2007年03月09日

戊辰物語その3 新選組と土方歳三

以下、土方歳三は常勝将軍で、天才的な近代戦の指揮者で、箱館政権の中心的存在で、ヒーローでないとダメ、という方が読まれると、相当心情を害されるかと思います。
どのような評価になっていようと、実際に生きた土方歳三がどういう人物であったのか、こういう評価もある、ということを見ておきたいという方には、お目通しをいただければと思います。

「戊辰物語」ですが。
この中で新選組がかなりの枚数で取り上げられています。

大正デモクラシーの平穏のなかで、幕末剣戟ものの狂言、「月形半平太」が大流行して、チャンバラ映画が大人気だった。今の世を挙げるまでもなく、平和な世というのは刺激を求めて、反体制的なフィクション活劇モノが好まれるものですが。
そうした背景の中で、勤皇志士対新選組というテーマも注目を浴びてきたという点があったのでしょう。

それで、箱館戦争の土方についても述べられていました。

「土方は(近藤)勇の捕えられるとともに会津に走り、さらに函館へ行って榎本武揚の幕下に参じたが、後に武揚の、官軍と和するの意あるを知って極度に悲観し、合戦のために自ら危険なところへ出動して死を希うの風があった。
酒も飲まずろくろく食事もとらず、『ああ、わが輩は死に遅れた、もし官軍と和することあれば、地下に近藤に相見ゆるを得ない』と長歎し続け、明治2年5月11日の激戦で馬上弾丸に当たって戦死した。一説には自殺したとも言われる」

という記述がありました。

土方ファンの方は、何もこれに違和感を抱かないのだと思います。むしろ、これでこそ土方だということで、この麗しい記述ゆえに土方に惹かれたという方も多いのではないかと思います。

……こういってしまうのも心苦しいのですが、これを見て、違和感というか、異を唱えたいことが、滝のようにあふれてきてしまいました。

これを連載した東京日日新聞の記者に、かの子母澤寛がいました。
「新選組遺聞」「新選組物語」「新選組始末記」の新選組三部作を世に表して、新選組の存在性を一躍強めた方です。

子母澤氏の「新選組始末記」の緒言を見てみると、確かに、「ことしの春、私は私の仕事の上で『戊辰物語』という書の一部を書いた。その時にもやはり、この新選組の話だけは、本気になって書けたものである」とありました。
そして、「新選組始末記」の「六十五 宮古湾」の章にも、上の「戊辰物語」の記述と異口同音の表現がありました。

「新選組始末記」の発刊は「戊辰物語」と同じく昭和3年。
よって、「戊辰物語」上の記述が、子母澤氏による筆であるということは、疑いはないかと考えられます。

ステレオタイプの原画がここにあったのか、と思いました。

まず、「戊辰物語」の表記。

「武揚の官軍と和するの意」が、土方没日の5月11日より前に、榎本にあったというのは、明らかな、そして酷く失礼な誤謬ではないかと思います。

明治2年5月11日の箱館決戦は土方の命日でもありますが、それより前に降伏論は、あるにはありました。けれども、それを唱えていたのが確認できるのは、幹部では中島三郎助のみです。

「是迄蓋したらモウ沢山だ、此中には若い人もあるし、まだ二千余の人もあるから、是から先やつて居たら、どんなみつともないことが出来るか知らぬから、榎本だの大鳥だの大将分は、軍門に降伏して、皇裁を仰ぎ、外の者の為に謝罪するが宜しい」との中島の言。けれどもほかの幹部はその言葉は聞き入れなかった。官軍からの降伏勧告も相手にしなかった。(「史談会速記録」林董) ほか、榎本らが降伏論を取ろうとせず、官軍からの使者も受け入れなかったのは、箱館戦争の記録者なら羅列するまでもなくほとんどの人間が書いている。

そして、5月15日の千代ヶ岱陥落で、中島三郎助が千代が岱で壮絶な討ち死にを遂げた。そして、歩兵達が脱走して軍が瓦解して逃げていく。これがあって始めて、降伏するかどうかの論議がテーブルの上がった。けれども、榎本、松平、荒井はらみな頑として降伏という手段はとろうとしなかった。ここに押し入れで前後不覚に寝ていて起こされた大鳥が、疲労の寝ぼけ眼を擦りながら、中島三郎の意そのままの降伏の意思を表明した。これは大鳥の「老雄懐旧談」の言に明らか。

よって、少なくとも、5月11日箱館決戦その日まで、榎本は、官軍に膝を屈する気は皆無だった。

そして、いざ議論で降伏が決まった際、榎本が切腹しようとしたことは周知の通り。切腹は狂言だったという、得手勝手な邪推をする作家も世の中にはいますが。丸毛利恒の「感旧私史」をはじめ、その場に居合わせた当事者たちの筆を見れば、切腹の意が事実であることは明らかだ。彼らが榎本の行為に感銘をうけていたことは、胸に迫って判る。

そして、榎本ら降伏幹部は皆、降伏した時点では死を覚悟していました。獄中でも死刑の知らせを、血も枯れる思いで待ち続けていた。もしかして、と気は緩んだことも長い投獄期間の間には確かにあったけれども、基本的に明治5年1月5日の、赦免知らせの瞬間まで、彼らは自ら助かるということは知らなかったし、いつ殺されてもおかしくないと考えていた。

釈放されてからも、いくら官への任官を請願されても「武士は二君に仕えぬ」と、がんと断り続けていた(永井・大鳥を除いて)。新政府が彼らの能力を必要とし、世造りには彼らの新時代知識が必須だったから、彼らが折れて重い腰を上げたのにすぎない。

榎本が節を貫こうとしたことは、特に大鳥が、懐旧談にしろ、榎本死去時の新聞相手にしろ、本多晋をはじめとした旧友相手にしろ、ことある毎に語っています。出獄してさっさと仕官して、開拓使に大蔵省に内務省に陸軍省に工部省にと、省を貨ね渡り歩いた人間にとっては、節を守ろうとした男の話をするのに後ろめたさを感じてもおかしくはないのに、あたかも大鳥は榎本の名誉を守ろうとそこら中で振舞っています。

これらの根拠は、当人の言葉として、いくらでも挙げられます。

脱走した徳川武士にとって、その節を貫いたという事実は、どのような賊の汚名と不名誉にも耐える、何にも変えがたい誇りでしょう。けれども、その節を変じたと名を汚されても、敗軍の将の汚名を背に、なんら弁解の言葉を口にしなかった。それは、榎本、松平、永井、大鳥ら皆に共通する覚悟でした。

節を守ったというのは、彼らの確かな矜持でした。

そこに、榎本が、土方存命中の、まだ闘いが終わっていない時期に、「官軍と和するの意」があったとするのは、榎本の節を根拠なく辱めていることに他ならない。
そうした、侮辱を広めることに、一体何の益があるのか。

…それにより土方の悲劇性が強調され、キャラクターが引き立つ、というメリットでしょう。

なお、「官軍と和するの意」ですが、蝦夷に着いたばかり、松前攻略前の話なら、そういう表現もありかと思います。当初榎本らが目指したのは、静岡徳川藩のいわば飛び領地としての開拓で、その認可を新政府に求めたわけですので。

ただ、その場合、後に述べる土方の福島における言動が、この「官軍と和する」を前提にしたものとなり、子母澤氏の表現と激しく矛盾していることになります。

また、これに続く、土方の「合戦のために自ら危険なところへ出動して死を希うの風があった」という記述も、かなり疑問です。

これを言ってしまうと本当に失礼なことで、ファンの方に刺されるのも覚悟、というぐらいのものですが。

土方が、隊に先立って前線で部隊を実際に指揮していたという記述は、どうも当事者達の記録に見つけることができません。
丸毛が旧幕府の「近藤勇の伝」で、人物を飾る感じでそのようなことを書いていますが、ではいつどの戦いにおいてか、という具体的な表記は見つけられないでいます。

土方の活躍を描写するのに、現代の記述では必ずといって良いほど二股の戦いが出てきます。たしかに「土方隊」が峠を守り通したということで、その奮戦を称える声が無い史料はないと言ってもいい。けれども、史料で称えられているのは「土方隊」の活躍であって、土方自身の行動ではない。

