2010年04月27日

工部大学校時事ネタ

久しぶりに工部大学校ネタ、行きます。

工部大学校 虎ノ門新築落成
明治11年3月8日 読売新聞

虎ノ門の工部大学校の見つきは立派に出来上がり、三階が生徒の教授場となり、二階その外とも未だ十分ではありませんが荒まし整い、また生徒博物館へは絵図を写す電信の器械、甲鉄艦の雛形、大鳥君の細工をされた長崎ドックの雛形や、種々の石類そのほか西洋と日本の品を比較したのが並べてあり、門も今度は西洋作りになり、開校式の日はまだ極(ママ)まりませんが、当日は主上がおいでになり、またこの博物館は主上のおいでが済むと、毎日二、三度ずつは誰にでもみせられると聞きました。



工部大学校の新校舎落成前の記事です。その工部大学校には博物場という、所器械や図面を展示する場がありました。担当は奥田象三氏。後に大鳥の長女ひなが、この方に嫁いでいます。

博物場は、第1回内国勧業博覧会の展示品なども飾られ、ちょっとした博物館の様相でした。最初に天皇陛下が御出でになり、その後一般に官報された由。大鳥の工部省の仕事の特徴としては、工部省事業を一般に公開して、技術普及を図っていたことがあります。工業新報の発刊はいわずもがな。工業新報に工作局所轄の工場の宣伝を載せ、見学を受け入れをした上、民間の事業者の技術的相談にも乗っていました。

そんな工作局長は忙しいので、一つ一つの展示には関わっていないだろうと思いきや。

大鳥圭介は、モデラーでした。長崎ドックの雛形を作っていました。
プラモはさすがにまだ無かったと思いますが。木材とセメントでちまちま作っていたのでしょうか。見てみたいです。奇跡的に廃棄さえれず東大工学部の倉庫に転がっていたりしないでしょうか。

頬髭を蓄えた小さなおっさんが、質素なバラック立ての工作局で、パーツと接着剤と格闘しながら時間を忘れて模型作りしているのを想像すると、微笑ましくて仕方がありません。
あと、甲鉄艦の雛形まで飾るとは。木古内や矢不来、五稜郭で、トラウマになるほどの艦砲射撃で散々自分たちの陣営を痛めつけた敵艦を飾るとは。
この当たり、自分の経験や恨みより、役に立つ力を持ったものを見せて残したいという実利が勝ったのか。大鳥の感覚はよく分かりません。

ふと思いました。この記事の前の月、明治11年2月、妻みち死去。
…この模型作成が、妻のいない家に帰りたくない、寂しさを紛らわせるための作業であったとしたらと思うと、目を閉じて涙するより他はありません。


次、記事二つ。

「洋食をやめ日本食に」
明治13年7月12日 東京日日新聞

工部大学校の生徒はこれまで常に洋食なりしが、節倹のため本月より日本食に代えられたれしよし。

「各省の予算削減で、大学が非常の改革」
明治13年11月14日 中立政党政談
今度各省の生金銀支用の額を減ぜられしうち、工部省の減じ方がもっとも多きゆえ、大変革を行わるる中にも、これまで工部大学の支用高最一なるを以って、まず大学より非常の改革を行わるるという。



前年、明治12年11月に第一期生23名が華々しく卒業。…と思いきや、工部省予算削減のために、苦しい改革を強いられます。西南戦争後のデフレで、政府はどの省も予算を削られました。
工部省は各省の間で最も削減幅が大きく、その工部省の最も大きな予算がつぎ込まれていた工部大学校。ここに手をつけられてしまいます。

あおりを受けたのは生徒でした。洋食から和食へのチェンジはまあ仕方がないかと思うのですが。これまで全て官費生だったのが、一部の優秀な生徒を除いて私費になってしまいました。かの田辺朔郎なども授業料に苦しみました。

財政削減であおりを受けるのが、こうした技術分野です。
工部大学校も、特に一期生、二期生は、多々の分野の先駆けとなる非常に優秀な人材を輩出しました。どの時期も白眉の人物がいますが、特に一期生、二期生は綺羅星が多い。

一期生の曾禰達蔵が語り残すところによると、この頃、工部大生は、授業料だけではなく、衣食住、官費で全てまかなわれていた。ノートや筆記用具、製図道具まで申請するだけ手配してもらえる。昼はビフテキやシチューが出てくる洋食で、夜は当時高価だった毛布を二枚もかけ、トイレの便器まで英国からの輸入品。館内もバイブラジエータを導入した蒸気暖房方法で部屋を暖めていたとのこと。夏期2ヶ月の休暇の時には、下宿料を与えて郊外で自由に生活させ、工場や鉱山、鉄道などにも官費で出張させた「恰も、手を執り体を押して、愛児を歩ますに似たる態度」と、回顧しています。

