「『奥羽出張病院日記』の研究 戊辰戦中の一軍事病院の実態」
というもので、佐久間温巳氏が「医譚」という医学雑誌の70号・71号に寄稿された論文です。
「医譚」は、日本医史学会の関西支部が発行している、医学の日本史についての専門誌です。圭介の孫の大鳥蘭三郎氏が「医学者としてのヘボン」という題名でヘボンの日本における事跡を紹介したり。幕府奥詰医師、製薬局務を管轄して箱館病院を建設したり七重村に薬草園を開いたりした栗本鋤雲さんについての詳細な記事があったり。
幕末期についても、医学誌ならではの深い見方が記されています。医学は歴史がよく調べられている分野だと思います。
「奥羽出張病院日記」は、新政府軍の平潟口軍が運営した野戦病院の頭取、阿波藩医の関寛斉による、戦中の手記です。
筆者は軍医と病院管理者を兼任していた忙しい方。ですが、まれに見る筆まめな性格だったとのことで、戊辰戦争の野戦病院について、医療面、管理面の双方から詳しく記録をされているそうです。原本は北海道陸別町郷土室に保存されているとのこと。なぜ北海道にあるのか不思議ですが、これを読み解き、データとして纏めてくださった佐久間氏は素晴らしいお仕事をされたと思います。
平潟は、今の北茨城市にあります。新政府の奥羽戦争の拠点となった港町です。
新政府軍は、慶応4年5月15日上野戦争で彰義隊を壊滅させ、江戸を平定させました。そして6月に、陸前浜街道方面を平定するために、茨城の北の港、平潟に向けて、兵や物資の輸送を海路から行いました。
派遣された兵は、薩摩、大村、佐土原、鳥取、備前、広島、津、柳川、徴収、岩国、久留米、佐倉などの各藩から成ります。兵員数は6000以上。最も多いのは薩摩の876名で、鳥取17小隊約850名、津の830名、長州の四個中隊約800名もこれに匹敵する数です。
6月13日品川発、16日に平潟着。平潟は、この後、連戦の続く奥羽列藩同盟軍との戦闘の、上陸・補給拠点となります。
位置関係図。日付は戦闘の起きた日です。
平潟口では、仙台藩を中心として、平、相馬、三春、福島など奥羽列藩同盟軍が抵抗しました。林忠崇や人見寧の遊撃隊や、中村・平藩、純義隊なども参加していました。
6月17日に関田、18日に植田、24日に八幡山と連戦。28日新田坂・泉館戦では、仙台藩が大江・長崎丸を出して、大隊を揚陸させています。
7月1日には、新政府軍は平城の攻略が始まり、激戦の末、7月13日に平城は落城。この平戦には、田島編成後の伝習第一大隊も参戦していましたが力及びませんでした。
新政府軍はその後三春へ向けて行軍。27日、戦闘もなく三春二入場。白河口の板垣軍と合流して、さらに相馬、浪江、黒木、駒ヶ嶺などで戦闘を繰り返します。
平潟口新政府軍は、平(磐城平)、新町、三春、二本松と進軍した山道軍と、四倉・広野と進んだ海道軍に分かれましたが、病院は主に海道軍を収容しました。
あくまで野戦病院ということで、重傷者は横浜におかれた軍陣病院である野毛町修文館まで、海路、船で輸送されました。
この奥羽出張病院について、戊辰戦争の病院や治療のあり方について、なるほど、と思うところがいろいろとありました。
論文で纏めてくださっている、興味深い点を列挙してみます。
・新政府軍は、参戦した各藩の藩医を寄せ集めて病院を作る予定だったが、実現しなかった。実際の医師は、寛斎が自分で門人や知人を集めたほか、現地徴用も多かった。笠間藩医、上小川の村医などが現地から参加した。
医師を差し出すことで恭順の意を示したという、地元の小藩もあったのではないかと思います。
・ 三春の竜隠院にも野戦病院がおかれた。頭取は佐藤進。