そこにいた当事者としては、今井信郎や大川正次郎ら各隊長の記録がありますが、彼らは土方が総督だったという事実しか言及していない。「又寡ヲ以大敵ニ当リ動カサルハ是土方君ノ力也」(戊辰戦争見聞略記)という記録もありますが、新選組内部でだけその活躍が抽象的に喧伝されている感じ。大野右仲の記録では具体的な行動が出ていますが、隊を率いて前線で戦ったというような記述は無い。かろうじて島田魁の日記に後方にいたことが記されているのみでした。

そして、二股の戦いで土方が実際に活躍していたのなら、その後は、さぞ彼が頼りにされただろう、と思うのですが。

二股戦の後に行われた、七重浜の夜襲の連戦。夜な夜な、泥濘の三連戦が行われました。夜襲といえど、特に三戦目は100名を超える死者をだした、戊辰戦争でもかなり大規模な部類の戦いです。後方にあった人間も直訴して戦いに臨んだ様子が描かれています。

けれども、これに土方が出陣した様子は無い。大鳥、今井、丸毛、小杉、石川忠恕、玉置弥五左衛門、荒井宣行ら、この連戦に参加したどの人間の言・記録を見ても、土方が参加したというのは見当たらない。大鳥と本多・大川・今井らは、先頭きって3回ともに泥沼化したゲリラ戦を前線指揮していましたが(今井は2回)、土方はいずれの戦闘にも参加していなかった模様。

更に、5月11日の箱館決戦。大鳥・本多・大川・春日・人見・二関ら、奉行や各隊長たちは、明け方3時から七重浜・有川・大川の防衛線に詰めて、早暁から戦闘を開始したわけですが。土方は、箱館山の寒川から官軍が攻めてきて、箱館の街が陥落するまで、五稜郭(或いは箱館?)待機だった。つまりは予備兵力扱いだったと見える。
このあたりがどうも腑に落ちない。

ということで、以下、土方が活躍したとされる、宮古湾海戦、二股、福島・松前の戦いについて触れてみます。


● 宮古湾海戦

土方の活躍によく含まれる宮古湾海戦ですが。
子母澤氏の「新選組始末記」には以下の通り。

「歳三は、わが海戦史上、壮烈前後にないだろうと言われる南部宮古湾の激戦なるものを演じた。…土方は函館全軍大評定の席上、この(甲鉄艦の)乗っ取りを力説し、三月二十一日の夕刻、函館脱走兵の中から精兵を選抜してこれを回天を旗艦として、蟠龍高雄二艘へ乗せ、掛川藩出身の傑物甲賀源吾を艦長として官軍奉行荒井郁之助も参加して、決死の覚悟を以って函館を抜錨した」

あたかも、土方が甲鉄艦奪取を思いつき主張し、計画し、人選したかのような書きぶりです。
この記述は魅力的だったようで、「燃えよ剣」も土方の発案のように書いています。この子母澤記述に基づいたものと思われます。

また、「甲鉄艦が七席の軍艦に守られて堂々としているのを発見して、土方は手を打って喜び、盛んに蒸気を焚かせて、遮二無二突進し」とか「土方は機関士を励まして、乗り寄せよ乗り寄せよと言う」とか、具体的な行動の記述も、「新選組始末記」にはあります。

けれども、これを裏づけする史料が見当たらない。

宮古湾襲撃に至る過程を描いたもの中では、「フランス人の幕末維新」(有隣新書)がかなり詳細かと思います。甲鉄艦、春日艦含む敵艦八隻が宮古に集合しているという報を受けた際の、フランス下士官のコラッシュの談。

「そこで討議されたのは、不意打ちに出るべきではないか、即ち守勢に回らずに攻撃に出てはどうか、という問題である。しかしそうなると実際に我々の艦船を引き連れていかねば成らず、ということは島を防御する一番の手立てを失うことになってしまうのである。また、他方、敵艦を打ち砕き、全く我々を攻撃できなくすることにはどれほどの利点があることであろうか。この問題は、二コール、マルラン、フォルタン、日本人海軍奉行の荒井郁之助、回天の司令官、それに私のあいだで、あらゆる面から慎重に議論された。その結果、全員一致で、われわれの軍艦三隻で敵の艦隊を打って出ることに決定した」

つまり、宮古湾襲撃の計画策定に当たっていたのは、フランス士官・下士官と、荒井・甲賀であり、土方の名前は出てこない。

「これら艦船にはそれぞれの乗組員のほかに、陸兵を数人ずつ乗り込ませることになった。彼らにはアボルダージュ(横付け)する際、白兵戦で活躍してくれるに違いないからである」

ということで、白兵戦の必要において、剣戟に慣れていた彰義隊、新選組、土方の面々が選出されたということのようです。

ちなみに。ブリュネはこの会議には加わっていませんでした。

「特使がブリュネ氏のもとに派遣された。この件を伝え、会議の結果を知らせて、承認を受けるためである。ただちに、計画に全面的に同意する胸の返答が届き、あとは出発するばかりとなった。ところが、われわれは、傲慢ひとかたならぬ海軍奉行を考慮に入れていなかった。奉行は、相談を受けなかったことに立腹し、あれやこれやと口実を設けてなんとか出発を遅らそうとしてきたのである。しかし、ブリュネ氏が急いでとりなし、反対すればどのような危険が生じかねないかを彼に納得させ、その場を切り抜けることができた」

とあります。

この反対した「海軍奉行」ですが、前にあろあさんもご指摘されていましたが、自分も「陸軍奉行」の間違いではないかと思います。荒井は計画の議論に加わっていましたし。榎本、松平共に賛成で、出発前に激励に船に訪れたりしていますので。

それに、大鳥は二月頭から三月中旬まで、ブリュネとともに江差松前方面に巡視と台場構築に回っていました。宮古湾襲撃が3月20日出発だったので、その前の会議に大鳥の帰郭が間に合わなかった可能性は高いです。

大鳥としては、自分の管轄下の大事な歩兵を、勝手に危険極まりない目にあわせられてたまるか、というところでしょう。
しかも盗賊海賊まがいのことをして、成功したところでどれほどの持続性があるか。
けれども、恩師ブリュネさんの言うことならしぶしぶ聞かざるを得なかった、というところでしょうか。
なお、宮古湾に加わった陸兵には、伝習隊も衝鋒隊も一連隊も、旧幕の陸軍伝習を受けた兵は加わっていない。

大鳥自身、南柯紀行には、ただ行われたことを淡々と書いています。面白くないことは一切感情を交えず淡々と事実のみ書くのが、この人ですが。

それで、反対するとどのように危険だったのか。コラッシュさん、そこのところをもう少し詳しく述べて欲しかった。…もとい。

宮古湾海戦を描いた記録で詳細なものは、ほかに、安藤太郎の「美耶古能波奈誌」(函館市立図書館蔵)があります。安藤は宮古湾海戦の直接の参加者で、海戦で負傷しています。その記述は詳細で定評が高いようで、丸毛利恒「北州新話」や鈴木金二郎の「函館記事」も、彼の記述を参照しています。安藤の描写もコラッシュの描写に矛盾しません。それで、宮古湾開戦の起こりとしては。

「征伐の師江戸を発し水軍は已に途上に在るの報を得たりければ衆議之を途上に要してその不意を撃ち我国有名の装(甲)鉄を奪わんと要せり」

衆議で決まったと述べるのみです。
そして、彼の豊かな戦闘描写の中にも、土方については一言も書かれていません。描写があるのは、荒井と甲賀が中心、あとは二コール、それと死者の大塚浪次郎や野村利三郎らです。
ほかに宮古湾海戦の様子が詳しい記録に「蝦夷錦」「説夢録」「天極記」などがありますが、これらにも、土方はそこにいた者として名前が羅列されているのみ。

つまり、当事者達の記録からは、土方は、乗組員として加わって居たというだけしか読み取れず、何をしていたか、どういう活躍だったか、というのは、自分の見てきたものからは、さっぱりなのです。ほかに何か根拠があるのかもしれませんが、どうも私には見つけることができません。