これも工部省に予算があったからできたことですが。その結果育ったエリートたちは、国への感謝を忘れず、生涯を誠心国に尽くし、電気、機械、鉄鋼、造船、鉱山、建築他、日本のあらゆる工業分野の殖産興業で、中心的役割を果たし、明治後期の日本経済産業の成長に大きく寄与ました。日本が、東洋の一途上国から、ミラクルと言われる先進国にまでなったのは、この工部省の人材への投資があってこそではないかと思います。

いかに貧し鈍していても、決して切り捨ててはならない分野があります。

今も事業仕分けで、JAXAをはじめとした公的科学機関にメスが入っています。
たしかにどう役に立つか分からない研究者の自己満足にすぎない研究も中にはあるでしょう。けれども、技術の何たるを心得ない無知な人間が、玉石混合一まとめにひっくるめて否定してしまう愚行だけは避けてほしいです。

工部大学校の卒業者の一人、ノーベル賞級化学者の高峰譲吉が設立者となった理化学研究所が、独立行政法人として、事業仕分けの対象になっています。その所属施設に、上郡のSpring-8、マスコットガール・エイトちゃんにもなっている、日本が世界に誇る大型放射光設備があります。NatureやScienceに発表された貴重な材料研究や犯罪捜査にまで用いられている、超高感度超精密施設ですが、ここも、事業仕分けの前に危機に瀕しています。予算が半分〜2/3に減らされる措置が取られるのだそうです。この予算枠では、年間維持費が捻出できず、施設の活動が全く出来なくなる。すなわち、予算をケチったが為に、施設の価値がゼロになってしまうとのことです。

目先の財源確保と票確保のために、百年の資産をドブに捨てるのは、阿呆も極まります。

JICAにしても理化学研究所にしても、随意契約を槍玉に挙げ、無理やり競争入札させようとしています。技術は、安かろう悪かろうです。価格を下げれば技術者のモチベーションも下がり、品質もスペックも、仕様書に書かれた最低限を満たすものになります。仕様書はいくら書き込んでも完全には規定できません。いい物を作るというのは、技術者の良心にかかっています。国の公共物なのに安く買い叩くことばかりに執心されると、それを作る技術者をサービス残業で疲弊させ、リストラで貴重な経験を持ったシニアエンジニアが失われ、技術者離れが進み、国の技術力低下が進む一方です。何でもかんでも入札すれば良いというものではない。随意契約によって守られる信頼性があります。そうした技術のレベルを保つために税金を注がずしてどうするのだと思います。

技術立国、もの作り日本で、今後も競争していかねば、10年先に待っているのは、市場縮小、雇用不安、失業率上昇、貧困率上昇です。科学技術軽視は間違いなく国の衰退を招きます。

仕分けは、必要なものと不要なものを見分ける知識見識を十分に有し、技術の価値が判断できる方に行ってほしい。科学知識のない、国民の票稼ぎすることしか頭にない短視野な政治家の方が口出ししても、国力が削がれるだけに感じます。頼むから、日本と世界の便益を真剣に考えて行っている研究開発の価値を正当に評価することなく、要らないモノ扱いしないで欲しいと思います。要らないのは、国民に媚を売るしか考えてないのかと疑う浅ましい政治家と、無知な仕分人です。彼らの存在こそ仕分けされてくれ、と思います。

…と、政治の話は無粋ですし、タブーにしたほうが良いとわきまえてはいるのですが。不条理な予算削減には、大鳥さんもたいそう苦しんだであろうと思うと、つい出してしまいました。

古今、実務者の悩みは変わらない感じです。

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2007年03月22日

ドラマ「工部大学校オムニバス」のススメ

英国、"New Civil Engineer" の昨年11月の記事。
英国土木学会が、土木エンジニア賞を、小説の主人公とPCゲームのキャラクターに与えた、という内容が、「国際建設情報」2006年12月下期号で紹介されていました。

「子供達はメディア、特にテレビドラマの影響を強く受けるようになっている。土木技術者が立派な役柄のモデルとして、マスメディアに登場する必要がある」

とは、英国の土木学会会長のマスタートン氏の言葉。(一瞬、「マスターキートン」に見えた)

さすが、わかってらっしゃる。
こちらでも以前にちらりと話題にしましたが。若者の技術離れ対策、ひいては国の技術力維持のためには、メディアでの技術者の地位向上は欠かせないと思うのです。