この方は佐倉藩医で、佐藤泰然の孫。堀田正睦の招きを受けた佐藤泰然が天保14年に創設した医学館である順天堂の三代目主。新政府で発行された第一号旅券を持って、6年間のドイツ留学で学んでいます。佐藤進は、テロに遭った大隈重信の切断手術をした方でもあります。当時の外科医学界の第一人者。大鳥の友人でみちさんの手当てをしていた池田謙斎とも親しい方です。
佐倉藩は平潟口にも250名ほど藩兵を派遣しています。佐倉は徳川譜代藩でしたが、江戸留守居役だった依田学海をはじめとした知識人が時勢を読み解き、新政府に付きました。
佐倉藩は、蘭癖藩主堀田正睦の勧めの元、相当な洋学者を排出していて、明治でも活躍した方が多いです。時勢を読み新政府に恭順し生き延びようとした典型的な藩だと思います。
一方、林董、大築尚志、荒井宗道など、大鳥の友人も佐倉には多いです。大鳥の家族、みちと子供たちの避難先も、この佐倉でした。大鳥の脱走にも佐倉藩士の木村隆吉が同行していますし、この木村は彰義隊に身を投じました。恭順したというのも藩が生き延びるためで、好んで旧幕府と対立したわけではない。
・ 野戦病院といっても、後年のように、戦闘第一線のすぐ後方にあり傷者を収容治療することはできなかった。人手不足で、医師から会計係まで奔走して負傷者収容にあたった。負傷や荷物を運搬する人、道具が足りず、横浜移送の船便も不足していた。英国船を雇って運送した場合、一人10ドルを支払った(1ドル=約1両)。後に相馬に野戦病院を新設した。
・ 海路横浜への移送は、船の不足のためか、7月25日を最後に打ち切られた。その後病院には重傷者が充満して動きが取れなくなった。白河口の兵士は、船便がなくなったために二本松から陸路で横浜に移送された。
このあたりは、最初の見立てが不足していたのか、戦闘が思ったより激しかったのか。
新政府もリソースが無尽蔵にあったわけでは無論なく、兵站には苦労しています。苦しいのはどちらも同じ。
・ 野戦病院では、戦傷以外の、伝染病や慢性病については「平病」と称して、重きを置かなかった。冷淡な取り扱いで、記録も見られないとのこと。東京に戻っても「平病人は東京にても一切御世話無之事」と指示されている。予算不足のほか、平病は武士の面目にもとるという考えがあることと、平病を理由に戦線離脱する兵士がいたから、ではないかと著者は推測している。一方、奮戦した戦傷者は丁重に扱った。
当時、戦傷こそが武人の証であり丁重に扱われたけれども、戦病人は補償もなく打ち捨てられた。一方、連日雨の今市に駐屯した土佐兵などは、悪天候で病人続出だったといいますが。故郷から離れた劣悪な環境で病気になれば戦線から離れたいでしょうし。戦は、戦場以外の場所でも戦いだったと思うのですけれども。このあたりは武士とは何ぞやという考えが出ていて面白いです。
・入院した戦傷者数は、一番多いのが薩摩で、参戦876名に対して90名と1割以上。ついで鳥取58名。一方、長州は約800名に対して入院者15名。
各戦記でプレゼンスの高い薩摩、鳥取の奮闘の様子が、入院者数からも伺えます。戦争は、損害が一割を超えると大被害といいますが。その一割を数字に出している当たりが、薩摩らしい感じがしました。
・戦傷の原因は、判明している戦傷者数276名に対し、銃砲による者が227名で82%。一方、刀傷は25名で、9%にすぎない。また、負傷者に対する死者の割合は、銃砲傷は227名中24名と一割を超えているのに対し、刀傷の死者は25名中1名のみ。
これを見ても、いかに戊辰戦争が、刀ではなく銃砲が主力であったかが伺えます。白兵戦も各戦記には見られるけれども、損害のほとんどは銃砲によるものだったといえます。
・医師の手当ては、支度金は関寛斎は100両、その他医師は15〜30両。月給は関寛斎が25両で、門人や現地徴用医は3〜5両。8月から御進軍心付という名で、危険地手当てのようなものが支給されている。3〜5両。
