2008年06月05日

福沢諭吉 その2 小野友五郎と幕府瓦解

諭吉、続きです。同じく平凡社新書、礫川全次著「知られざる福沢諭吉」を主に引用しています。

福沢は元治元年(1864年)に翻訳方として、幕臣に登用されます。そして、三度の洋行を経ることになります。

この幕臣時代の福沢の上官であり、共に渡米した小野友五郎について、本書で紹介されています。
小野友五郎は、福澤諭吉とは正反対の、実直な実務官僚として紹介されています。福澤の所業を明らかにする引き合いだけでは、到底終わらせられない方です。

小野友五郎については、藤井哲博著「咸臨丸公開長 小野友五郎の生涯 幕末明治のテクノクラート」という新書が詳しく、「知られざる〜」でも頻繁に引用されています。著者はもと海軍中尉で零戦搭乗員、かつ理学部物理学科で原子炉技術者という異色な経歴だけあり、技術の中身や測量の原理も十分踏まえた上で、小野についての記述と評価をして下さっています。著者自身も日本の技術を支えた方であり、テクノクラートの実質的貢献を技術的側面から明らかにした素晴らしい著作です。

東都アロエさんが、すでにわかりやすくご紹介して下さっています。このエピソードは自分も黙っていられなかったということで、二番煎じで申し訳ないですが、触れさせてください。

小野友五郎は、笠間藩士。家は一代限りの下級藩士でした。藩の算術世話役甲斐駒蔵に入門したことから日本の数学史に残る和算家に。代数学や微積分など西洋数学も習得していました。その後、数学の腕により嘉永五年に幕府天文方出役。安政二年長崎海軍伝習に一期生として参加し、西洋式の海底深浅測量を習得。矢田掘鴻らと長崎港を測量しています。文久元年幕臣に登用。小十人格で軍艦頭取。この年の5月に、荒井郁之助、甲賀源吾と共に江戸湾の湾口部の測量を行っています。また、ボーリング機を作成して海底の岩盤調査まで行っている。さらに砲台と小型蒸気砲艦の連携による総合的江戸湾海防策も策定しています。

咸臨丸の航海に先立っては、恒星と月との角距離を測定することで、正確な時刻と経度を算出する月距法を完璧にマスターしていて、ブルック海尉を驚かせたというエピソードの持ち主です。実質的な専門技術の持ち主です。

新政府では工部省に出仕。鉄道調査にその測量の腕を生かします。その後は製塩事業に人生を捧げました。

友五郎さんは、そうした絵に描いたような苦労人で、幕末を科学技術から支えた地に足の着いた技術者。じっくり時間をかけて追いかけたい方です。

さて、小野は、幕臣取立てに先立って、日米就航通商条約批准書交換のために米国艦と共に派遣された咸臨丸の米国派遣に、測量方・運用方として従事。このときの同行者には松岡磐吉や小杉雅之進など箱館戦争の海軍の面々が見えます。
その後、ストーンウォール号買い付けのために、今度は正使(団長)として再度渡米します。

このときに、外国方の調役次席・翻訳御用(書記官・翻訳係)として参加したのが福沢諭吉。
藤井氏によると、この福沢が、大変なお荷物だった。彼は前二回の洋行経験から採用されたのだが、彼の英語力は観光レベルでとても仕事を任せられる状態ではなかった。和訳はまだしも英訳はてんで駄目で、公文として使えるレベルではない。翻訳や通訳は他の能力のある団員に任せ、周囲の負担を増やさざるを得なかった。福沢は、任された為替が現金化できない、雇った現地人に公金を持ち逃げされる、荷物の荷揚げ高尚に手間取り将軍から大統領への贈り物が間に合わない、などなど、まともに事務のできなかった。

このころ福沢は、もちろん幕臣。であるのに、団の使命も責任も自覚しておらず、私的な物品書籍の購入ばかりしていた。小野は福沢に、幕府の公的な必要書籍の購入を命じる。彼は幕府の公共物と自分の私物を一緒にして、卸値で購入する。そして卸値と小売の差額を手数料として自分のものにしたいと小野に申し出る。もちろん公務なのに手数料など払えるものではないと小野は拒否する。しかし福沢はひそかにこれを実行した。さらに悪いことに、私用の書籍代まで、公用の代金に含ませた。