自分はメディアは好きではないのですが、人々の認識はメディアによって作られているということは、事実だと思います。ドラマなりアニメなりで作られた像が、特に情報判断力がまだ育っていない子供に対しては、一番強力に働く。時にはそれが刷り込み状態にまでなる。私は藤子不二夫の漫画のせいで、公園の土管で寝る生活にあこがれたことがありました。後からあれは工事の不法投棄だと分かりました。大人ってつまらない。もとい。

それで、「マスタートン氏は土木学会、機械学会、土木測量学会、王立工学会と共に自らも賞金を提供し、土木技術者のイメージアップを行った作品に対するコンクール"Engineering Media Challenge Awards"を設立し、このたびその受賞作品が発表された」とのことです。商品額は5000ポンド。

受賞の対象になったのは、トゥームレイダーのアナヤと、Rovert Harrisによる「ポンペイ」の主人公。トゥームレイダーは、確か映画がオリジナルの、PS2とPSPで発売されているゲームです。ポンペイは良く知りません。

とにかくこれは良い試みだと思いました。というか、賞を作るだけではなく、まずその賞の対象になる作品をどんどん生んでもらいたい。談合で建設会社をよってたかってマスコミが非難をして、土木分野にマイナスイメージを植えつけるなどもってのほかだと思います。日本の生活を支えているはずの技術者という職に対するイメージが悪くなる一方。若者の技術離れが進むだけです。


それで、やったら良いのではないかと思うのが、工部大学校のドラマ。工部大設立の山尾の苦闘から、第一期生の入学から卒業までのイベント、グラスゴーの活躍、第二期生以降の学生達も、卒業研究をプロジェクトX風に一つ一つ取り上げる。特攻野郎Aチームとかスタートレックなどのアメリカンホームドラマのような形で、各話のドラマが独立していて、主人公が毎回変わる、オムニバス仕立て。

こうしたドラマを作成することにより、技術立国日本の成り立ちへの現代日本人への目を向けさせ、まず工学部の学生を増やしてその質を上げるのです。
長州ファイブはまだ見ていないのでなんともいえないのですが。評判はいいようで。この流れに乗りたいところ。そして、長州の彼らは皆ソフトウェアの人間ですし。ハードの面白さも分かってもらってこその技術啓蒙。ハードウェアの源流がメディアのエンターテイメントに現れることにより、子供達や若者の関心もぐっとハード側に引き付けられるようになると思うのです。

ゆとり教育なんぞよりよっぽど有効だと思うのですが。どうですか、文部省さん。


試しに数話のアウトラインを。

【第1話】「知られざりし工学寮」

一期生の入試、それぞれの試験騒動について。工部省修技所組(小花、三好、高峰)と、慶応義塾組(南・川口)、それに、高橋是清門下の唐津組(辰野、曾禰)。修技所を病気で休職しており、試験の存在を知らず、脚気の足を引きずって試験のために走り回った小花冬吉が主役。工部大の試験があると知らされたのは、試験終わりの日の2日目だった。しかも修技生制度は廃止されると聞いて吃驚。午後に入学試験会場に走り、ダイアー先生に受験を懇願。ダイアー先生は、昨日二問と本日の試験は既に終わったが受けてみるか?と聞く。努力してすべてを答案します、と小花は答える。既に問題を見たかと聞かれて、見たということを正直に述べた。そして「私は道に落ちたるを拾わざる者です」と断然と答えた小花。試験の結果、見事合格。
一方、辰野金吾。試験に不合格で、このままでは故郷に帰れんと横浜の商館で働く覚悟をしていた。しかし再試で10番目ギリギリの補欠合格、同郷の曽禰と共に大喜び。

【第2話】「入学式。それぞれの対決」

オープニングは戊辰戦争のハイライト。奇兵隊士として長州の野を這った片山東熊。木更津で敗れた旧幕撤兵隊の老幼組の石橋絢彦は、官軍の警戒する関門をくぐって逃げ回った。
本編ではまんじゅう神童・志田林三郎の登場。佐賀の科学技術の申し子として平民から頭角を現した。自分が首席だと思っていた志田、入学式でさらに上が居たことを知った。その名も高峰譲吉。加賀御典医の家系。工部大両雄の出会い。
同時進行で、片山と石橋がかち合っている。元奇兵隊 vs 元撤兵隊の、執念の対決の始まりに、ため息を付き諫める曽禰。実は曾禰は唐津藩主小笠原長行の小姓で、彼もまた歴史の目撃者だった。箱館に行く前に逃がしてくれた藩主の心を思う曽禰。自分たちの使命は、戦うことではなく技術者として共に国づくりをすることだと二人を諭す。