● 福島・松前の戦い。

福島・松前の戦いも、よく土方が近代戦術士官としての実力を見せ付けたとしてよく描かれています。

こう言ってしまってはそこで身を散らせた方々に申し訳ないのですが。相手の松前藩士は旧装備でろくに施条銃戦術の訓練は受けていないし、城はごり押しで攻めたわけだし、野戦は強力な海軍の援護がありましたし、武器も兵員数も圧倒的に脱走軍側のほうが有利だったわけで。そんなに難しい戦いでも、新しい戦術が示された戦いでもなかったと思います。言ってしまえば、勝って当たり前の戦いであり、当時の各隊の隊長クラスの誰が率いていても結果は同じではなかったかと。(そしてこういう勝ちの見える戦いには出てこないのが大鳥。)

一つ面白い史料があります。「渋谷十郎事蹟書」という記録です。「福島町史通説編」収録。

松前藩江戸屋敷の家老遠藤又左衞門らが、佐幕派家臣誅殺のため出張し、その目的を終えて箱館に帰って来たのですが。その一行の中に、渋谷十郎という方がいました。彼が、旧幕軍がやってきた際、泉沢にて、首を取られる前にということで降伏してきています。
渋谷は土方や松平と面談しており、土方から木古内にいる渋沢成一郎への書状を持って、旧幕軍の囲みの中を松前藩の福島城へ向けて出発しています。

ちょっと長いですが、引用します。

「仝廿七日陸軍副隊長土方歳三馬乘ニテ旅宿ヘ訪来ル。 余友安田純一郎之ヲ一室ニ請シ定テ、歳三曰ク『各々我等ニ面会ヲ望ムハ如何ナル事情ナルヤ、』余等応テ曰ク『余等去八月中内奸剪除ノ命ヲ受ケ、京都并ニ江戸邸ニ於テ其所置ヲ遂ケ、 復命ノ爲本月廿三日横浜ヲ発シ、一昨夜入港スルニ豈科ヤハカラン、今般ノ事変、 殊ニハ本藩ノ兵隊、既ニ大野口ニ於テ貴方ト交戦ノ趣、 今又貴方ノ先陣巳ニ茂邊地ヘ出張セリトテト聞ク、如期道路要塞ノ上、譬ヒ微服潜行セントテ、万一捕獲ニ逢フ時ハ一身ノ恥辱ト藩名ヲ汚スヲ如何セン、 故ニ断然首出ス、 希クハ武士ノ情ケ臣子ノ裏情愍察アランヲ乞フ、 各々ニ於テモ弾丸雨注ノ間戦地ノ経歴シ来タルハ亦其君ノ爲メニ尽ス所ナラスヤ、 今余等カ生命爰ニ迫マレリ助クルト否トハ君等ノ欲スル所ノ侭ナリ、 伏テ願ハクハ、 ノ籠中ヲ脱シ一去復命スルヲ得ハ実ニ再生ノ高恩ナリト、 歳三曰ク各々陳言スル所ニ虚説ナラサルヘシ、 雖然今ヤ貴藩ト戦端ヲ開ケリ全体以テ之ヲ処セハ如期寛大ニ差置ヘキニアラサレトモ、 譬ヒ各々ヲ捕ヘ断頭ニ処セシトテ敢テ思ヒニ快然ナルモ非ス、 何レニモ隊長松平ト評議ノ上差図ニ及フヘキ旨挨拶シテ去ル」

明治元年11月27日のことです。渋谷、自分達の命は、旧幕軍の欲するままだが、ここから脱して、松前藩に復命させてもらいたいとの言。それに土方は、すでに松前藩と戦端を開いている、たとえ一人一人の首を切ってもそんなに愉快なことではない。これは松平と相談してから上から指図に及ぶことだと挨拶をして去っていった。

翌日28日に松平が来て面談します。「 松平太郎玄関上面ニ在リ、 土方歳三左側ニ陪席ス」とあります。有川、泉沢で、松前藩と旧幕が戦闘に及んだ旨を述べました。この後、渋谷は、安田、小林らに脱走軍の挙動を知内に知らせさせます。その後、彼は土方を再び訪問し、一晩中語り合っています。このときの土方の言。

「歳三余ヲ奥敷ニ伴ヒ、 従容語テ曰ク、『我徒先般鷲木村ヘ揚陸セシハ固ヨリ戦事ヲ好ムニ非ス、 凾館惣督府ヘ懇願ノ次第有之其故如何トナレハ、既ニ奥羽連合ノ諸藩朝廷ヘ謝罪降伏セシヨリ、 我徒戦略士人牾施スヘキノ術ナキヲ以テ、仙台侯ニ迫リ、 朝廷ヱ謝罪寛大ノ典ニ預ランヲ只管懇願スト雖モ、 敢テ許容ノ色アラス、却テ我徒ヲ放遂セントノ動静アルヲ窺ヒ、 頓ニ彼地ヲ脱シテ北海ニ来リ、 開拓十分ノ成功ヲ遂ケ前罪ヲ贖ハント欲ス、豈科ヤ、督府ノ兵隊俄然トシテ襲撃、一時論説ヲ以テ禦ク旨キニ非レハ、 武門ノ習ヒ不得止接戦ノ処、 却テ勝利ヲ得ルニ至ル、是レ果シテ我徒ノ幸ナルカ將タ不幸ナルカ未タ知ル可カラス、 然リト雖モ、 苟モ兵力ヲ以テノ地ヲ掌握セシ以上ハ、 我徒ノ措置前日ノ思考ヲ以テスルノ類ニ非ス、 今我兵三千アリ、 益兵伏ヲ調ヒ大ニ運粮ヲ続カハ全島ノ平定ニ旬ヲ過キス、 其餘勇ヲ奥羽越振ハン掌中ニアリテ存ス、 唯リ南端松前氏アリテ孤守ス、抑モ先公豆州公殿ハ徳川家ニ於テ閣老タリ、 而シテ其勲績アルモ亦私徒ノ能ク知ル所ナリ、 然ルニ当志摩殿ノ存慮如何ナル持論アリテカ、大野ニ出兵セラレシヤ聞ク、子モ亦役員ニ列セリト請フ、 其藩論ヲ聴カン』ト」

土方の言葉ですが。
鷲木村へ上陸したが、もとより戦いは好むところではない。ここへ来たのは、箱館総督府へ懇願するためだ。すでに奥羽連合は朝廷へ謝罪降伏した。自分達はこれ以上抗えないので、仙台侯に迫って、朝廷へ謝罪し寛大な処置を請わんと懇願したけれども、許容される風はなく、仙台には自分達を放逐しようと動きがあった。であるので仙台を脱して北海道に至り、開拓を十分成功させて、自分達の罪をあがなおうとした。それなのに、新政府の総督の兵隊(松前藩)は依然として我等を襲撃してきて、対話をもって解決できるような事態ではなかったので、武門の習いということでやむを得ず接戦に及び、勝利してしまった。これが幸いだったのか不幸だったのかは分からない。けれどもいやしくも兵力でこの地を掌握した以上は、以前のような思考をそのまま持ち続けるわけにもいかない。今われらに兵は三千ある。この兵を用いて糧食も続けば、全島を平定するのはすぐだ。その勇をもって奥羽を振るわせようと思う。その中、独り松前氏のみがこれを守っている。いやしくも松前氏の先代は徳川家の閣老だった。その功績は自分達も良く知っている。それで志摩殿(松前候)はどうお考えで大野で兵を出してきたのか。その藩論を聞きたい。

「依テ土方ノ室ヲ出テ宿ニ帰レハ巳ニ鶏鳴ナリ」

と、渋谷さんは土方と明け方まで語っていたようです。

土方の言、ずいぶんと穏健な言い分に見えます。少なくとも、悲観して自殺同然の戦いをしたと言われる人の言動とは思えません。箱館政権の意思にまったく矛盾はありません。

…土方って、仙台での諸侯の会議で、生殺与奪の権を要求しながら、軍事を率いる弁を講じたのでは無かったでしたっけ。そういうことを言うから「放逐」になったのかと思うのだけれども…というのは置いておいて。

