2007年02月22日

維新期の兵式 その5 新政府陸軍と大鳥圭介訳書

続き行きます。

昨日の戦闘配置図はこちら。(クリックすると大きくなります)
地名が多いので、地図がないと何がなにやらという感じでした。

koyama.gif

さて、旧来の密集隊形に対して無敵に見える後装式施条銃の散兵戦術ですが、致命的な欠点があります。

熟練した兵を要求すること。
そして、弾薬の消耗が早いことです。

まず兵。撒兵戦術では、重い小銃を担いだまま、野戦で数kmを走り回る体力が必須です。なんたら流の剣道槍術よりも、まず体力です。薮や泥濘を走っても疲れない、そして銃砲の扱いに長け、複雑な命令を理解して的確に動き隊列を組める兵は貴重です。それを育てるためには、数ヶ月という訓練期間を要します。予備兵力がない限り、特に大鳥のような流浪の軍にとっては、一度消耗すると補充するのは至難の業になります。

そして、弾薬の消耗。これは、装填速度の速さという利点ゆえに生じる、諸刃の剣です。豊富な弾薬の補給、しっかりした兵站が存在しなければ、後装式施条銃を用いた戦術は成り立ちません。

兵と弾薬の補給線が確立してこそ、撒兵戦術は生きます。

大鳥はこの欠点を承知しており、弾薬の手配には常に気を配り頭を痛めています。江戸で弾薬は用意していたが持出しが出来なかったり、これを送らせたけれども届かなかったり、宇都宮で人を日光に派遣し5000発作ったけれども実用のものができなかったり。確保には相当苦労しました。今市以降、会津の指揮系統下に入ったのも、この弾薬不足が大きく、会津に補給を頼らざるを得なかった点があります。(シャスポーのカートリッジは特殊なので、互換性はどうだったのかという疑問はある。あるいはやむをえなく汎用ミニエー銃を使用した時期も多かったかもしれない)
藤原の帯陣中に横地秀次郎が江戸から弾薬を届け、ようやく安心できました。また、箱館でも自作した様子があります。
兵も、実戦の渦中にありながら、会津や箱館で農兵や徴募兵の訓練を施していました。

また、実戦段階において、撒兵戦術が可能な条件は、以下の通り。

(1) 後装式施条銃と豊富な弾薬
(2) 兵の士気の高さ
(3) 兵の熟練度の高さ、ラッパによる統制された行動

これを考えると、大鳥のあり方がよく理解できる気がします。

撒兵戦術では、逃げる者は斬るなどと脅しつけていたら、斬る前に兵に逃げられます。それまでの密集隊形では通用していた「敵よりも味方の士官の剣を恐れよ」という恐怖による支配が、通用しなくなります。

それで、補給に気を配り、兵や士官の死者を一人一人数え記録し、負けて笑うという大鳥のあり方は、この撒兵戦術の必要性に見事に合致します。

熟練の兵を必要とするということは、兵一人一人の命の価値が上がります。
最低数ヶ月は訓練期間に必要。良い兵を作るには、金と時間がかかります。
そこから、良い将校とは兵を生かして返す将だという、人道的考え方も生まれた、という面もありました。
無論それが、命を守るのは良いことだという人間の感情にも合致したわけですが。

(戦争から人道主義が生まれたというと、安全な国で育った平和主義世代の方々には違和感が大きいかもしれませんが、世の中そんなものです。今も中国やら南アジアやらを見ると、人海戦術という言葉が通用し、人間の命は安いです。建設現場にいるとひしひしとそれを感じます…。)

また、大鳥が負けて泰然と笑うというのは、無論、能天気で楽天的な人間だからでは決してない。
撒兵戦術に不可欠な、兵の士気の高さを維持するため。兵の意気を挫けさせないために、いわば大鳥は自分でピエロになった。

諸藩は、確かにスナイドル銃など後装式を備えている隊もあるけれども、散兵の教本が行き渡っているところは少ないので、訓練は不十分。せいぜい、前装式戦術の、密集隊形に補助された歩哨的な散兵しか運用できない。
全員散兵で、ばらばら挑んでくる大鳥伝習隊は、新政府軍諸藩にとって恐怖だったでしょう。

小山の戦いが新政府軍に与えた衝撃は大きかったでした。

「圭介善ク兵ヲ用ヒ、操縦自在臂ノ指ヲ使フガ如ク、部下精鋭、沸人二就テ伝習スルモノ多ケレバ、向フ所官軍ヲ窘ム、官軍或ハ圭介ヲ稱シ、隠然一敵国トナス」(「近世事情」維新日誌収録、発刊は明治6〜9年)