【第3話】「技術者とは革命家なり」

授業の開始。英語が分からずに苦労する学生たちに、自らの思いを語るダイアー先生。「Dai Nippon」の極意とは。救世に必要なのは英雄ではない。技術者である。
そこで語られる工部大の成り立ち。岩倉使節団に同行した伊藤と林の見たもの。工部大輔山尾の苦闘。予算獲得での井上馨との激闘。なお、洋行場面ではサブで大鳥と宇都宮が出てきて、怒涛の工場めぐりを敢行している。欧米の技術が見せ付けられる。

【第4話】 「新校長、着任」

学生たちも生活に慣れて落ち着いた。ある日、新しい校長が来るという。徳川陸軍を率いて江戸脱走、官軍を悩ました戊辰戦争の賊軍名将だったという人物。評判を聞き、授業の半分が軍隊式になると怯える生徒。噂が噂を呼ぶ校内。喧伝される旧幕軍と、その総督の活躍。石橋はここぞとばかりに沼津兵学校の地獄の教練を語り、旧幕軍の薀蓄を披露し、宿敵の片山に優位に立つ。
ある時、石橋は、ちっこい童顔の髭のオジサンに校内の案内を頼まれる。朗らかに、明日から雑用をやるので様子を見に来たと語るおじさん。てっきり新しい用務員かと思って、得意満々に構内を見せてまわる石橋。翌日の新校長着任で、見た顔を壇上に見て、仰天する石橋。

【第5話】「エアトン先生」

油断してくるとチョークと共に飛んでくる、"You are stupid!!"の怒声。水を打ったように静まり返る教室。次いで滝のように打ち付けられる質問。答えられないと拳骨と再度の怒号が響く。誰もが恐れる電気工学教師。その名もエアトン先生。
ただ一人怒られないのが優等生志田。彼のエアトン対策ノートで、生徒VSエアトン先生の抗争が繰り広げられるが、打ちのめされる生徒達。
そんな恐怖のエアトン先生の、クリスマスのパーティでの衝撃の仮装。美しく女装して演劇に望むエアトン先生と、惑わされた志田。


そんな感じで。
エアトン先生の女装は、事実です…。
あとは思い浮かぶ限りのタイトルを並べてみます。


「女生徒たち出現。工部美術学校」
「線路を作るよどこまでも―未踏の山々に臨む南清の鉄道測量実習」
「世界一の電気実験室。輝け、アーク灯」
「不世出の天才―川口武一郎」
「博覧場の模型たち」
「工業新報 早すぎた科学の光」
「北海の嵐。挑め、青函ケーブル海底工事」
「プロジェクト・気球」
「対立!学生ストライキ。西館楼の集合」
「涙の卒業式。旅立て、一期生」
「京都へ灯を、水を ―琵琶湖疎水に挑む」
「グラント将軍の昼食会」
「戦え工部大生! 学校対向クリケット大会」
「怪物ケルビン、席巻せよグラスゴー」


あたりが続いていくわけです。
工部美術学校の花、大鳥ひなと山下りんは、男性視聴者にとって貴重な存在です。
友情出演(?)として、東京帝国大学の田中館愛橘が、工部大を「電線を張ったり線路を引いたりするしかない学校」と馬鹿にしてくれます。
一期生が卒業してからも、浅野応輔や田辺朔郎、井口在屋にスポットが当てられます。そして、忘れられたころにグラスゴーの留学組から後輩達に手紙が来て、志田や高峰、辰野らのグラスゴー生活と活躍が紹介される。
最終回はこんな感じ。

【最終話】 「それぞれの道、それぞれの礎」

留学中の夏目漱石が、英国で目にした新聞記事は、高峰のジアスターゼ発見だった。卒業生の人生のハイライト。高峰、石橋、曾禰、辰野、それぞれの活躍へ繋がっていく。
頓挫した工業新報の後を引き継いで、工学会が結成された。クローズアップされる工学会報の記事。
東京帝国大学と工手学校、育英黌でそれぞれ科学技術を指導する工部大生。
安定した官の道を蹴りアメリカへ旅立つ高峰。有栖川宮造営に尽くす片山。灯台の灯を灯し船を導く石橋。八幡製鉄所の炉に火を入れる小花。東京駅建設を管理する辰野。国産織機の開発に汗をぬぐう安永義章。日本の夜に光を点していく藤岡市助。出水に難渋しながら琵琶湖疎水の掘削工事を進めていく田辺朔郎。うなりをあげる井口ポンプ。各界のリーダーになった卒業生たち。
そして、電気工学会設立時の志田の演説。全文披露される10の科学技術予言に、満場スタンディングオベーション。
しかし、産官民に技術の進歩をもたらした秀才への代償は大きかった。過労死とも思われるほどの短命にして世を去る志田。墓前に集う工部大生。山尾と大鳥、林ら官僚。遠い空のダイアー先生達。技術による日本の発展と幸福を誓う。現代に繋がる、科学技術。技術立国日本の礎。


