守る木古内陣地が堕ち、このため官軍艦隊が直接函館港を攻撃する態勢を取り始めた。『だらしがねえ』二股のあるていすとは憤慨した」

大鳥が担当した海岸線陣地は、艦砲射撃降り注ぐ、屍山血河の地獄だった。その記録は当事者の筆に生々しい。それでも大鳥は木古内で、三次元的に陣地を渡り歩いてゲリラ的に戦を行い、一旦勝利した。それで士気が上がり突撃兵が増えて隊長格まで死傷者が激増。大鳥は諸隊長を必死に説諭して、退却させまわって全滅を防ぎ撤退させた。この大鳥を、だれが「だらしない」と言えるのか。少なくとも箱館戦当事者達の記録に大鳥を批判したものは皆無だ。

P.415 「歳三は山上待機の本隊に総攻撃を命じ「一兵を残すな」と突進した。官軍は大半が斃れ、長州出身の軍監駒井政五郎もこのとき戦死した」


駒井を討ち取ったのは、伝習士官隊を率いた瀧川充太郎である。他人の功績を横取りする書き方はいかがなものか。

P.416 (土方が二股から帰営して)「驚いたのは、大鳥が率いていた幕府歩兵が数百人脱走してしまっていたことである」

→ 隊からの脱走者は確かにあったが、函館決戦の後に落城がほぼ確実となった、5月12日以降である。この4月末の段階であたかも大鳥を見限ったかのように脱走を述べるのは不当。

P.417 中島三郎助が「榎本が降伏するのではないか」という疑惑から、千代ヶ岡から馬を飛ばしてきた。中島は土方に「こういっては何だが、榎本という男はいざとなれば存外腰の砕けやすい男だ…もし榎本が降伏すると言い出せば、陸軍奉行たる貴殿はどうなさる」と訊ねた。

→千代ヶ岡で壮絶な死を遂げた中島が、こう土方に言ったとすることで土方を引き立てさせようという司馬の意図がみられる。しかし、中島に対し失礼な捏造である。
林董が史談会速記録で述べた中島の言「是迄蓋したらモウ沢山だ、此中には若い人もあるし、まだ二千余の人もあるから、是から先やつて居たら、どんなみつともないことが出来るか知らぬから、榎本だの大鳥だの大将分は、軍門に降伏して、皇裁を仰ぎ、外の者の為に謝罪するが宜しい」 若い者たちは降伏させようとし、しかし自分は討死したのが中島である。そして、榎本ら幹部はその言葉を聞き入れず、官軍からの降伏勧告も五月十七日まで退け徹底抗戦したのが事実だ。

P. 426 五稜郭篭城を主張する大鳥に対し、土方「君は籠城説を採ってる。籠城というのは援軍を待つためにやるものだ。我々は日本のどこに味方をもっている」

大鳥が籠城を主張したことなど無い。記録には一切にない。土方の発言も創作。しかしこの場面が、天下のHNKのドラマで演じられたのは全く残念である。


P. 432 土方の死後、碑の資金は「全市の商家から献金された。理由はたった一つ、歳三が妙な『善行』を函館に残したことである。五稜郭末期のころ、大鳥の提案で函館町民から戦費を献金させようとした。『焼け石に水』と歳三は反対した。『五稜郭が亡びてもこの町は残る。一銭でも借りあげれば、暴虐の府だったという印象は後世まで消えまい』 そのひとことで沙汰やみになった」

箱館軍は、町民から通行税を取ったり、贋金を鋳造して箱館の経済を混乱させた。これにより榎本に、武揚の訓読みで「ブヨ」と不名誉な渾名が付けられたのは事実。戦は消費であり、補給が命である。開陽や輸送船である千代田形の沈没で、箱館軍は多大な物的損害に瀕した。武器弾薬も食料も小判も失った。費用も乏しく、大鳥も豪商に対して借金金策交渉をして、弾薬を自作していたぐらいである。管理、運営とは資金運用である。金は空から降ってこない。戦う為には金が必要。誰も税を取って民を苦しめて悪名を残したくはない。古今、資金難を何とかするのは非常に頭の痛い問題だ。土方が本当にこれを述べたのかどうかは不明だが、ここで一人だけ善人ぶって理想を唱えいい気になる者がいれば、その者はもはや戦争当事者達の友人ではいられないだろう。
これまでの司馬の筆の中で、もっとも当事者たちを侮辱していると感じる記述である。

P266 (大鳥の容姿)「白皙、ひたい広く、鼻すじ通って、りゅうとした美男子である」

→ その通り。異論無し。

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最後はともかくとして。

以上のように、「燃えよ剣」は、事実から地位の格上げ、全く根拠のない創作による修飾、膨らましや拡大、いるはずの無い場所に人物がいる、他人の手柄をすげ替えしている、など多々見受けられます。