「明治元年四月十七日、常陸結城の役に弾丸飛来て公の着せる陣羽織の袖を貫きたり。其の時公陣羽織の裏を示し衆人に謂て曰く、今日は即ち先主家康公の命日なり。故に我此危難を免れたり。若し此事昨日か明日なれば我れ必ず其弾丸の為に死なん。然るに幸にして家康公の命日に際し其弾丸の吾が身体に当たらざるは、是れ勝戦の前兆なり。来ざや進めと号令を掛けつつ、先陣に進み、以て其役に大勝を得たりと云ふ。嗚呼此れと云ひ彼れと云ひ、公の所為は実に非常の豪傑たるの振舞なり」(「明治六雄八将伝」木滝清類著、明治16年)

「敵兵(大鳥軍)地理を諳(そらん)じ、殊に大鳥の軍略に長ずるあり。官軍屡(しばし)ば利を失ふ。因りて今市駅に退く。大鳥奇計に長じ、且兵剽悍」(「絵本近世太平記」明治21年6月)

…大鳥が兵を使うことは、肘が指を使う如くに自在である、向かうところで官軍を苦しめた、官軍は大鳥を一敵国とみなした、など、異口同音に伝わる話は、枚挙に暇がありません。
後装式散兵術を駆使した伝習隊は、言ってみれば未知の新兵器を携えた得体の知れない存在。しかも首脳部には大鳥の訳した書で学び、あるいは直接教えを受けた将官があちこちにいました。


さて、ここで思い起されるのが、戊辰戦後の、帝国陸軍創世期における兵式の改革。
陸軍は、それまで新政府が拠っていた英国式ではなく、まして蘭式でもなく、フランス式を正式な兵式として採用しました。

フランス式採用の理由は、フランス式の教本が、「演習教練の指導に関する懇切な心得、指針、解説の諸事項」が多く含まれており、常備兵の根幹となる歩兵の編成や教練を施すのに利便性の高い優れたものだったということが大きかったとのこと。また、「旧幕府時代よりの両国間の深厚なる交誼と既に国軍に扶植せられたる仏語知識の深かりしに起因せる」(陸軍教育史) という理由でもありました。

なお、恭順した西丸下屯所、三番町屯所の伝習隊は、その大部分が維新政府に移管され、陸軍の直轄部隊に組み込まれました。そのうちの二中隊は、「帰正隊」として、官軍として奥州・蝦夷の戦場に赴いています。ネット情報ですが、この帰正隊、どうやら官軍にあって、かつての同士の旧幕脱走兵とも戦う羽目になったとのこと。彼らのほうが心情的には辛かったでしょうな…。
なお、この恭順した伝習隊2400名のうち1200名は新政府政府の管轄下に入り、第二連隊を経て鎮台の一番・二番大隊として残されました。
伝習隊自身が、敵味方に分かれた惨事になりましたが、一方で戦国の真田氏のように、親子で敵味方に分かれ生き残りを図ったのと同じ意図を感じないでもないです。
ここでも、洋学者と同じく、分裂による技術継承の系譜が見られる気がします。

いずれにせよ、新政府の陸軍のフランス式の採用は、旧幕時代の遺産を引き継いだものであるといえるでしょう。

諸藩の兵式は当時ばらばらで、戦術単位で三カ国の兵式が並存しているのは大きな問題でした。これを統一するのが課題でした。また、ひとたびフランス式の採用を決定したとしても、フランス語の修得者の数が少なく、歩兵教練書以外の必要な教練書の翻訳が進んでいなかったことも問題でした。そこで、三兵戦術の理論面はオランダ式と折衷するという過程もとられました。つまり、理屈は蘭式、実践的教練はフランス式を採ったという時期がありました。

さらに、フランス式後装式シャスポーは当時国内にも3000挺程度しかなく、しばらくは前装式ミニエー銃を代替として用いていました。銃器・兵式双方の後装式銃への更新は、大きな課題となりました。

その後、明治5年11月、16人から成るフランス軍事顧問団の来日が実現しました。そして、明治8年、フランスのサンシール士官学校を模範とする陸軍士官学校が発足。日本陸軍は本格的にフランス式に統一されることになります。

さて、この時に使用された、官版「歩兵程式」が思い出されます。前半の前装式施条銃パートは既に大鳥らによって翻訳されていましたが、後半の後装式パートが明治3年に兵学寮から出版されています。

後半部、訳者不明。

一方、戊辰戦争にて、当時まだ浸透していない新式の後装式撒兵戦術を駆使して、官軍を震え上がらせた存在があった。近代陸軍兵式を導入してきた泰斗であり、実戦においてもお手本的な戦闘を見せ付け、官軍・賊軍合わせても稀に見る数の実戦戦闘経験を有する人間がいた。そやつが、牢屋の中でヒマそうに、うじうじと日々を潰している。

大鳥が最初に糾問されたとき、糾問掛の小栗が聞いてくる。「兼て翻訳せし書類中にて、某々の書ありや否やを聞けり。余答て曰、去年混乱脱走家屋も其儘筆墨書籍抔も捨置たれば、今は種々の草稿も多分紛失せしならん、と」(南柯紀行)

兼ねて翻訳してきた書のなかに、某々の書はないかと聞いてくる。去年脱走のときの混乱で、家も書籍もそのまま捨て置いてきてしまったから、色々草稿があったけれども、今はもう紛失しているだろう、と大鳥、すげない答え。