自分達は開拓をして成功させて、官軍に逆らった罪を贖おうとしたのだ、と。そこに松前藩が攻撃してきたから、やむを得ず戦ったのだと。松前藩はどう考えているのか、と。
そして、「もとより戦いは好むところではない」というのは、南柯紀行で何回も出てきている言葉です。この言動だけ見ていると、大鳥と土方は、かなり方針や志向は合致していたのかな、と思えます。

…今まで散々メディアで語られてきた姿とは矛盾していることは確かですが。子母沢寛氏の表現にも、まったく合致しませんが。

土方が自分に、もはや官軍と戦い死ぬしかない、という確たる意思がありつつ、榎本たちを政治的に邪魔してはいけないと、この場では彼らの意を代弁したにすぎなかったのかもしれません。土方に夢を抱いていたらそういう解釈もありかと思います。ただ、そこまで大人でいられるのもどうかな、という気もします。

単に、榎本や松平が述べた言を繰り返しているのかも知れませんが。明け方まで延々と渋谷さんと語りあっているのですから、これらの言に、ある程度土方の本意も含まれていると見てよいのではないか、とも思えます。

とすると、「もし官軍と和することあれば、地下に近藤に相見ゆるを得ないと長歎し続けた」という子母澤氏の記述も、どうも本当だったのか怪しくなってきます。この言が箱館の土方を土方たらしめていると言ってよいほどで、ファンの方の間でも特に好まれている記述かと思いますが。上の土方の言動をそのまま見ると、少なくとも向こうが攻撃してきたから仕方なく戦になった、というスタンスなので、「官軍と和する」まで行かなくても、松前藩が開拓を認めればそれでよし、という姿勢だった。なので、この表記までも疑わしくなってくる。

どちらにしても、土方がこの言の大意は、すでに発せられていた榎本の檄文に含まれていました。よって、土方が榎本らの意思に合致した行動をとったのは確かかと思います。

一方、この後、彰義隊分裂という事件が起こります。切腹騒ぎにまで及んだ結果、渋沢成一郎が小彰義隊として独立する。けれども、丸毛靭負の「感旧私史」を見ても、事態の収拾に走り回ったのはやはり松平太郎で、土方は一切記述に現れない。どうもこの件についても土方はノータッチだったらしい。

ということで、土方が松前方面を率いていたという役どころだったとしても、その意思決定や監督は、松平太郎にあったようです。



こうしたことを考え合わせると、土方は、陸軍の上に立つ人ではなく、あくまで自分の隊である新選組の管理しかしていない人だな、という印象です。
人見や酒井孫八郎などのさまざまな記録に「陸軍奉行並」ではなく「新選組隊長」と書かれていることからも、そのことが伺えます。 二股で一緒だった今井信郎すら役職を間違えている。(彼は軍規面も担当し、ワイルドな割りにその辺はきっちりしている人のはずなのだけれども) 大川に至っては名前だけあげてあとはスルーという扱い。(新選組に入った桑名の石井勇次郎は「陸軍奉行」としているけれども…)

こちらでもすでにつらつらやってしまっているのですが。
土方の管理は、新選組以外には及んでおらず、陸軍奉行並というのも肩書きに過ぎない感じがします。
防衛計画や、防衛設備設計施工や、人事や、組織訓練や、兵站準備や、火気配備計画といった、陸軍の管理者としての仕事をした形跡はまったくといっていいほど見当たらない。市中取締りの報償を石井に与えていたぐらいで。

仕事をしているとそれに関連した書簡がどこかに残っているもので、大鳥をはじめ箱館の他の奉行の方の文書はあちこちで見られるのですが、土方にはそうした書簡も、特に箱館のは見当たらない。上の渋谷氏には何らかの書簡を持たせたようですが。それも直接目にできない。あと、会津東辺史料に、土方が会津藩に母成敗戦後の援兵を請うた書簡があるのですが(亜樹さん、ご教示ありがとうございます)、それも「いつ」「どこへ」という5W1Hを欠いた抽象的な文書で、どのようにという指示でなく、解釈が分かれている。指揮者の書く文章としてはちょっとどうか、という感じ。あとはかろうじて、大鳥が松前の巡視結果と防衛について松平さんに宛て、「土方に回覧」としているぐらい。

なので、土方が陸軍奉行並という認識は、ほとんど当事者たちには無かったのではないかという印象を受けています。おそらく、五稜郭ではなく箱館に駐在していたという記録から見ても、新選組の旧来の職務である、町方の警備に、新選組と共に当たっていたのではないかと思います。軍務ではなく主に警察業務に従事していたのではないかと。


宮古湾襲撃についても、二股についても、土方の「活躍」には、こうした当事者の記録の裏づけのない描写が巷に多すぎると感じています。

私も土方歳三は好きです。嫌いだから貶めたいという私情があるのでは決して無い。メディアに見る彼の存在は掛け値なしに格好良いと思える。彼の描写が史料の中に見つかると、嬉しいです。むしろ好きだから、実際どうだったのか、ということが知りたい。

けれども、実のところ、具体的に土方を書いたものには、一度新選組の枠を出てしまうと、そう巡りあえない。書かれていないということは、こういうのも大変失礼なのですが、書かれるほどに他者に印象を与えてきたわけではないということではないか。少なくとも実際に書かれている人と比較すると、そう受け取らざるを得ない。

そうすると、その存在度は、陸軍隊の春日左衛門や、遊撃隊の伊庭八郎や、額兵隊の星恂太郎や、一連隊の松岡四郎次郎といった各隊長とせいぜい同格程度であって、陸軍奉行並といった統率者、指揮官としての具体的な行動の記録は見つからない。あくまで、箱館では多くの隊のうちの一つである新選組の隊長、という感じを受けています。全隊から見ればむしろ埋もれてしまうぐらい地味です。その新選組自体も、他隊の人間の筆では、羅列的に隊の名前が出てくる程度で、箱館では大して印象は大きくはない。箱館の主力は伝習隊と衝鋒隊、あとは彰義隊、額兵隊、遊撃隊、一連隊…という感じで。新選組はそれらの存在に対しては印象が薄い。土方はその新選組の内輪では慕われていたが、一度その輪から出るとそんなに飛びぬけて目だった存在でもない、という感じです。

確かに、鳥羽伏見の戦いでは結構いろんな方の記録に新選組の活躍を見ることができます。けれども、旧幕軍の江戸脱走以降は、新選組は、出てきても全体像の中ではかすんでいる。実際いた人の記録でも、そこに新選組がいても、名前を省略していたり、羅列程度に示していることがほとんど。ただ、新選組の一員、内部の人はさすがに自分達のことなので記録していて、そればかりが我々の目に付きやすいメディアで頻繁に取り上げられているにすぎない感じです。

大鳥の記録は、旧幕側で、詳細さ、正確さについて定評があり、同時代から現在までさまざまな形で引用されていますが。日付ぐらいはよく違っていますけれども。その大鳥の記録にも新選組や土方は名前の羅列、記号程度にしか出てきていない。新選組や土方を目当てに南柯紀行を読んで、「え?それだけ?」と拍子抜けした方はけっこういらっしゃるのではないだろうか。私は拍子抜けした。それが疑問の始まりだったりするわけなのですが。

大鳥が土方に何らかの感情を持っていて、思い出すのも辛いとか不快だとかの理由があり、わざと記さなかったのではないかということも考えましたが。特にそういうわけではなく、当事者の記録と照らし合わせていくと、大鳥の感覚は別にそんなに他の人と違うわけではないと感じられる。後年の回顧談にもほとんど出てこない。

大鳥のように、現在のメディア業界で示されている像よりも、実像のほうがはるかにプラスの方向に再評価できる場合は、述べていてとても楽しいですが。その逆の場合は、読んでくださる方の心情を害することにもなり、本当に心苦しいところです。

ただ、もちろん、自分の見たものは然程のものではない、なんら網羅したわけではない、というのはあります。まだ特に官軍側の各藩の記録などは直接当たっていないのも多いですし、会津資料なども有名どころしか知らないです。