「燃えよ剣」の土方歳三は万人に称えられるべき格好良い男です。しかしその格好よさは、司馬遼太郎が、以上のように本当に称えられるべき他者の功績を土方の名前に挿げ替え、他者を比較対象役として貶め、想像力の濃いソースをたっぷりと降り注いで作り上げた虚像にすぎません。

無論「小説」である点は酌量されるべきです。そこに目くじらを立てて事実と違うと云い張るのも無意味なことです。しかし、それらの記述がさも史料に基づいている事実であるという書き方をしているのが一番の問題です。読む者はそれが事実であると誤解します。

実際、この司馬像に基づき、作家、歴史ライターなどの追従者が現れ、司馬土方象に即した多数メディア作品が世に生み出されました。

「燃えよ剣」は単純明快で勧善懲悪、悪役とヒーロー対比させた、シンプルな虚構です。大鳥圭介はその悪役として贄にされました。何故ここまで、大鳥や他の人物が、嘘と捏造で彩られた悪意のある書き方で司馬遼太郎に貶められねばならなかったのか。なぜ司馬遼太郎は、嘘で中傷されると、その当人や地元や係累やその方を敬愛する者が怒るという、当たり前のことに思い至れなかったのか。共感性を欠いた人間だと感じます。
そしてこの共感性の欠如は、多くの作家、歴史ライターにも見られる点です。

こうした点が、史料に示される事実により正され、人物の復権が為されることを切に祈るばかりです。

posted by 入潮 at 00:37| Comment(8) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
サイト・ブログ共に、いつも興味深く読ませて頂いています。
今回の記事に、共感し納得する部分が多く、思わずコメントさせて頂きました。

私は「燃えよ剣」をきっかけに、新選組や土方に強く惹かれるようになりました。
恥ずかしながら、私自身も読んだ当初はこれが事実であると信じていた者の一人です。
しかし、史実の彼らに近付きたいと思い、少しずつ調べていくうちに、「燃えよ剣」とそれに続く様々な創作物における土方像に、疑問を抱くようになりました。
今回、確かな事実をもとにこの作品の虚構性を指摘して頂き、胸がすく思いです。

特にP.452については、以前から疑問に思っていた部分でした。
土方のこの発言については私もよく知らないのですが、函館の称名寺跡地の立て看板に、これと似た逸話が書かれているようですね。
また似た話としては、徴税の際に土方が「農家の人々は免除するように」と政府に進言したが聞き入れられず、その後自らお金を返して回った、といったものが土方家に伝わっているとか。その信憑性は定かではありませんが。

いずれにせよ、この話が単なる美談として描かれる事には、納得がいかないものがあります。
徴税は、誰も好き好んで行う訳ではなく、止むに止まれずの選択だったとは想像がつきます。
箱館軍の財政難の現実を知りながら、そのような発言をする者がいれば、当事者達にとってはどれほど不愉快な事でしょう。
まして、もし本当に『五稜郭が亡びても』などと口にしたとすれば、それはあまりに己の立場を弁えていない発言ではないでしょうか。
仮にも政府の上層にある者として、言ってはならない言葉ではないのか、と思わざるを得ません。

私自身は、今でも創作物として「燃えよ剣」は好きですし、その土方像は魅力的だと感じます。
しかし、この作品によって歪められた事実があり、貶められた人物が存在する事は、常に頭に留めておかねばならない、と思っています。

長文乱文、失礼いたしました。
Posted by 縹悠 at 2012年08月28日 03:27
思慮深いコメントを下さり、ありがとうございます。
自分も「燃えよ剣」は入り口の一つだったですし、小説としてはすばらしい作品だと思います。子母澤寛や司馬遼太郎の筆により、新撰組、土方歳三のファンになるのは、至極当たり前のことと思います。また、多くの一般の方が歴史に関心を向けるきっかけを司馬氏が提供したことは、偉大な所業であったと思います。一方、小説を入り口として実際の土方氏に関心をもたれる事は喜ばしい事なのですが、実像が虚構像より相当縮小されてしまうので、司馬氏も罪深いことをなさったものだと感じます。

故に上は、多くのファンの方のお心に添えず、幻滅させてしまう事であることを承知しております。無論、言いたくて言ったわけではなく、嫌われ者にもなりたくはなく、かといって自分で読んだ史料から得られる事実に背くこともできず、誠に心苦しいです。

歴史ジャンルを見ていて思うことは、世の中、検証できる事実が大切であるとする立場と、たとえ妄想捏造や名誉毀損があっても面白くてヒットすれば良しとする立場の、二通りがあるということです。そして、最初は後者でも、前者に立場や考えを変じる方は、結構多いのだと感じます。また、前者になりたくとも消費者動向がそれを許さないというのもあるかと思います。

土方の「善行」については、無責任な立場で増税反対を唱える方に「国に金が無いのだが、代替案は?」と聞きたくなるのと同じ感覚を抱きました。それが事実かどうか記録からは分からず、称名寺の御住職さんにお伺いしたこともありましたが、確証は得られませんでした。「なかった」ということを証明することは悪魔の証明で至難の事ですので、上のように「不明」としましたが。もし言わなかったのなら、後世の人間の願望による軽率な創作だったわけですし。もし言ったのならそれは彼が箱館政権において何ら責任ある立場では無かったという所作でしょう。どちらにしても苦しいところです。