伝習隊一般兵士の給料はたしか3両程度。箱館では1〜1.5両。新政府側はすぐには出てこないのですが、似たようなものではないかと。医師は、命を懸けて戦う兵士よりは待遇が良い。江戸時代は医師の社会的地位は高くなかったといいますが、この待遇面では、医業がそれなりの専門技術として評価されていたといえるかと思います。
・病院経営のための必要経費支給のために、関寛斎は大変な努力を要した模様。寛斎自らが金策に飛び回っていた。資金が払底したために、患者以外の食事は、朝昼は香の物一点、晩に一汁香の物のみ、と切り詰めた。患者の費用は一人一日一両と決められていた。
資金不足はいつの時代も運営者の悩みの種。患者の費用を切り詰めなかったのが偉いです。
・奥羽出張病院の総支給額は、6月から11月の約半年で8340両、総支出は8329両。
今の感覚で大雑把に言ってしまうと、約1億円ぐらいが、平潟口6000名の兵の医療費だけで支出されたことになります。現在価値の円の感覚で強引に算出すると、兵頭数一人当たりで約17,000円、戦傷者一人当たりだと約36万円が費やされたといえるかと思います。これを妥当とみるか高いと見るか。今の保険の戦争危険特約保険で3ヶ月で20万円強ぐらいかかるから、安いといえばそうかもしれない。
などなど、戦地の病院における財政状況もよくわかりました。
後方支援がしっかりしている官軍にしてからがこの状態だったので、奥羽列藩同盟や、まして流浪の軍たる大鳥軍の状態は、推して知るべしかと思います。
宇都宮戦争の後で、伝習隊には望月元有という医師しかおらず、200名に上る負傷者の手当てが仕切れず、天候が悪いのもあいまって、傷は腐敗糜爛して酷い有様だったと浅田君は記述していました。なお、日光で、松平太郎さんが小林文周と青木文岱という医師をつれてきてくれたので、だいぶ治療が進んで助かったという一件もありました。
箱館戦争はその点、箱館という拠点があり、院長高松凌雲以下、分院もあり優秀なスタッフがいました。また、各連隊に病院掛があったり数名の医師が配置されていたりで、物資もあり、諸兵は、安心して戦えた、まで言うと言いすぎかもしれませんが、野州戦に比べると、かなり状況は良かったのではないかと思います。
こうした戦争においても、単に政治や戦闘に焦点が当てられるのではなく、戦争の背景にあった各分野研究が進んでいるのは、より立体的に眺めることができて、ありがたい限りです。
戦争は、一つの完結した社会であると言います。軍組織の中で、インフラも兵糧から輸送から、医療や、休養や、兵士の年金まで、社会で必要なことはすべて賄わなければならない。単に優秀な指揮官がいれば勝てるわけではない。戦いを成し遂げるまでには、膨大なインプットを必要とする。隊の強さというのは、こうした後方支援の強さによるところが大きい。その意味で後方支援こそが重要な戦いであるといえるかと思います。逆に言えば、後方支援が成立していないなら、戦などやるべきではない。もちろん、いくら後方支援が優れていても、現場のトップが駄目だったら何にもなりませんが。
その後方支援確立のために、大鳥さんは飛び回って、会津がスポンサーになるようにして、徳川の遺産の軍を半ば傭兵化させて戦った。戦争を続けさせるということ自体が、大変なことです。弾薬糧食に事欠く中、仙台まで軍を率い続けたということが、指揮官としての大鳥の凄い点だと思います。
榎本さんも、徳川海軍を手中に脱走し蝦夷新天地を目指しましたが、凄いのは、そのために、徳川三千の兵士を養うだけの金と物資を揃えたことにこそあると思います。
戦争は、どの戦闘で誰が勝った負けた、という単純なものではなく、戦争を可能にする仕組みを一つ一つ捉えないと、本質はなかなか掴めないものだと思いました。
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