そして運賃も。小野は私物の運賃は個人払いにするよう指示していた。他の随員はよく理解し会計は皆厳密に処理していた。小野自身ももちろんそうした。けれども福沢一人は、購入した私物の書籍の運賃を幕府の公金として処理した。書籍は重い。国際運送料はいつの時代も高い。今も出張に出るごとにエクセス(航空の超過運賃)の悩みの種です。

福沢が本来自分の身銭を切って払わねばならない私物やその運賃を公金から落とした、つまり横領した額は、書籍物品と運賃を含めると、なんと一万五千ドル。現在価値換算して1.5億円〜2億円です。税金でまかなわれている公金の横領は、現在では会社の屋台骨が揺らぎかねない著しい信頼の欠損になります。たとえば最近、ODA案件で国からの受託事業で国に水増し請求をしたP社が、ODA事業からの撤退と該当部門の解散・他社への吸収を余儀なくされました。この時の水増し額は1.4億円でした。

小野は、運賃表を船会社から取り寄せて、福沢に自分の荷物の運送料を勘定するよう指示。しかし日本に着く際に小野が福沢に確認したところ、運賃表を紛失したなどとのたまう。

小野はこれら福沢の行状に流石に堪忍袋の緒が切れて、福沢の荷物を神奈川奉行に差し押さえさせた。そして福沢を告発し、自分らも部下取締り不備ということで進退伺いまで出した。小野は部下のコンプライアンスを指示し続けていたのに、それが徹底できなかったとして職を賭けるほどの覚悟に小野は至った。

それなのに、「小野といふ人は頑固な官僚的人物であつたらしく、自分は外国の事情を知らぬ癖に長官風を吹かせるので、(福沢)先生はこれにたまり兼ねて事ごとに衝突するやうになつたのである」などと「時事新報」主筆で慶應義塾評議員の石河幹明が「福沢諭吉伝」で一方的に小野を非難している。(ちなみに私的なはき違え手紙のはずの「痩我慢の説」をわざわざ新聞に掲載したのもこの人) 。福沢には、当時の新聞メディアや慶応大学関係にシンパが多いので、こうしたネガティブな行状が余り世間や現代に伝えられておらず、一方、周辺の職務真面目な方がいわれのない中傷を受けていることがある。

さらに福地源一郎が、同僚のよしみで事件の解決に奔走した。福沢は「不都合の次第あり」ということで外国奉行より謹慎処分を言い渡される。福沢はこの謹慎も堪えず、ちょうど良いから西洋紹介のパンフレットを作って自慢していた。そして幕府崩壊のドサクサで罪を免れてしまった。荷物は年末に戻ったとの由。幕府の瓦解は福沢にとってはラッキーだったと言えます。

ちなみに、福沢はこの米国で買い入れた書籍を教材とし、視察して回った米国の教育施設のノウハウを用いて、慶応義塾を開設したのでありました…。

鳥羽伏見の戦いの際は、小野は、大阪表駐在の勘定奉行並として大阪に在りました、これは兵庫開港に備え商社設立や貿易取引の下地を整える重職のためでしたが、戦乱勃発となってしまいます。小野は戦いの兵站を整え、淀の本営にいました。徳川慶喜が大阪城を脱出し、幕軍が戦闘で敗北した際は、軍用金の十八万両を江戸へ緊急輸送する処置に関わります。榎本武揚にこれを依頼しました。

その後、慶喜の退隠が決まり、役目御免=クビとなりました。そして鳥羽伏見の戦いの主犯の一人にスケープゴードとして仕立てられあげてしまい、罪を被って、伝馬町の揚屋敷に投獄されます。このためこの後の戊辰戦争には関与せず、牢の中で上野彰義隊戦争の砲声を聞くこととなりました。徳川の駿府への封が決まった際に、六月に主家預けと言う形で出獄しています。

小野が牢獄に監禁されている頃。

福沢は、慶応義塾で、後世に残る「感動的」なエピソードを作っています。
明治29年の慶応義塾旧友会での福沢の演説より。

「兵馬騒擾の前後に旧幕府の洋学校は無論、他の私塾家塾も、疾くすでに廃して跡を留めず、新政府の学事も容易に興るべきにあらず。いやしくも洋学といえば日本国中ただ一処の慶応義塾すなわち東京の新銭座塾あるのみ。余人はこれを目して孤立と云うも、我は自負して独立と称し(略)日本の学脈を維持するものなり」