自分は歴史を専攻したこともなければましてそれを生業にしたこともない。それどころか日本史は中学生程度の知識しかない、歴史はまったくの門外漢です。

そういった有様なので、別に自分の言うことが正しいのだ、などということを主張する気はまったくありません。ただ、どの辺ををみて、モノを言っているのだ、という疑問も持たれることかと思いますので、一応当事者の記録が入っているものとして目を通したものは、以下の通りです。

「旧幕府」、「同方会誌」、「復古記」、「太政官日誌」、「南柯紀行」・「名家談叢・実歴史談」・「老雄懐旧談」・「自伝草稿(大鳥欄三郎・医事新報収録)」(大鳥圭介)、「北戦日誌」(浅田惟季) 、「泣血録」(桑名藩士中村武夫)、「心苦雑記」(凌霜隊・矢野原与七)、「伊地知正治日記」、「香川敬三事跡」、「慶應兵謀秘録」 (七連隊・源恵親)、「野奥戦争日記」 (伝習第二大隊の誰か、維新日誌収録)、「日光附近戦争及雑書書」(日光同心・平賀嘉久貼治)、「戊辰戦争見聞記」(石井勇次郎) 、「谷口四郎兵衛日記」、「麦叢録」・「雨窓紀聞」(小杉雅之進) 、「蝦夷之夢」・「北国戦争概略衝鉾隊之記」・「衝鋒隊戦記」(今井信郎) 、「北州新話」・「感旧私史」(丸毛利恒) 、「美家古廼波奈誌」(安藤太郎)、「一季の物語」(大塚霍之丞)、「浮世成行枕夢物語」(屋代淳之丞)、「胸中記」(野田大蔵)、「津軽藩と函館の役」(中村良之進)、「説夢録」(遊撃隊・石川忠恕)、「天極記」(著者不詳、おそらく海軍士官)、「東走始末」および「函館の役」および「日本軍人の伎倆進歩と戦捷」(高松凌雲)、「函館余音」「一世一夢」・「幕末裡面史」(寺澤正明)、「脱艦日記」(著者不詳、おそらく箱館海軍士官)、「後は昔の記」・「林董自叙伝」(林董)、「美加保丸の難破談」(山田昌邦)、「美家古廼波奈誌」(安藤太郎)、「幕府の軍艦蟠龍丸の記」(横井時庸)、「幕府の軍艦開陽丸の終始」(沢太郎左衛門)、「函館戦争日記」 (岩橋 新吾(教章))、「五稜郭及函館戦争」(著者不明)、「小野権之丞日記」「酒井孫八郎日記」、「後の鏡」(山内堤雲)、「瀧之屋日記」、「函館戦争」(官軍・朝陽艦長 中牟田倉之助)、「苟生日記」(杉浦清介)、「新選組史料集」・「続新選組史料集」(新人物往来社)、「箱館戦争史料集」、「会津戊辰戦争史料集」、「會津史」、「七年史」、「會津戊辰戦争史」、「近世事情」(維新日誌収録)、「死生の境」(林董、野田豁通、大鳥圭介他)、「史談会速記録」、「藤原町史資料編」、「大野藩史」「福島町史」「北海道文書間蔵 箱館奉行所文書」、等。

とりあえず手元にあるもの手当たり次第で。
他に良い史料があれば是非ご教示ください

ここで並べたのは世に存在する史料のほんの一部にすぎないと思います。世にはさまざまに埋もれている史料がさまざまにあると思います。何々家文書というような、日の目を見ないままに、崩し字のまま郷土史料としてお蔵入りになっているものも相当あると思います。

そして、一つの史料をみるにも、見落としも多いです。そもそも、一字一句暗記しながら読むということは到底不可能ですし。人により、その史料から何を受け取るかはまったく異なる。同じ史料を何回読んでも、毎回何かしら発見します。1回や2回読んだからってその史料の書いてあることすべてが頭に入るわけではない。

そして、史料を見れば、見る人の数だけ、注目したいところがあることでしょう。そこから何を自分の認識として取り入れるか、自分の価値判断の基準とするかは、人によって違う。いわば、「史料を見る人の数だけ、歴史がある」と言ってよいのではないかと。

けれども、いくつかの当事者の記録をそのまま読んでいれば、だいたい共通する出来事、人のあり方や存在性などがなんとなく分かってくる。そうした記録に共通する物事は、誰が読んでも同じように受ける認識が、スタンダードとしてあってよいと思う。

それで、こういったものを見てきて、戊辰戦争以降の新選組や土方については、そのスタンダードがどこにあるのか、よく分からない。現在、現代語で説明されている評論や解説書の表記が、戊辰戦争に関しては、どうも史料から受ける印象とだいぶ違う。具体的な記録をしているのが、新選組内部の人以外にあまりいないので。ただ新選組内部の資料だけで盛り上がっている感じを受ける。
それで、新選組とであった人の記録で、膨大な記録の中でほんの1,2行、外見とか印象を記しただけなのが、いかにも重要事項であったかのように、強調されて、そればかりまとめられて、加工されている。

新刊書籍や読本など、手に入りやすいメディアでは、その加工の像ばかりが流布されている。けれども、肝心な具体的な人物評価の根拠となるところが、実際に当事者の記録を当たってみると、ほとんど見つからない。見つかっても抽象的で、羅列的で、ぼやけている。
それなのに、「新選組は歴史上重要だ」「土方はヒーローだ」というような観念が先にあって、それに都合のいい記録ばかり抜き出されてまとめられて、ストーリーが作られている感じがある。その観念は、子母澤氏の三部作と、「燃えよ剣」から来ているもので、実在の人物の記録に基づいたものではない。

明治末期から大正時代にかけて、日露戦争も終わって世情が落ち着いてきた。日本国内はよりいっそう娯楽に刺激を求めるようになった。また、太平の世ほど、お上を否定し論う調子に迎合するものですが。特に、現体制に抗っていた、旧幕府、佐幕の草莽の士がもてはやされるようになった。

そうした存在が、事実に創作や脚色や捏造を重ねられて、大衆に受け入れられやすいようにきらびやかな装飾が課されるようになった。何が本当の事実だったか、ということは、芝居や本が売れるなら、この際どうでもいいといった風潮。事実とは何ぞやという歴史学など、学者に任せておけばいい。

そうした流れの中で、新選組や土方が、旧体制の滅びの美学を引きずって掘り起こされて注目されるようになったのではないか。

子母澤氏が、嘘やでっち上げを書いたとは思いたくはないです。事実を大衆に分かりやすく伝えるのがジャーナリストの仕事で、そのための加工は彼らの仕事であり、誇張は職業病だと言ってしまえばそうなのですが。
子母澤氏の筆にある記述は、実際に新選組の係累や関係者の口から出た言葉であるのだと思います。

新撰組当事者の残した記録でも、永倉新八の「新撰組顛末記」のように事実と誤謬が甚だしいものや、島田魁の日記のように主語述語が一貫せず文章表現の解釈に悩む、資料として用いるのに疑問があるものも、新撰組資料には多いです。残念ながら、歴史研究者がそれらを掘り出して自分の好きなように解釈してしまっているように見受けられるものもあります。

一方、新選組の内輪の記録や、新選組の当事者やその係累の証言に、どうも新選組自身の存在や土方の誇張が目立つのは、土方を死した英雄化することにより、自分たちのプレゼンスを高めたかったのではないか。こんな立派な人の下で働いたのだ、だから俺達も偉かったのだ、といいたい感情があったのではないかと思えます。

新知識や技術を持つ旧幕臣は、新政府から請われて出仕した。元賊軍ながら、手に職を持つ彼らには就職先があった。工兵しかり、武器弾薬製造しかし、散兵戦術しかり、測量製図しかり、錬兵しかり。能力のあるものは請われて職に就いたのは事実。明治7年には官員の1/3が旧幕臣だった。

一方で、こう言ってしまうのは大変失礼なことなのですが、旧来の能力と価値観にしがみついた人間達は、時代に必要とされる技能があまり身についていなかった。それで、就職するにしてもせいぜいが警察や警備員などで、社会的地位も高くなく、そう俸給の良い仕事には付けない。それを、「薩長政府だから」と政府のせいに責任転嫁をした。そして、言いにくいことだけれども、「薩長政府」に仕えているかつての戦友に対する嫉妬ににた感情が大きかったのではないか。それで、彼らの頭の中に、現状を正当化するために、自分たちの派閥に対する過去の美化と、そうでない者への貶めが、ストーリーとして作られたのではないか。自らの身を補償するために。