……ここまでくると、自分の阿呆さ加減も楽しくなってきます。
まずはドラマシナリオになるような小説を誰かが書いてくださることですよな。
史料は提供しますから、だれか文才のある方、書いてくださらないかしら。…他力本願は、一番現実化するには遠い手段であるということは分かっていつつ。むー。
タグ:工部大学校
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2006年08月02日

工部大学校オムニバスその4 菊池鋳太郎と久米民之助

1898年(明治31年)10月14日の毎日新聞の記事。

「去六日来、上野公園第五号館に開ける白馬会第三回展覧会は、作家四十余名、其多くは一人にて二十枚内外を出だしたれば、点数三百六十と注せらる。海辺田間の小景は数ふべくもあらず景色人物ともに大作亦多し。」

ということで、上野で白馬会の博覧会があった。これに。

「此一区画の前後左右に菊池鋳太郎氏の彫刻、大鳥圭介(銅)大倉喜八郎(石膏)の半身像立てり。共に久米民之助氏が夫々へ寄贈の為め氏に製造を托したる者なり」

……大鳥の銅の半身像が出展されていた、と。

作成者は菊池鋳太郎。彼は、工部美術学校の彫刻科の卒業生でした。ラグーザの教えを受けています。洋画も描き、「海(メシナ)」「フロレンス」などの代表作があります。

白馬会というのは、明治21年に菊池鋳太郎の私宅に設立され、洋画研究所を付属機関として持っていました。
会には、久米桂一郎、浅井潔、岩村透、松岡寿、黒田清輝などが中心となって創立。当事のそうそうたる洋画家が名を連ねています。

明治29年より毎年上野で、白馬会展覧会というのが催されています。東京美術学校予備校としてこの研究所に入り、卒業後白馬会展覧会へ出品という過程を進む者が多かったとのこと。私設の美術教育・研究機関という感じです。西洋美術史、裸婦デッサン、実技指導、美術講演会、フランス語習得を奨励など多角的な指導が行われたそうです。
明治44年解散。


で、菊池に大鳥に寄贈するために、大鳥の像の作成を依頼したのが、久米民之助。

久米は工部大学校六期生、土木科、一級及第卒です。1861年8月27日生、1931年5月24日没。

この方がなかなかスゴイ。豪華絢爛な人生を送っておられます。

群馬県出身で士族。幼い頃に両親を亡くすも、慶応義塾で学び、工部大学校へ。明治17年卒。
卒業してすぐ、宮内省に入省して、皇居造営事務局御用係として、皇居二重橋の設計、建築に従事しています。
菊池もまた皇居造営には加わっていたので、このときに知り合ったのかも。

明治19年に東京帝国大学工科大学の助教授を兼務するも、こちらはなんとたった2ヶ月で退官。
民間の大倉組に入社し、佐世保鎮守府の開削工事に従事します。
明治20年には中国、朝鮮に渡航して諸般の視察を行い、翌年には米、英、仏、独などを巡歴しています。

帰国後は、山陰本線など国内線のほか、台湾西部幹線など台湾や朝鮮の国外の鉄道工事も、数多く手がけています。グローバル土木技師。

その後、技術者から一転して政治家に。郷里から推されて、明治31年、第5回衆議院議員選に群馬県第一区から出馬して、衆議院の代議士になっています。明治36年まで連続4回当選。在任中は、歳費を私せず、地方の公共事業に寄付したとのこと。故郷の沼田公園を整備しており、公園内には久米の銅像があります。

さらに、政治家のあとは実業家に転身。台湾製氷株式会社の社長。山陽鉄道、唐津鉄道、箱根トンネルや台湾の鉄道を担当。
そして、朝鮮半島の金剛山の開発に従事する。鉄道、発電のために、1919年には金剛山伝記鉄道株式会社を設立し、社長に。観光開発に身をささげました。

そうした実業の数々は見事に成功を収めて、後年、久米は代々木上原に敷地4万坪の屋敷を構えました。久米の趣味である能舞台をあつらえた豪華な家で、付近からは代々木御殿と呼ばれたそうです。

