2006年04月25日

工部大学校オムニバスその1-1 志田林三郎、南清

● 志田林三郎 (しだりんざぶろう)
電信科、一期生。1855年12月25日生。しだりん。工部大学校エース。悲運に早世した苦労人。電子立国日本の出発点。

佐賀県出身。父は武士ではなく、塾の先生。林三郎が生まれてすぐ病死。母フミがまんじゅう売りをしながら、林三郎をミス・ナカという姉二人と共に育てた。饅頭神童。石炭運搬労働者相手に饅頭を売って母を助けたが、その際に計算がすばやく、決して代金を間違えず、大人たちがこぞって奪うように饅頭を買って、饅頭少年の計算能力を試したという。
漢方医に見出されて、階級の隔てのなかった佐賀藩の学校、東原庠舎で学ぶ。その後特例的に見出されて藩校の弘道館へ。佐賀藩科学技術振興の申し子扱いだった。石丸安世(後、工部省電信頭)が開いていた経綸舎でも学んでいる。石丸の影響を受け、16歳で上京。

工学寮一期生の電信科は慶応義塾から来た川口と二人のみだった。入学試験は高峰に後れを取ったが、その後、理学一位、数学で一位、英語三位、図学(製図)二位、総合でトップ。特に高等数学が得意で、同級生に教える立場だった。電気工学教師エアトンの信頼篤く、助手も勤めた。
5年生のとき、「プロジェクト気球」のチームリーダーとして、気球の設計を担当した。
卒業論文は「電信の歴史・電気電信の進歩に関する研究」200ページを越える理路整然とした圧巻論文で、卒業時点で、ぶっちぎりの首席。

第一期生留学組11名の中では、皆が士族出身の中で、唯一平民。留学中はケルビン卿に師事する。ケルビン卿(ウィリアム・トムソン)は熱力学の開拓者。トムソンの原理、ジュール・トムソン効果の発見者。絶対温度の単位(K)になっている。10歳で大学入学、22歳で教授、事業家としても秀で、怪物と呼ばれた。その卿をして、志田は「私が出会った数ある教え子の中で最高の学生」と言わしめた。「ケルビン卿は志田を愛した」という言葉はあちこちで見つかる。

また、グラスゴー市中央郵便局で無償で働き、これが後の郵便通信事業、行政の糧となった。
ただ従順に学んでいたから教授に好かれたわけではない。当時、英国の電気学の権威であったオスボルン博士が、Philosophical Magazine (http://www.tandf.co.uk/journals/titles/14786435.html) に掲載した論文を見て、志田は不審を感じた。そして自分の考えを、同じ論文に投稿した。オズボルン博士は「たかが日本の書生のくせに」と一喝するが、志田は怯まずにまた反論して、周囲を驚かせた。そんな気の強いところも見せる。更に志田は同じ雑誌に自記電流計に関する論文を掲載した。

グラスゴー大学に在籍したのは1年だったが、志田の研究成果に対して、自国学生を差し置いて、年に一度トップの学生に与えられクレランド金賞を授与された。名前も聞いたことのない東洋の端っこの小国から来た志田は、実力を持って英国人の鼻を明かした。その存在はよほど印象的だったらしく、志田の死後100年経ったあと、グラスゴー大学入学式で時の学長フレーザー博士が、学長挨拶のなかで志田について述べていたとのこと。
(今で言うと、つい最近まで内戦の最中にあったソマリアやルワンダのように、いったん荒れ果てた小国から、留学生が国費でやってきて、東大や旧帝大に入って、西澤潤一のように、教授としても実業家としても日本で1,2を争う功績を積んでいる今にもノーベル賞を取りそうな超人の下で研究して、教授が出会った中で最高の生徒と愛されて、しかも一介の学生なのに他の著名な教授に論文で喧嘩を売って、学生首位にも輝いていて、1年で自分の国のために去っていってしまった、みたいな感じか。そんなヤル気のある人間を見たら、絶対その国は伸びてくる、と恐れ戦くよなー。)