そして、そうした感情に基づいた懐古趣味にあふれた記述が、為政者を攻撃したい刺激を求める大衆のニーズに、ぴったりときたのではないか。

結局、誤解を恐れずに言ってしまうと、新選組や土方は、娯楽メディアの中でのみ存在感のあるものなのかなぁと思います。

そうして描かれた姿が、事実である、ということの保証は、皆無ではないですが、どうにも希薄だというのが、今のところの印象です。


そんな感じで。ファンの多い新選組・土方をこのように縮小方向へもっていってしまうのは、読んで下さる方の心情を害することだとはわかっているので、やりたいことでは決してないです。今まで何度か同じようなことはのたまいましたが、未だに怖くてこれでポストしていいのか、という気がしています。

ただ、娯楽メディアと実像とのギャップによる違和感は、調べれば調べるほど募っていく一方ですし。阿世をして自分の感覚を捻じ曲げることもできないでいます。

私も、彼らを貶めたいわけでは決して無いのです。

「新選組始末記」は、「確かな史実と豊かな巷説を現地踏査によって再構成した実録」と巻末にあります。こうしたあおりでは、読者は本の中の著述が事実であるとの認識を受けます。

根拠無く事実であるかのように人を貶めるのが言語道断なのは、無論のことですが。
根拠無く事実であるかのように人を飾り立てるのも、またその人にとって失礼な行いではないかと思うのです。
他者を貶めてでも自分の好みに飾り立てる。そういうことをされて果たして故人が喜ぶのだろうかと、疑問です。実物そのままでは足りないと言っているようなものではないかと。

等身大を等身大として認識し、その姿を描くほうが、よほど故人は嬉しいと思うものではないでしょうか。
嘘と虚像で塗り固められた姿を賛美されても、普通の良識ある人間なら、やめてくれよとうんざりして手を振るのではないかと思います。

歴史英雄物語が悪いと申すわけではありません。
ファンタジーをファンタジーとして記述するのは一向に良いかと思います。幻想によって人は癒しと満足を得ます。それはそれで、価値の在ることだと思います。ある人物をモデルに、架空を架空として描くのは、一つの創作スタイルとしてとても良いものなのではないかと思います。

けれども、ファンタジーをあたかも事実と認識させて書くのが、いかがなものかと思うのです。

私もファンタジーは大好きなのですが。
現実の人物は、人物実物ありのままが、いちばん濃いし魅力的だし格好いいと思っています。

「新選組始末記」の解説には、以下のように記述されています。

「子母澤寛はその真実の姿を掘り起こし、再評価することによって、隊士たちの鎮魂と権利請求を願ったのではなかったか」

彼自身の筆はともかく、それが原図の一つとなってもたらされた今のメディア業界の姿は、どうも土方の「鎮魂」になっているようには、感じられないでいます。


そういうわけで、大様の耳はロバの耳と、のたまってみました。
別にそれで、何かをどうかしたいというわけではないです。ただこういうことを感じている奴もいるのだな、ぐらいでお心収めいただけるとありがたいです。不快にさせてしまいましたら、本当に申し訳ございません。ご批判、反証など、ございましたら、甘んじてお受けいたします。

そして、今の自分の認識をひっくり返してくれるような資料があるのでしたらば、それこそが自分の望んでいることです。自分の見たものなぞ、なんぼのもんじゃい、という感じで。自分も彼らを、世間と同じく、高く評価したいのです。ただ、史料でできてしまった認識は、史料でしか変えられないだけで。その史料が、今のところ、見つからないでいます。上に挙げた史料の中でも、見落としはいっぱいあると思います。「ここにちゃんと書いてあるじゃないか、ばか者」と、どうか叱ってやってください。


激しく長くなりました。しかしなおも明日以降、特に土方ファンの方に、嫌われることを言うと思います。

posted by 入潮 at 23:01| Comment(9) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
自分も土方歳三さんが好きなのですが、どうも本当のところがわからなくて困っています。
ワタシはいいなぁと思う人物については史実に近い姿を知りたいので、本を読み漁ったり、史料を探すのですが実際のところこの人についていまだによくわからないのです(涙)。とくに近藤亡き後がよくわからない。なんだか胸につかえたままのようなので、スッキリしたいのですが。
誰かが創り出した(というか脹らましたが正しいですね)イメージばかりが独り歩きして、どんどん実際の土方さんがみえなくなっているような気がして、とにかく残念です。御本人はそれで喜びはしないでしょう。

子母澤氏については、『同方会誌』60号の「清川八郎・近藤勇と土方歳三」という懐古談で、元新徴組だった千葉彌一郎さんが「私の許へ今流行している、大衆芸術家とかいう人が時々尋ねて来て、話を聴きたいというから覚えていることを有の儘述べても、いつも本統(←ママ)のことを書いたことがない。私の話を誇張したり、捏造したりして困ってしまう」といっている人こそ子母澤なのではないかと密かに疑っています(笑)。
Posted by はな。 at 2007年03月10日 01:23
様々な史料の提示に涎を垂らして感謝いたします。(汚い)
とくに渋谷十郎氏のお話は嬉しい新知識でした。
私もかねて「土方自殺願望説」には疑問が山積しておりまして、でもその多くは多摩〜京都〜江戸帰還までの土方の生き方と矛盾しているのではないか、という第六感的なものでしたので、助かりました。(土方の変貌を近藤の死に絡める見解がありますが、だったら彼は会津でさっさと討死していると思うのです)

さて、「子母澤氏が、嘘やでっち上げを書いたとは思いたくはないです」について。
元ジャーナリズム研究生の立場から、少々説明させてください。

現代を生きる我々は、新聞やテレビは客観報道して当然、という認識でいますが、そもそも「客観報道」という報道スタイルは、1930年代に入ってアメリカで様式化されたもので、日本では戦後、大本営発表の反省から取り入れられた方式です。
つまり、明治25年生まれで、大正〜昭和初期にかけて記者を務めた子母澤氏は、客観報道の精神なぞ知りません。ましてや、昭和3年に出版された『新撰組始末記』に、客観報道の精神が反映されているはずもありません。

客観報道ということが言われる以前のジャーナリズムは、「事実を伝えること」を第一義としてはいなかった。ストーリーには記者の先入観や感情、誇張や歪曲が当然のように含まれ、「話を面白く伝える」ことが第一でした。
さらに、戦前の日本の新聞界というのは、政治家の卵や作家の卵が修業するための場所だった。取材をして、己の主張を紙面上であざやかに展開し、その言論を以て自ら世に打って出ようという人たちが集まる世界でした。
ですから新聞記者という経歴は、実際に当事者や係累の方と会って話を聞き、様々な史資料に自ら当たったという裏付けにはなっても、書いた内容がすべて真実だという証拠にはならない。全く、これっぽっちも、なりません。

そして何より、子母澤氏は新撰組シリーズを、新聞記者として発表したわけではありません。「子母澤寛」というペンネーム(これは筆名で、彼の本名は梅谷松太郎です)を使って、作家として世に出した処女作が、『始末記』でした。
記者としての経験と利点を最大限に生かし、作家デビューの第一歩とした。折しも戊辰戦争60周年の契機、それまでの勤め先である東京日日新聞が、出版に合わせて戊辰戦争特集(これが『戊辰物語』です)を組むなどコラボレートして、『始末記』は飛ぶように売れたそうです。(『始末記』解説より)
作戦成功、ってところでしょうね。

世の中、ジャーナリストというと一角の人物のように思う風潮があるみたいですが。付き合ってみると、日常のニュースというのは結構いい加減にできているなあ、というかんじです。
私も日々、いい加減な情報発信に荷担している立場なので、あんまり大きなことは言えませんが。

以上、顔を出すたび我が物顔で長々と書きすぎる葛生でした。
Posted by 葛生 at 2007年03月10日 12:18
昨日から忙しくて今日はもう寝てしまおうかと思うぐらいくたびれ果てておりましたが、こちらの記事を見て、元気が出てしまいました〜!