技術者で実業家はともかく、政治家にまでなる方ってめずらしい。しかもその全てにおいて成功しているというのは、生半可な才覚ではないという気がします。

写真は、眼光鋭い迫力のある紳士、という感じです。
「土木人物事典」(アテネ書房)にしっかりと掲載されています。

現在の株式会社久米設計は、久米民之助の次男の権九郎氏によって設立された久米建設事務所が、その前身とのことでした。

…そんな方が大鳥にプレゼントするために、同じ学校卒業した先輩に頼んで、銅像を作ってもらっていた。
単に校長と生徒という繋がりではないですよなぁ。久米が卒業する頃には大鳥は既に元老院に移っていましたし。
どういう繋がりだったのか、そして今その銅像はどこにあるのか。銅像は戦争で失われたか、大砲の材料にでもされてしまったかなぁ。ちょっと、いや、かなり気になるお年頃です。

そういえば、ラグーザが作った大鳥の石膏の彫刻も、どこにあるのか、というか現存しているのか不明だ…。

…もうすでに、1期生から順番に、なんていう殊勝な試みは諦めて、手当たり次第、という感じです。

まぁ、人間、勢いです。特にこういう、ニーズの全く見込めない分野では、自分のモチベーションがあるうちが勝負なのさー。

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2006年07月29日

技術離れ対策

やるだけやりました。残務も凄いことになっていますが。あとは荒野となれ山火事となれ。…明るい展望を示す努力ぐらいしろ、って感じですが、とにかく一区切り。

てことで呑みました。日本酒オンパレード。

十四代本丸(庄内)、獺祭(山口)、上喜元(酒田)、田酒(青森)、烈(大阪) 、奥播磨…覚えているだけでこんな感じ。他にもいくつかあった。八十種類以上の地酒をそろえるというお店で、際限がなかった。
何合飲んだんだろう。5時間近く飲みっぱなし。最後のほうにはへべれけで、味が分からなくなっていた。勿体ない。

今まで余り聞いたことがなかったけれども、獺祭(だっさい) というのが、どうして、名前に反して粋で、きりっとしてうまかったです。こちら( http://www.sakeno.com/ranking.php )でみると、人気があるんですね。杜氏さんではなくて、若手社員の製造スタッフさんたちによるお酒だそうです。(http://asahishuzo.ne.jp/)


で、飲みの話題は、「この業界、お先暗いね。これからどうしようか」ということに終始していました。

技術者が技術者として食っていけなくなっている。年々事業環境は厳しくなる。公共事業は削減の一途。リストラを繰り返しても追いつかない。各社は技術者をもてあまして、どう食わせようか頭を抱える。
最初から余り高くなかった給料は、下降の一方。
残業は厳しく制限される一方で、透明性やら品質やら環境配慮やらデジタル化で、手続き事項や作業は複雑化する。書類も提出物も増える。作業レベルは上がっているのに報酬は下がる。一人当たりの仕事の量は増えるばかり。

とても若い優秀な学生さんに選んでもらえるような状態ではありません。

景気いいのは、中国需要に引きずられている自動車業界、プラント、メーカーぐらいでしょうか。

世の中はソフト化。金融、投資、法律系は重宝される一途。
金融・商社系と、エンジニアリング系の給料差は拡大する一方。昔からある程度そうですけれども、格差は広がっているのではないか。
安全性、企業倫理、独禁法やらなにやらで、締め付けは厳しくなるばかり。メーカーもゼネコンも、ニュースになって出てくる時はいつも悪者扱い。

もう世の中が出来上がっちゃっていて、インフラがなくて不便、という経験をしている人間がいなくなっちゃっているから、インフラに価値を置かなくなっている。「公共事業はやめます」と公言する政治家が当選する時代だ。
世の中どんどんソフト化している。モノをつくるより、制度でなんとかしましょう、という方向性。
それはそれでいいのですけれども、ハードの否定に世の中が動いているのは問題だと思う。最終的に世をささせているのは、ハード、モノなので。

けれども、技術者になるインセンティブがどんどん無くなっている。理科離れ、という言葉も出来て久しい。10年前に比べると工学部の人数は半分以下になっているそうな。油にまみれて機械に向かい、設計図面とにらめっこでひたすら計算、というのは全く流行らない。

不便な思いをすると、便利なものを生む技術というものへのモチベーションが働くのですが。世の中便利になりすぎていて、もはや技術が当たり前になって、それ以上高めようという動機が起こりにくくなっているのかもしれない。後は安くするばかりで、メーカーは競争、競争、とコスト低下の過酷な努力を強いられている。