…「某々の書」として、あの「歩兵程式」が入っていたかどうかを聞きたかったに違いない。なにせ前半パートは大鳥が翻訳した。後半は、確実に大鳥の頭の中に入っている。大鳥は、新政府軍にそれを嫌というほど実戦で見せ付けて震え上がらせたのだ。
大鳥が既に訳したものがどこかにあると新政府が期待していたとしても何もおかしくはない。

(ちなみに、「歩兵程式」は、名前が削られながらも、沼津兵学校でも用いられていた。
教官に採用した元脱走兵の履歴に、旧幕陸軍の経歴を一切認めなかったほどに新政府に遠慮していた沼津兵学校が。一旦刻印された訳者の名前を削ってでも、その訳書の中身を必要としていた。
また、旧幕のフランス式が、徳川藩沼津兵学校では旧採用されず、新政府陸軍に導入され生かされたたのも、皮肉な話だ)

いっそ新政府の彼らは、後半部パートを大鳥に依頼したかったに違いない。

けれども、囚人に与える労働は、懲罰として以外のものは認められないのが普通。遣り甲斐や生きがいを感じるような業務は与えてはならない。何より、罪人に公的業務を任せるわけにはいかない。そもそも明日死罪になるともしれない逆賊の国事犯だ。だから、そういうことはまずありえなかったとは思いますが。

訳者不明。
人材不足になりふり構わぬ明治政府から。次世代の陸軍を担う訳書が、「訳者不明」で刊行されました。
当時の兵学書訳というのは、もう翻訳者にとっては花形業務。自分の名を上げるにはそれ以上の仕事は無い。
それなのに、訳者不明。

……ここで、あらぬ考えが頭をよぎります。

謎の差入人、植木屋藤兵衛の差し入れに、何も言わずに原書が入っていたりする。

(私は、牢内ニーズを知り尽くして日々差し入れを送り込み、一介の植木屋にまかないきれるとは思えない額の金銭や、ただの植木屋が手に入れられるはずのない陸軍毛布や、禁止されている紙や筆も平気で差し入れてくる謎の「植木屋藤兵衛」が、某薩摩の元弟子で元敵将であったと、信じて疑っていない)


月曜日: 「差し入れだ。やぁ、歩兵程式の原本。昔訳していたんだ。やりかけのまま脱走してしまってて、屋敷においてきてしまったけれども。懐かしいなぁ。…え、今から暇つぶしにやってみたらって?でも、紙も墨も乏しいし。ちょっと無理だねぇ」

火曜日:「また差し入れだ。…紙と墨と筆? これはありがたいなぁ。これで昨日の差し入れの本が訳せますね、って?うーん、でも、内容が分かっても、訳文は正確に行わないといけないから、辞書がないと苦しいなぁ。仏語は兵学関連しかくわしくないから、一般的な用語は弱いんだよ。蘭語ならまだ大丈夫なんだけれどね」

水曜日:「え、また差し入れ? ……仏蘭辞書か。この牢屋の会話ってどこかに筒抜けなんだろうか。まぁ隙間だらけだからねぇ…」

…などというような会話を、思わず想像してしまいました。

あるいは、宇都宮藩主戸田忠友の屋敷になってしまった(葛生さん調査感謝!)元大鳥屋敷から訳本草稿が無事発掘され、それが出回ったか。そっちのほうがありうるかもしれない。

ということで、「訳者不明」になっている訳書ですが、原書と照らし合わせて、他の大鳥の訳と比較しながら、訳のクセを一つ一つ紐解いてみたくなってしまう。大鳥、結構自分で造語を作っているので、対照するのは不可能ではないと思います。ヒマだったらやってみたいことです。フランス語をどうにかせねばなりませんが。
田辺良輔の「仏蘭西軽歩兵程式」はデジタルライブラリにあるのになー…

…すみません。完全に妄想レベルの話です。
だって詮索するなというほうが無理な話ではありませんか。
まぁ無いとは思いますけれども。

えんえんとやってきた「兵式」の締めくくりが、こんな馬鹿妄想ですみません。

いずれにしても、大鳥が導入してきた軍事技術が、新政府の陸軍にもちゃんと繋がっていたのだということが確認できて、満足でした。

ここまでお付き合い下さった方、もしいらっしゃいましたら、読んでくださってありがとうございました…。
posted by 入潮 at 07:01| Comment(2) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
いま幕末を勉強しています。
武井村の戦いあたり、全くはっきりしておりませんでしたが、この記事ですっきりしました。
ありがとうございました。
Posted by やましたやすひろ at 2013年01月06日 06:41
コメントありがとうございます。小山〜武井村周辺の連戦は、旧幕軍江戸脱走後の初戦ですが、戊辰戦争でも注目されることが少ないので、関心を持っていただけ嬉しいです。
Posted by 入潮 at 2013年01月10日 12:41
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