>新選組の旧来の職務である、町方の警備に、新選組と共に当たっていたのではないかと思います。軍務ではなく主に警察業務に従事していたのではないかと。

同感です!
土方に惚れて30年(!)余り、彼の箱館での肩書は陸軍奉行並ではなくて、箱館奉行並の間違いじゃないか?と考えるに到った今日この頃(土方は好きだけど土方ファンというのとは違うのかもしれないです)。
↑は言い過ぎかもしれませんが、彼の肩書は「陸軍奉行並兼箱館市中取締頭取」というものだったはず。私はこの箱館市中取締頭取の方がメインだったのじゃないかと考えています。しかも自ら市中周りなどはしなかったんじゃないかと。
少なくとも、春になって気温が高くなるまでは暖かい所でぬくぬくしてたんじゃないかと。いや、ぬくぬく・・というのは語弊があるかもしれないですが。

という考えは有ったものの、ひとつも検証などはしていないので、何処にも書いたり言ったりしてなくて自分ひとりで鬱々と考えていただけだったんです。
なので入潮さんが詳しく検証して裏づけして下さったような気に・・・勝手になってます(^^;すいません。嬉しくてコーフンしてコメントしちゃって。

他の論点も同感するところ大ですが、全部に感想を述べちゃうと長くなってしまうのでこの辺で。
Posted by 小夜 at 2007年03月10日 22:47
○ はな。さま

はな。さんのように、多くの史料を直接手に取られている方も、似たような感じを受けておられるのだと知りまして、安心するやら残念やら、複雑な思いです。
好きな人物だからこそ、実際のところ、いつ誰にどのように描かれていたのか、興味があるところだと思うのですが。メディアにたくさんあるのに、肝心の源泉が見つからないというのは本当に落ち着かないです。見つからない=無い、というわけではない、というのが引っかかったままですし。
こう言っては語弊があるかもしれませんが、戦で死んだ方というのはある意味得な残り方をするもので。生き残った方が、「真面目な奴はあの戦争で死んだ」と、生きながらえた自らを恥じて、墓場を飾るように麗辞を尽くすもので、死者のことは基本的に悪く言わない。それは太平洋戦争なども同じなのですが。そうしたことも「膨らまし」に繋がっているのかなという気がします。

同方会誌、千葉さんの記述は自分も見て苦笑したことがありました。当時からそうなんだな…と。ただそれが子母澤さんだったかもしれないという点までは思い至らなかったですが。インタビュアーとしては面白いことを書きたいでしょうし。珍しいことではなかったのでしょうね。

○ 葛生さま

葛生さんに業界ならではの多くのお言葉をいただけますと、ダラダラとしたポストも書いた甲斐があったというものです。

自分は京都のことは全く存じ上げないのですが、戊辰戦争の記録の土方氏の見ていますと、好んで語られているような儚く美学に則した感じは全く受け取れない。実際のところは、内弁慶でちゃっかりしたところがある、しぶとめの人なのではないかと感じています。

渋谷氏の記録は、土方の言動についてはめったにない具体的な記述があって、とても示唆的だと思います。

メディア報道についてのご説明、ありがとうございます。子母澤氏の小説はけっこう素敵なものがあって楽しませてもらっているので、あまり辛く当たらなかったのですが…。

当時の新聞のいい加減さは、記者本人の証言を見ていても、噴出すことがあります。脱走軍の話を景気よく書かないと売れないから、しばらく会津の降伏が新聞に載せられなかったりとか。今も、仕事関係で何度か新聞に掲載していただいているのですが、意図が違う、強調したいところが的外れ、技術的に正しくない、恣意的に誇張されている、世間が好きなワードに変えられる、など、文句のない記事を書いてもらえたためしがありません。乗せていただけるのはありがたい限りなのですが。本来、記者というのは真実を誤解無く伝えるという矜持がある商売かと思うのですが、記者の方にもよるのかもしれません。何にせよ、一番センセーショナルで極端なところが抜き出されるという加工は免れない。

確かに、新聞もテレビも情報に過ぎなくて、それが正しいかどうか、適当かどうか、自分の価値判断に取り込むべきかどうかというのは、情報の受け取り手が決めねばならないことのはずですが。日本人はその当たり素直なので、テレビや新聞を絶対的な権威として受け止めている。活字で紙にさえなっていれば、それが正しいと信じ込んでしまう。そして一旦大衆に信じてしまわれた像は、変えるのが至難の業。

何がもっともなのか判断できる、価値基準のよりどころになる柱を、自分の中に持っていたいと思います。

○ 小夜 さま

お言葉ありがとうございます。お忙しい日々、お疲れ様です。生じた元気の元が、憤懣でないことをお祈りするばかりです…
30年というと、その培われた年月におののきます。自分はその1/10にすぎず、しかも土方については副次的にしか当たっていないので、至らぬところも多すぎるかと思います。

その継続された愛着に対してまた失礼なことになってしまうと、大変申し訳ないのですが…
丸毛利恒と石井勇次郎が土方の役職を「陸軍奉行並兼裁判役取締兼箱館市中取締」としていますが、陸軍奉行並のほかに、裁判役取締りとしても何をしていたのかもよくわからないでいます。その業務を行った形跡を見つけられない。今のところ市中取締として、部下に報償を与えて、あとは新選組に参入した藩主おつきの藩士の身の振り方や新選組に留めておくための交渉、ぐらいしか見当たらない感じです。もちろん他にも色々仕事はあったことかとは思うのですが。
箱館の取締りとしても、予算や税収や町人の折衝や商人との会合など、行政や裁判や事務関係をやっていたような記載にもめぐり合えていません。事務系の杉浦の記録で「土方威張ル」と言われてるぐらいで…。
せいぜい巡邏で治安維持の人員管理ぐらいだったのかな、という感じがしています。
5/11も、箱館の市民の避難誘導とか火消しとかのために町に残っていたというのなら、まだ理解できる感じなのですけれども。

自分も、わかっているのは「見つからない」ということだけでして。モノがあればそれについて言うのは簡単なのですが。「無い」ということを断言することもできない。推論するにも根拠が欲しいけれども、そのソースがどうも見つからない。もはや「ない」ということを感じる時点で、変に期待しすぎなのかなと、なかば諦めてしまっています…。
Posted by 入潮 at 2007年03月11日 04:32
更なる御教示ありがとうございますv「やっぱ箱館では仕事もしないでぬくぬくしてたのね?土方さん」と再確認できて嬉しいです。
30年と数字で見ると自分でも驚くのですが、これ位になると好いた相手が極悪人だろうが虚栄心の塊のような姑息なオヤジであろうが気にならない位の境地に達して居りまして、「惚れる」とは理由無き愛着と心得ましてございます(苦笑)。憤懣などとんでもないです。ご心配無きよう。
真実を知ることの方が余程の醍醐味、続きを期待しております。
Posted by 小夜 at 2007年03月11日 23:21
入潮さん
爆弾、投下しちゃいましたね(笑)待ってましたよ〜
私の持つ史料なんぞは多分入潮さんが挙げておられるうちの3分の1くらいしかカバー出来てません。それでもいろいろ探しても、蝦夷地でのお仕事の様子はほとんど分からない。
とはいえ、大野君石井君など後から入隊した人たちにも支持されていたようですから、部下には人気のある人だったんだろうと思います。
仕事もそうですが、北行に至った状況と心情をもっと知りたい(もちろん史実をです)と思う身としては、第一級の新資料!が見つからないかなあ、と思っています・・・
Posted by ままこっち at 2007年03月12日 01:09
○ 小夜 さま

あわわ、その、すいません、ぬくぬくして仕事していない、までは言えないです。記録がないというのは、頭脳労働より肉体労働のほうがずっと多かったからかもしれません。それに土方は「良将」とか「猛将」と表現されることは確かに多いです。多くは死亡時で、惜しむ言葉としての補正はあるとは思いますが。概してプラスの評価がほとんどで、土方を貶している同時代人は少ないのも確かですので、どうかそこまでお覚悟なさらないでくださいっ。