んでも、資源の無い国が、知的財産とモノつくりで食っていかなくてどうするんだ、と思います。

投資金融ばかりいじくっていても、実質的なものは残らない。
10年後、20年後の我々を食わせていくのは、やはりハード面の技術だと思うのです。
今は人件費の安い途上国にも優秀な方々はたくさんいる。その中で競争して日本が食っていくには、自分ところの技術力を高めて、品質と耐久性と信頼性をもつモノとその技術を売ることにより、世界に冠するしかないでしょう。

インフラ系が国内で市場を失うのは仕方がないですが、その技術を売れるところはまだまだ国外にいっぱいあって、そこに収益を求めないでどうするのかと、みんな思っています。が、ハードインフラ系のODAったらもう、逆風の風当たりが強いこと強いこと。なんかもう、メディアからは悪徳業者の代名詞みたいな扱いを受けています。

一回、マスコミの人間を、道路、水道のない雨季の泥濘の未電化の山中に1ヶ月ぐらい置き去りにしてみると、考え方も変えてくれるのかもしれん。


とにかく若者をエンジニアリングに目を向けさせないと、我々、実質的な収入源を失って、そのうち食っていけなくなると思う。金融も貿易も、国にハード資本があってこそ、支えられるものなので。その辺、みかけの金の流れに惑わされてはならんと思うのです。


それで出てくるのが工部大学校ですが。
明治初期、産業技術導入のためにひとつの省を作ってしまうぐらいだから、それはもう国を上げてのやる気だった。

工部大学校の実験室も最初から恵まれていたわけではなく、エアトンが着たばかりの頃は、「実験設備がまったく十分でないため仕事はとても難しい。広さと明るさの綿で此れまで目的にまったくかなっていない。間に合わせの地を占めている。換気装置がまったくなく明らかに健康に悪い。ガスも水も火も供給されていない」とダイアーに報告していました。

それでも大急ぎで実験室設備が整備されて、ペリーが来る頃には、彼をして「世界のどこにも見られない、すばらしい実験室に出会った」、ディクソンには「それらの設備はイングランドの科学系カレッジで通常見られる設備よりも最も完璧なものであった」と言わしめました。
そういった設備とともにエアトンは、ペリーとともに11編の共同研究論文を発表しています。この論文には、川口武一郎を始め、多数の日本人学生が実地訓練の名の下に、研究に協力していました。志田、川口、浅野、中野ら秀才学生らは、彼らの実験助手としての役割を果たしていました。
その工部大学校実験室での秀才助手達との研究の成果と、工部大学校の制度そのものを、エアトンとペリーは本国に持ち帰って、英国の技術発展に寄与させたわけです。

フィンズベリーではエアトンは、工部大学校のシステムを取り入れて技術者教育の制度を整えました。
工部大学校はお雇い外国人から技術を受け入れるだけではなく、そのお雇い外国人の質をあげることによって、技術を還元させた、平たく言えば、教えるほうを学ばせた、という役割も、工部大学校にはあったわけです。

一方、こういったことは一部の論文以外、余り強調されていない。これらを書いたのは、ほとんど英国人です。日本人の文献資料漁っていると、お雇い外国人ヨイショばかりなのが、気に食わんのです。

あれだけ、受け入れ側の日本が予算をつぎ込んで、本気になって技術習得、人材育成をしようとしているのだから、有る意味、お雇い外国人が成功して当たり前だと思うのですよな。

今の技術援助なんて、援助側が人の派遣から契約からぜーんぶ面倒見てあげて、奨学金出して自分の国に留学させてあげて、現地でセミナーやら講習会やら開いても参加者の旅費やら日当やら全部出してあげて、ついでにその会計処理までやってあげて、至れり尽くせりやっているわけで。それでも、明治に比べると、情けなくなるほどの効果しか上がっていない。受け入れる側に、どれだけ自分達が貧乏でも費用を費やす価値がある、という主体性と自立性がないと、依存心を増長させるだけで、大して効果にならん、というのは感じます。

そんな感じで、明治初期御雇い外国人に関しては、今までの研究でいくら功績が称えられていても、あれだけ高給と高待遇もらっといて、受け入れ側がやる気満々で、まじめで誠実なんだから、成功しないほうがおかしいというか。そのくらいやって当たり前だろう、と思ってしまうんですよな。

で、明治日本は10年で自分と頃の技術者を育ててお雇い外国人と首を挿げ替えて、20年でほぼ完全に技術の外国依存から脱皮したわけで。それを見ると、今の援助は何十年同じことをやっているんだろうと思ってしまいます。勿論ベトナムとかインドネシアとか、結構な効果を上げているところもあるのですが。
とにかく、あの日本の明治初期の10年と言うのは、すさまじいスピードで成長したわけですし、それ自体が、我々に大きな勇気を与えてくれることだと思うのですよな。