慶応4年5月15日。上野で彰義隊が、官軍のアームストロング砲にボコボコにされている際。「上野と新銭座とは二里も離れていて、鉄砲玉の飛んでくる気遣いはない」と、塾のある場所までは砲は飛んでこないと高をくくって福沢は慶應義塾で授業を行い、日課のウェーランド経済書を口述していた。

幕臣が、思いはそれぞれあれ、あるいは脱走しあるいは上野に篭り、気炎を上げて新政府軍に徳川に殉じよう、徳川の再興を志そうとしているときに。
一人日和見して、戦争で塾が廃れたニッチを利用して、一人塾を開いて一人勝ちして学を売って利益を得ていた人間が、福沢です。

福澤諭吉は、れっきとした幕臣です。

幕臣に取り立てられたのは1864年。大鳥よりも1年早い。少なくとも4年は幕府の禄をバクバク食み、しかも公金を横領して自分の塾という事業の基盤を整えた。教材も教育機関運営のノウハウも幕府の金で渡米した公務から得た。

それで、あっさり幕府を見捨てて、血道をあげて戦う同胞をせせら笑い、明治では言論を以って「啓蒙家」という肩書きの元、新政府の体制に諂いヨイショ上げに終始した。福沢が、新政府から出仕を求められても応じなかったのは、旧幕府への忠節のためでは無論なく、幕臣時代の役人生活の堅苦しさに、官僚という職に愛想が尽きたからに過ぎない。

よくもまあそれで自分の塾に「義」の一文字を用いられたものだと思います。

「慶應義塾」の名前の由来は、慶應義塾の開設に伴って福沢が示した慶応義塾之記 に、以下の通りあります。(本文は青空文庫でもデジタルライブラリでも参照可)

「吾が党、この学(洋学)に従事する、ここに年ありといえども、わずかに一斑をうかがうのみにて、百科浩澣、つねに望洋の嘆を免れず。実に一大事業と称すべし。然れども難きを見てなさざるは丈夫の志にあらず、益あるを知りて興さざるは報国の義なきに似たり。けだしこの学を世におしひろめんには、学校の規律を彼に取り、生徒を教道するを先務とす。よって吾が党の士、相ともに謀りて、私にかの共立学校の制にならい、一小区の学舎を設け、これを創立の年号に取りて、かりに慶応義塾と名づく」

一体どの面で「報国の義」などとほざけるのか。福沢の面の皮の厚さには、本当に感心します。

今の慶応大の在籍の方や卒業生の方には大変申し訳ないですが、「慶應義塾大学」の「義」の文字を見るたびに、「義」とは何ぞやと、しょっぱい顔をしたい気分になります。

なお、慶應義塾大学が「ウェーランド経済書後述記念日」として、5月15日に毎年講演など催しを開いて記念しているとのことですが。この美談化は、内幕を見ていると、むしろ恥を誇っているのではないかと、体中の骨がむず痒くなる感じがします。

福沢の行状を見るたびに、「痩我慢の説」なぞ、誰がどの口を持って言えた代物かと思います。それを云った福沢自身が、我慢どころか無節操の塊ではなかったかと思います。

福沢自身は、自分の行動の棚上げぶりは、十分自覚していたのではないかと思います。福澤が小人物ではなく偉いと思うところは、これらの倫理的に問題のある行動を、一切隠蔽せず、のうのうと自分の口からのたまっているところです。米国渡航の件も、福地源一郎に自分の所業を自分で述べています。自分の行動について自覚的で、いわば確信犯です。これは、福沢は、窃盗犯的な自分の行動は、その後の自分が社会になした役割の大きさで十分正当化できる、あるいは吹き飛ばせると思う自信があったことによるかと、自分には思えます。こうした逸話を自分で明らかにすることで、福沢は自分を美化する世間を冷笑していたのかもしれません。