明治16年4月に帰国。27歳にして工部大学校初の日本人教授となり、さらに工部省准奏任御用掛を兼ねて、電信局勤務。月報は五十円。大学教授と技術官僚の兼務で、多忙を極めた。高峰と同様に、工業新報の協力者としても活躍。
逓信省電務局電気試験所(現在の電子技術総合研究所)の初代所長。時代は、ようやく官営の電信と、電灯のための直流による配電が始まったばかり。志田が電気産業振興のために切り開いた貢献は計り知れない。

郵便事業が農商務省、電信事業が工部省、という管轄違いに苦しみ、電信行政に不満を持った。しかし、明治18年、内閣創設に際して、電信・灯台を工部省から、駅逓と管船を農商務省から受け継いだ逓信省が発足。時の逓信大臣が榎本武揚となり、志田は榎本から厚遇された。明治20年31歳で逓信省公務局次長。同年、東京電信学校校長。32歳で電気学会を創設。榎本武揚を会長に守り立てる。明治21年本邦第一号の工学博士でもある。明治22年、逓信省初代逓信工務局長。常に、教授と校長とテクノクラートを兼ねていた。その傍らで電気技術の研究開発も怠らず、電話機や電話交換機、地磁気、電流自記機、直流発電機、アーク灯、蓄電池、電気通信技術に関する研究を進め、多くの論文を記し、工学会、電気技術学会のほか、英国専門雑誌にも寄稿して評判になった。常に日本の電気技術開発の最前線にあった。

電気学会第1回通常会に係る演説は、電気史、工学史の伝説となった、圧巻・不滅の金字塔。淡々とした語りで、「将来可能となる10余のエレクトロニクス技術予測」として今日の社会を予言した。即ち、高速多重通信、長距離無線通信、海外放送受信、長距離電力輸送、鉄道電気・電気船舶・電気飛行船、光通信、録音・録画・ビデオ、地磁気や電気変動による地震予知や作物の収穫予測。これらは全て、夢でも希望でもなく、志田の電気、熱、磁気の原理の理解、電気技術の経験と知見と実績に裏付けられた、論理的な予測だった。その多くは実現し、我々はその恩恵を享受してあまりある。余りにも身近で普通になってしまったために、我々はその技術の価値を評価できないでいる。

さて、電話事業に関して、官業か民営かの方針で、政府内が分かれた。志田は官業の方針を取った。榎本は民営派だった。さらに、逓信大臣が官営論者の後藤象二郎となり、志田は二人の軋轢に苦しんだ。結局政府は、志田のとった官営を採用。その後、1985年のNTT発足まで、電信電話は官営を続けることとなった。しかし、郵便制度創設者の前島が後藤に反発して辞職。前島派と後藤に見られていた志田は、このあおりを食らって非職を言い渡される。志田の部下はストライキを計画して反発したが、事前に発覚して失敗。
さらに、国会議事堂が失火事件を起し、この原因が電気とされ、一般人の電灯事業に不安が増大した。志田は東奔西走し、一般人の電気への無知からくる誤解払拭と電気の啓蒙・普及に努めて心を砕いた。

この過労と膨大な責任と、政治の軋轢が、志田の死期を早めたとされる。明治24年8月、志田は36歳という若さで世を去った。痛恨の早世。過労で体を弱め静養していたその最中も、大勢の関係者が、故障や停電のために詰め掛けて志田の指示や助言を求めたという。結核ではないかといわれているが、実際は過労死だろうという声が多数。同期の辰野金吾は「出世も早かったが死ぬのも早かった」と遺骸の前で涙してつぶやいた。特旨により、従五位。辰野金吾や電信科後輩の浅野応輔らが、遺族を擁護したとのこと。
ケルビン卿は志田の死を悲嘆した。志田の死後に、ケルビン卿の別の日本人弟子から、志田とその妻そっくりの等身大の人形がケルビン卿に送られた

