2005年12月03日

今井信郎 その1

エマ(唐辛子)と赤米を主食とする生活が続いております。
唐辛子を辛味ではなく野菜としてバクバク食べるわけですが。
入れるのはある程度慣れましたが、出すのがつらいです。尻が痛い…。
辛いというのは、舌ではなく、下で味わうものだと。下品でごめんなさい。

ひたすらムシに悩まされています。足首、腰、首周りなどの間接や背中などは、麻疹にでもなったかと思うぐらいに噛まれまくってます。カサブタだらけ。寝ている間に引っかきまくるので、体中傷だらけです。
犬猫がわんさと家の中にまで入り込んでいるので、ノミ・ダニ・南京虫の類が、いくら警戒していても入り込んでくるのですな…。しかもカピカピに肌が乾燥しているので、刺されてなくても痒い。肌にまともな部分がない。まともなを生活している人間の肌じゃない。

まぁ、こんな環境でも、たっぷり眠れるという点で、大変恵まれています。

さて。こんな前フリで出ていただくのも大変申し訳ないのですが。

今井信朗。古屋作左衛門の右腕。衝鋒隊頭並、前からかなり気になっている人物です。直参の幕臣、箱館では海陸軍裁判局、陸軍添役。
南柯紀行と一緒に収録されている「北国戦争概略衝鋒隊之記」「蝦夷之夢」の作者。

基本的に淡々と、起こった事柄を記していく記録者ですが、戦に入るといきなり必要以上に具体的になる。時々、意に沿わぬ退却のときなどは筆が荒くなる。あと、人の死に関しては描写が細かくなる。等など、戦の中で生きる人の匂い。
実際、衝鋒隊旗揚げのときから、と、ひたすら戦の只中にあった人です。数えると、圭介より戦闘数が多い、稀有な人物だろう…

寡黙でニヒルで、普段口数が少ない分を筆に込める男、という気がします。格好いい男はちゃんと格好よく描写してくれるのが嬉しいところ。峠下の滝川・大川ダブルリバーの活躍が良し。二股ではやはりダブルリバーと一緒に暴れている。この方の描く大川の男っぷりは必見。

やさぐれると毒舌が始まる。特に会津や奥州の藩からは、ツライ目に遭っているから、筆もよく滑っている。
同じ毒舌家でも、沼間は誰が相手でもデフォルトでけたたましく毒舌諤諤という気がしますが、今井は普段は静かに溜めるだけ溜めて、言うべきところでぐっさりと毒舌の槍、という気がします。唯のイメージです。すんません。
歴戦の友、古屋のあんちゃんを信頼する一方、渋沢成一郎とは仲が悪い。

意外に前衛的インテリで、記録には古屋の影響か、武器や船の説明にカタカナ続出。「蝦夷之夢」には軍律を記しています。半隊司令以上は銃を持つな、とか、敵の首は取るな、とかあたりの内容が興味深いです。指揮官が銃を持っていたら自分の射撃に熱中してしまうからだろうか、とか。首を取るのに拘るとパフォーマンスが悪くなるからだろう、とか、色々理由が想像できる。

この方の伝記、というか記録に、「坂本竜馬を斬った男」があります。サブタイトルが「幕臣今井信朗の生涯」。新人物往来社の書籍。坂本龍馬とか土方歳三とかを、華やかにタイトルに掲げている書籍には、ちょいと退いてしまう悪い癖がありまして。そのせいで、今まで手に取り損ねておりました。ただ、とある方に、今井が大鳥を「南京カボチャのように小さい」と評したことの出典をお尋ねいただきまして。思い当たって手に取ってみたのでした。
そして、調べてみたら、こんなにおいしかったのか、と驚きおののいた次第でございます。ご質問くださって有難うございました…。著者の方も、知名度高い坂本の名前を題をつけずに、そのまま「今井信朗」を高々と掲げて下さったら、もっと早く飛びついていたのに…。(無茶を言う)

著者は、信朗のお孫さんでいらっしゃる今井幸彦氏。今井信郎が、世間一般にとっては忘れ去られる名も無き存在のところ、世間で関心がもたれるのは、坂本龍馬の暗殺事件との結びつきにおいてである、としながら、そのせいで今井が上は剣豪から下は国賊・売名奴まで、毀誉褒貶の人物だとしています。けれども。