仰る通り、事実と創作像を腑分けした上で、創作像を楽しむのは、良いことかと思います。このあたりの歴史ファンの方々の意識は非常に高いのではないかと思います。
Posted by 入潮 at 2012年08月28日 12:30
確かに読んでて大鳥圭介が可哀想だと思った。それに土方歳三も史実の方がかっこいいと思った。創作を入れてイマイチになってる。でも新撰組血風録の土方歳三はカッコ良かった。司馬さんの新撰組の小説では血風録が一番好きです。燃えよ剣でもあんな土方歳三を書いて欲しかった。
Posted by 幕末大好き at 2012年10月02日 16:40
記事拝見しました。
ごもっともな指摘ばかりだと思います。
ただ、司馬先生の弁護を少し。
燃えよ剣は1962年に新聞上で掲載開始した作品です。今みたいにネットも無い上に、「浪士文久報国記事」「山崎烝 取調日記」みたいな第一級史料が見つかったのは平成に入ってから。現在の研究と異なる部分が多いのはある程度仕方が無いことではないでしょうか?
また、司馬先生の悪役を作りたがる悪癖は批判されてしかるべき部分はあります。しかし、史料そのものに捏造、誤記、拡大解釈等が多数含まれる幕末において、司馬先生一人を挙げて共感性にかけた人間とまで批判するのはアンフェアかと思います。子母澤先生や鞍馬天狗の大佛先生、はては記録者の西村、永倉、その他新撰組の内外まで近藤や土方を誇大に悪く書いてる例はいくらでもありますし。
私も司馬先生の作品の中で扱いに納得のいかない人物はたくさんいます。ただ、そこで司馬先生を個人攻撃するのもまた違うように思います。

大鳥は当時の戦績や記録に残る逸話から見れば、情に厚いひとかどの将であり、少なくとも土方に軍才がないといわれるような人物ではないでしょう。そもそも、土方と軋轢があったようにも思われません。もっと再評価されるべき人物だと思います。
そこで歪められた部分を指摘し、こんな魅力的な人物であった、ということを主張したほうが良いのではないでしょうか。
Posted by ヒビキ at 2015年02月22日 18:52
>ヒビキ様
ご指摘の通り、人物の拡大・誇大解釈を行っているのは司馬遼太郎氏のみに限った事ではありません。ただ、最も人口に膾炙し影響力の大きい小説として、また、自分の小説がいかにも根拠ある事実としての書きぶりを行う点で、司馬遼太郎氏を取り上げさせていただきました。
また、この記事は、大河ドラマの新選組の続編での余りに事実を無視した描かれ方に憤っていた頃のものでした。その根拠の一つとなった最も有名な作品に対して、つい感情が先走ってしまったのですが。ファンの方の心情を顧慮せず、筆が走り過ぎたと今は反省しております。ご提案頂いた通り、サイトや他のブログ記事では、否定的な事はなるべく記さず、「魅力的な人物であった、ということ」の根拠を記すようにさせていただいています。
その甲斐あってというわけではないのですが、近年史料が見直され再評価が進んでいることは、大変喜ばしく感じています。
Posted by 入潮 at 2015年02月22日 20:59
現存する史料は、新選組を含む旧幕府軍に恨みがある者達が悪意を持って書いたものもあります。新選組関連の史料等は破棄されているでしょう。信憑性に欠ける史料も数多くあり、全てが真実ではありません。
Posted by 美咲 at 2015年05月27日 19:26
>美咲様

コメントありがとうございます。
お伺いしたいのですが、戊辰戦争時代の新選組や土方歳三を特定して悪意を以って中傷し、それが事実に反すると判明している新政府側の公的記録は、例えばどういった具体的な史料があるでしょうか。(一次史料作成者個人の事実誤認もあるかと存じますが、そうした記録の誤謬は他との比較対照で判明します)
現存する史料でも、当時の新政府側公的記録、旧幕府側の記録、日記、書簡などを複数比較対照して重ね合わせ、事実と当方が認識した事を、記事の根拠にしております。また、根拠史料についてそれが真実ではないと断定する場合は、矛盾している史料を複数上げる必要があるかと存じます。
破棄された史料は当方も目にする事ができませんので、それに基づいて何かを記すという事はありません。
Posted by 入潮 at 2015年05月27日 21:30
ここでも福澤は拝金主義者だという強烈な指摘がなされてます

反シナ・反朝鮮というだけの短絡的なネトウヨがマンセーする、日本における拝金主義・フェミニズムの権化 福澤諭吉について
ttp://whisper-voice.tracisum.com/?eid=399
Posted by 輝 at 2015年10月09日 07:15
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