それにしても、なんだか長年連れ添っていたご夫婦のようなお言葉で。ありのままをただ許容する。素敵です。継続した愛着の極みというのを拝見した思いです。自分が27年後も大鳥にそこまでの愛着をいだけるかというと、全く自信がありません。

自分の見たものも、ましてここに呈せるものも、世に存在する無限の真実のほんの一部に過ぎませんし、偏ったものだと思います。ですので、小夜さんの抱かれる真実も、日々楽しみに拝見しております。


○ ままこっちさま

自分の所のような荒地辺境にスカスカの爆撃をしても、弾の無駄で何も効果は期待できなかったりして。ままこっちさんの御宅のようなセンター街に赴いて行うとまた効果は違うのでしょうのでしょうけれども、そんなことは怖くてできません(笑)

大野さんの文章は素敵ですし、石井、中島、安富、立川などの記録を見ても、部下には大人気なのは間違いないと思います。土方のほうも、部下に褒賞を与えたり、奉行添役に登用したり、自分の組織を固めることは一生懸命やっているのが見られます。ただそうした作用が新選組内に閉じているのが、残念なところです。

こうしたことを言ってしまってハキ違えになると申し訳ないのですが、資料は、見つかるものではなく、見つけるものだと思うのです。今まで存在が分かっている史料をあちこち探し、十分検討して、新史料を求めるのは、その次ではないかと。自分は既知史料を当たるだけでも、一生は短すぎると感じています。また、既存史料を当たる中で、人脈もできて、紹介をしてもらえて、次の史料へのとり係りがつかめる感じで。真実を探すのは、なかなか手っ取り早くはいかないです。一行で表せる発見に、何ヶ月、何万円もかかることもザラかと思います。
新選組研究は、なんというか多くの方で発見争いがされているようなふしがあるので、その方々に期待することもできるのかとも思いますけれども、残念ながらそれゆえにいっそう自分の目でみないと信じられないところはあります。榎本や大鳥など、ちゃんと他者が書いてくださっている人物に比べると、箱館の新選組関係は創作や願望のモヤに隠れて事実を掴むのが本当に難しく、また、新選組という枠を出て評価しようとすると苦しいのではないかと感じています。
ですので、ままこっちさんのような史実志向の方がいてくださるのは、とても心強いです。
Posted by 入潮 at 2007年03月13日 12:32
初めてこちらに訪問させていただきました。
先日は、私の拙いブログにご訪問ありがとうございました。
入潮さんの調べられた史料の多さに圧倒されます。
長年、私は土方さんが好きで、今もそうですが
これまで、ほとんど史料関係のものに興味がなかったのです。
ですが「最後の一日」を見て、大鳥圭介という人にとても興味を覚えて
『南柯紀行』を読んだという人間です(*^-^*)
そして、ポツポツと他の史料も拾い読み程度ですが目にして
読み進めていくうちに、今まで目を背けていたことがどんどん大きくなっていくのを感じました。
それは、土方歳三という人はどういう人だったのか?です。
私の場合『燃えよ剣』で土方さんに嵌ったのですが、
段々と違和感が出てきていたのです(あ、爆弾発言ですね 汗)
それ以降の他の方の小説でもいえることなのですが、
実際は他の人が体験したことや、根拠のない伝説のようなもので出来上がっている部分が多く
関連本などでも「…なのではないかと思われる」といった推察が多いのも気になっていました。
やはり飾りたてられているものではなく、等身大の姿というものを知りたいと思うのです。

大鳥さんの『南柯紀行』は、怒ったり泣いたり嘆いたり
戦場でのたうちまわっているような様子に、生きた生身の人間をとても感じられ、
大鳥さんがいとおしい、と思ってしまった私は間違っているでしょうか?(笑)
ということで『大鳥圭介伝』を最近買いました。

それから、数年前に読んだムック本に、
浅田次郎さんが対談のなかで下母澤寛さんのことを語っています。
浅田さんは『新選組始末記』を面白いと何度も若い頃読んでいたそうですが
ある時「『新選組始末記』に書いてある面白い部分は、だいたい私の創作で…」
と下母澤さんが書いているのを読み、ショックを受けられたそうです。
いつか面当て小説を書こう思い『壬生義士伝』へと至ったと。
実際、小説を書くにあたり大野次郎右衛門という人物を調べたところ
南部藩史に見つけることができず、間違いなく創作だと確信されたようです。
これは私にもショックなことでした。
「面白い部分」がどこを指しているのかは分かりません。
もちろん新選組関係者といった人達からの聞き書きも多いとは思いますが
小説ネタになっている事柄は、土台からしてどこか危ういものを含んでいるようです。

すみません。新参者が長々と、しかも取りとめのないことばかりで。
どこか出口を求めていたものが溢れ出てしまったような気分です(汗)
入潮さんの知識には遥か遠く及ばず、片田舎に住んでいますので
史料を見つけることはとても無理な環境(ただ自分で動かないだけともいえますが 汗)
入潮さんの調べられたことは宝の山のように見えます。
ありがたくじっくりと拝見させていただきたいです。
ではでは、お邪魔しました。

Posted by 美春 at 2007年03月15日 12:05
美春さま
せっかく足を運んでくださったのに、お返事が大変遅くなってしまってもうしわけございません。
しっかりとしたコメントをいただいてしまって恐縮です。
美春さんが「大鳥圭介伝」を購入されたということで、つい浮かれてしまって、美春さんのブログにそぐわないコメントを書き込んでしまいました…

美春さんの、南柯紀行をはじめとした記録を丁寧に紐解かれて、生き生きと登場人物を描いてくださるブログ小説は、毎回楽しく拝見しております。既存の小説像ではなく、実際に生きた人物を丁寧に辿ってくださるのは本当に嬉しいです。
そして、美春さんが、昨年のドラマから南柯紀行に触れてくださり、大鳥を知って下さっただけで、NHKに大感謝です。美春さんの存在がなければ、もっと思いっきりNHKに毒づいていたと思います。

土方さんの場合、巷のジャンルに、とても全て追いきれないほど供給が毎年あるので、史料に手をださなくても満足してしまえるのではないかと思います。良しかれ悪しかれという感じですが…。

一方、明治末期以降、描かれてきた新選組の姿が大衆に受け入れられてきたのも確かな事実で。娯楽は娯楽として楽しむのは良いことかなと思います。小説や漫画のキャラクターを楽しむのと同じ感覚で。
ただ、実際に生きてきた人間には、惜しむべき名と名誉があること、その人間達に郷土史で親しみ、尊敬し、愛着がある方々の感情があることは、メディア像を供給する側も、受け取る側も、心してもらいたいなぁと、折りに付け感じてしまいます。何様だという感じですが…。
「燃えよ剣」に限らずですが、真摯な歴史ファンの方には、司馬氏の歴史人物を扱う姿勢に大きな疑問をもっていらっしゃる方も多いです。

京都はともかく、箱館の新選組や土方さんに関しては、実像に触れようとすると、どうしてもエンターテイメントからはどんどん像が縮小され、新選組の輪の中以外では見つけるのも一苦労なので、辛い作業になってしまうのではないかと感じています。どうしても娯楽のほうが楽しいわけで。

読本や解説本などの「思われる」「違いない」「らしい」「とされる」という表現は、どうにかならないかと思ってしまいます。どこかに確たる根拠があるのなら良いのですが。大体は著者に都合のよい論を組み立てる、材料になっていない材料だったりしますし。読者はそれが通念だという印象を受け取って、願望に好ましい部分がどんどん一人歩きして真実になっていきますので。
美春さんのように疑問をもち、そこから「では本当のところどうだったのか」ということに触れようとしてくださる方がいらっしゃるのは、本当に頼もしいです。

浅田氏の小説は、小説と判断できて、純粋に小説として雰囲気を楽しめる、これぞ「時代小説」だという感じで、自分も大好きです。「壬生義士伝」は自分も涙をぼたぼた流しながら読んでいたものですけれども。よもや、子母澤氏への面当てでしたとは…。

微力なこと甚だしいですが、これからも美春さんの創作意欲に寄与できるような情報を、少しでも流していければなぁと思います。
今後も美春さんのご活躍を楽しみにさせてくださいませー。
Posted by 入潮 at 2007年03月17日 22:13
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