「本質的には、この不幸な事件は、彼信朗の生涯を通観した場合、ほんの一エピソードにしか過ぎない。彼の真髄は、風雪吹きすさぶ北越・蝦夷の各地を転戦、万に一つの勝味も実りもない賭に、その日その日の命と夢の全てを託し続けた戊辰の役と、夢破れ屈辱と挫折の深手を負いつつ大小を捨てて田園に隠れ、ついには神への道を説くキリスト者に変容していくその後半生の過程にこそ求められるべきだと思う」

の言葉に、血を引く方としての言葉が集約されている気がします。
幸彦氏の筆がまた、快活で、情感と意思に溢れていて、それでいて客観性を失わない、大変好みな文章でございました。素人とご謙遜されていましたが、歴史で食べている方特有の一般への妙な受け狙いを感じさせるものよりずっと、正確性を期そうという意思が強く、誠実な文章で、また、身内ならではの濃い引用資料がふんだんで、大変読み応えがありました。

で、今井ですが。
1841年、江戸湯島天神下で生まれ、武芸一点張り、直心影流を18歳から学んで、3年でで免許皆伝、それで幕府講武所の師範というから相当な剣豪。得意手の「片手打ち」は、面の上から相手の頭蓋骨を割って即死させてしまったため、禁じ手とされていたという。殺人剣の持ち主。幕末の剣豪伝はたくさんあるようですが、その中でも相当上に食い込むのではないかと。入門当時から「甚だ粗暴」で、皆相手になるのを嫌がってたとのこと。
「免許とか目録とか言う人たちを切るのは素人を切るよりはるかに容易、剣術なぞは倣わないほうが安全」とか言い切ってる。
横浜で神奈川奉行所の配下として、密輸取締りをしていたのですが、一回に一月の手当てを浪費して、一文無しになり、風呂にも入れなかったので海水浴していた、ということ。この調子が箱館までずっと続きます。型破り、野人的で、水滸伝の魯智深があだ名だったらしい。

この横浜で、同じ奉行所で関税の仕事をしていた古屋と出会うわけですが。この本で紹介されている古屋との関係が、またイイのです。そこかしこで強調されています。古屋と横浜でのめぐり会いが「結婚にも劣らぬ重大な影響を今後に与える」など言われています。
「年からいっても信朗より八歳長上であり、世の裏表も知り尽くした古屋ほど、当時の気負いに気負いに気負い、怖い者知らずの信郎にとって、よき兄貴分は他になかったであろう」はともかく。「二人は横浜で互いに一目惚れというか、忽ち意気投合してしまったらしい」なんて子孫公認。

余談ながら、古屋が訳した「歩兵操典」について、印刷のための木版は、関東大震災にも焼け残ったのに、木版を軒先においておいたばかりに、その後復興に際して、近所の人たちが建付の材料に使ってしまって、終に分からなくなってしまった、とのこと…。…こういう役に立ち方もあるんですかね…。
圭介の金属活字は、きっと鉄砲の弾に戻されたことでしょう…

それから慶応3年5月に江戸に呼び戻された今井は、京都見廻組に命じられます。旅費が支給されなくて半年ぐらい赴任が後になったらしい。すでに結婚していて、妻のいわ、長女のりゆうを伴って京都へ。この時27歳。七十俵六人扶持。着任後見廻組与力頭に。警部か警視正クラスとのこと。
見廻組は幕府の京都守護警察組織で、月々200人ほど。統括は京都守護職の松平容保。

それで坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺事件につながるわけですが、これに関しては、自分自身の回想もなく家族に何も伝えず何も書いていない。報知新聞には「もっぱら見張りと家人らの取り静めが役目で直接手を下してはいない」と語ったとのこと。家伝では一番手で斬ったことになっている。それで、著者は、土佐側の各資料と家伝から、現場検証や考察を行い、比較さていますが、様々な矛盾が生じて、かえって謎が増えてしまった感じでした。

それで、鳥羽伏見の戦いへ突入し、戊辰戦争の幕が明けます。
ここから伝習隊との付き合いも始まるわけですが。
長くなってしまったのでとりあえず切ります。
圭介との関連をさくっと述べて終わろうと思ったのに。いつもシンプルに終わらせるということが出来ない奴。
posted by 入潮 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。