写真や肖像では、切れ目のすっきりしたお醤油顔。機械科の同期今田清之進曰く「いたって淡白な人格者」。また、後輩の岩田武夫に「頗る蒲柳」と言われており、もともと体は強いほうではなかった。酒、煙草はやらず、葡萄酒を少々たしなむ程度。囲碁と読書とトランプが楽しみ。留学中に森有礼と囲碁を打っていた。漢文に親しみ、雅号は「別阜逸人」。

志田を知る者は、皆が皆、口をそろえてその早世を悔やみ、また、電気工学の祖、科学技術の先覚者たる功績の大きさに比して世にほとんど知られていない事実を残念がっている。1993年に郵政省は志田の没後100年を記念して「志田林三郎賞」を創設し、情報通信の分野で先端的・独創的な成果を挙げた個人を表彰することとした。

「先見の人 志田林三郎の生涯」(ニューメディア)は、佐賀大教授による、しだりんに捧げる賛歌。著者からしだりんに対する愛が満ち溢れていた。負けてはならんと思った。大鳥も大事だけど、この人もまず、語り伝えねば、という使命感に打ち震えた。


● 南清(みなみきよし)
土木科、一期生。1856年生。

活躍分野は主に鉄道。会津若松出身。日新館で漢籍を学ぶ。明治2年に東京へ上京。神田孝平、箕作佳吉の塾に入り、後に慶応義塾で英語を学び、さらに開成学校(大学南校)で学び、入学前の72年に工部省測量司の技術二等見習生になって、数学と実地測量を鍛えている。入学時点で既に相当な学力と技術があったようだ。

明治12年9月、お雇い教師が、海軍の雇いのキャプテンが死亡した際、その葬式に教師全員が出席して、授業がいきなり休講にされた。一方で、天皇が東北地方巡幸される際、見送りのために授業休講を生徒が要望したところ、受け入れられなかった。これに反発してた工部大生が全員、授業をボイコットする、ストライキた事件が発生(西館楼集合の事件)。南がダイアー教頭に向けた英文の起草文を書いた。ストライキを煽った首謀者の一人とされて、二期生の電信科岩田、鉱山科仙石らと共に、4週間の謹慎を喰らう。(謹慎メンバーは他におり、証言者によって一致していない)。このとき、皆から酒に刺身にと差し入れを受けて、豪奢な日を送った。

77年に、6年生の実習として、杉山輯吉と共に、京都-大津間の線路工事に従事。琵琶湖附近の工事で、お雇い外国人の設計のした線路の曲線が不適切だと指摘。実地試験の結果、南が正しいと分かり、井上勝に大変気に入られた。

グラスゴー留学組。マクレラン鉄工所で鋼橋の組み立てや、クライド築港工事に従事。カレトニアン鉄道会社の技士長グラハムに従って、ブランタイヤ支線の工事に従事し、実地で修行した。さらにグラスゴー大学を中退して、15年、スペインへ渡り、鉱山で鉄道、給水などの工事に携わった。ロンドン土木師会院委員に選ばれている。

明治16年帰国、直ちに工部省鉄道局に奉職。17年7月工部省権少技長、正七位。19年5月鉄道局三等技師、従六位。新橋-上野間、東京-前橋間の市外・市中の線路のほか、高碕-上田間の鉄道工事を担当。東海道の沼津-熱田の160里の測量を担当。碓氷峠を開拓。姫路以西、備後の道百里の設計と尾道以西、馬関にいたるまで、線路実測に従事。東海道線の沼津-天竜川間の工事を担当。「東海道鉄道」「天龍川鉄橋質疑ノ答」として工学会誌に寄稿。3年には野に下って、山陽鉄道会社技師長に。民間における経営手腕も発揮した。日清戦争では尾道-広島間の軍事輸送も担当した。

鉄道に捧げた人生は、47歳で没。「進取の気象に富む」人とのこと。顔はふっくらしているが、眼光が怖い。
posted by 入潮 at 05:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 工部大学校 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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