いずれにしても、この、機を見て敏を知るふてぶてしい強さは、いっそ羨ましいです。
私は友五郎さんの不器用な実直さのほうが、よほど共感しますが。

えぇと、現在の慶応大学は、貴重な研究を行い未来の日本の人材を輩出し続けている、日本を代表する先端の教育機関のひとつだと思います。
福沢のエピソードの記述を以って、慶応大学の名誉を損なう意図は、決してありません。
posted by 入潮 at 07:17| Comment(6) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
拙ブログの記事を紹介いただきありがとうございます。

福澤諭吉という人は知れば知るほど、
この人が教育者でいいのか? とか、
この人が日本の紙幣の代表(1万円札)でいいのか? とか、
疑問が大きく膨らみます。
とくに小野友五郎の一件は、ひどい話です。

慶応義塾大創立150周年に水を差すつもりは
ないのですが、ちょうど良い機会ですので、
福澤について多くの人にもっと本当の彼を知ってもらいたいと思います。

この記事をぜひ、拙ブログでも紹介させてくださいませ。
よろしくお願いします。
Posted by はな。 at 2008年06月05日 10:17
歴史人物が、史料に拠らず不当に貶められているとやる方ない気持ちになりますが、その逆に、無意味に、あるいは恣意的に持ち上げられているのも、つい横槍を入れたくなってしまいます。福沢はその一人でした。
はな。さんが以前に取り上げ明瞭に語ってくださったので、かなり溜飲が下がっていたのですが。本書を読んで、また余計な虫が騒いでしまいました。
盗写にしても公金横領にしても、手口が子悪党じみていて、あまり本気で怒る気にもならないのですが。その同じ人間が、義を仰々しく口にしたり節を変じたと他人を責めたりしているのは、「お・前・が・言・う・な」と突っこみたくて仕方がなくなります。
でも、この図々しさと自分棚上げは、厳しい競争社会を生き抜く上で、学ぶところは結構あるのではないかと思います。福沢ならインド人も蹴散らせると思います。行いは真似たいとは思いませんが、精神の強さは仰ぎ見るところです。

福沢は、歴史人物像のメジャーさは必ずしも真実と一致しないという典型かと思います。はな。さんが再び知らせてくださるのは、ありがたいです。
Posted by 入潮 at 2008年06月05日 18:24
はじめまして、楽しく記事を読ませていただきました。「痩我慢の説」についてですが、評論家の中野好夫さんがどこかに文章を書いていました。いま手元にないので詳細までは思い出せませんが、あれは単に勝海舟とそりが合わず洋行でも面白くないことがあったので後で意趣返しに書いたとの評価で、それについては冨田正文氏もそれとなく書き家永氏がもっとはっきり書いているとのことでした。

 まあ忠臣蔵もそうですが、実がどうであったかも自分がどうするのかも関係なく、日本人はあの手のものをありがたがるのでしょうか?
Posted by うー at 2008年10月26日 15:30
はじめまして。コメントありがとうございます。
「痩我慢の説」は、福沢さんも何を血迷われたのだろう、という感じで、取り上げられているのを見るたびに首を捻ってしまいます。ただ、手紙は洋行から何十年も経っていますし、榎本さんは福沢さんの洋行に関係ないですので、あまり動機に結ばれないような気もします。
岩波文庫版の「福翁自伝」が、その解題で「自伝文学の傑作」「極めて真実」とされているのは、ちょっと待って下さいと思いました。評論家の先生方にもいろいろいらっしゃるようです。
福沢さんは、日本人の大衆心理を熟知していて、一般読者が自分が正当化される気になるよう論を誘導するので、好んで読まれるのに天下一品の腕を持っていると思います。
一方、いろんな方のご意見をお伺いして、日本人にも、そうしたマスコミ受けのする極端な像を生温い目で見ているユーモアと教養豊かな方も、結構多いのだなぁと感じているところです。
Posted by 入潮 at 2008年11月10日 01:47
この件 熊本のブログ「津々堂のたわごと日録」に紹介させて頂きました…
Posted by 代書屋 at 2010年05月02日 18:47
ご紹介ありがとうございます。ご紹介くださったブログで、「国史大辞典」がデジタル化され、見出し・全文検索可能になるとの情報が。これは素晴らしいです。この情報に導いてくださってありがとうございます。
Posted by 入潮 at 2010年05月03日 04:17
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