日本人はあれだけ歴史好きの癖に、どうも今のメディアって、自分の国、特に政府事業を評価しない傾向があります。戦前ナショナリズムへの反省なのか、舶来志向なのか、左翼や朝日新聞の陰謀なのか、単に謙虚なのか。もうちょっと手前の国のことを妥当に取り上げてもいいんじゃないかなぁと思うのでした。やりすぎて自画自賛になってしまうのも困り者ですけれども。少なくとも、ウチの国はこうだったよ、と胸張っていえる土台を作っておくことは、日本人が日本人であるためには必要だと思うのです。

工部大学校は東大の前身だけあって、教育史分野などでは結構やりつくされているところがあって、今更私ごときが取り上げんでも…とは思うのですが。
そういう感じの、世界史上稀に見る真剣さと真面目さが工部大学校をはじめとした当事の技術者教育につぎ込まれていて、それゆえに今の日本がある、ということについては、声を上げておきたいなぁと思います。


そして、その時代の面白さを明らかにし、エンターテイメントとしてメジャーにすることによって、若者の技術離れ、技術離れを何とかできないか。
平たく言えば、工部大学校をアニメなりドラマなりにして、ひとつのジャンルにしてしまう。

なにせ全寮制エリート男子校の群像モノだ。おたくなお嬢様方の飛びつく要素には事欠かない。
工部美術学校のひなとかりんとかの女の子を、萌え系としてクローズアップすれば、おたく男子だって関心を向けてくれるだろう。
これでつかみはオッケー。

その中で、プロジェクトX風に、イベントや各自の実習、卒論主題を取り上げて、いかに彼らが当時の技術最前線で苦闘したかをドラマとして描き上げる。

本気でやったら、受けると思いますよ、マジで。

そして、ジャンルの力で、若者の目をエンジニアリングに向けさせるのです。

「動物のお医者さん」のおかげで北大の獣医学部の志望者数が、「海猿」のおかげで海上保安大学校の志望人数が、激増したというではありませんか。
その意味で娯楽メディアが若者に与える影響は、偉大。

まずはNHKあたりが2クール、26話分の放映をする。その後、パロとして民放が戦隊モノでもやって、ジャンプが天下一武闘会モノをやれば、だいぶ広まってくれるだろう。

……どこまで自分が真面目なのか分からなくなってきました。
本気で日本の将来を憂いているのか、単に工部大学校のメディアモノが見たいだけなのか。
後者が94%ぐらいです。

そんな感じで、酔っ払いのたわごととして許してください。

とりあえず、20話分ぐらいは、頭の中に貯まってます。そのうち、真面目に不真面目な感じで垂れ流してみたいと思います。

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2006年07月20日

工部大学校オムニバスその3 安永義章と赤羽工作分局製紡績機械

ちょっと間が開いてしまいました。オムニバス。前のように一度にやろうとするとハードルが高くて続かないので、一人ずつ行きます。2期生はまずこの人から。

安永義章 (やすなが ぎしょう)
明治13年5月卒業、佐賀県出身。機械科の第2期生。

明治9年3月と11年3月の2回にわたって、成績優秀者の景品が与えられている秀才です。
彼が贈られたのは、工部大教師のジョン・ペリー先生の著作"An Elementarty Treatise on Steam"と、ランキン博士の"A Manual of the Stream Engine and Other Prime Movers"、"A Manual of Machinery and Millwork"でした。

第一等及第の卒業者。2期生の機械科11名のうち、第一等は彼と原田虎三のみ。
卒業時の成績は45人中2番で、次席でした。

安永は、志田や高峰や森、それに志田の電気工学科の後輩の岩田武夫らとともに、プロジェクト気球チームの一員でした。この時安永は4年生。彼の担当は木型・気球枠の製作でした。

西館楼上の集合ボイコット事件のときも、南清や片山東熊、岩田武夫、中野初子らとともに謹慎食らっています。
そんな感じで、イベントにもよく顔を出す。電気科の岩田と共に、二期生の中心的人物のようです。

卒業後は、岩田とともに、明治14年の日本工学会の会長になっています。
また、明治23年の工学会誌に「石造拱橋」という論文を掲載。
さらに、「度量衡比較自在」を明治26年に工業雑誌社から出版しています。

卒業後は工部省工作局赤羽分局勤務。
その後、工部省の終焉に伴い、明治18年に陸軍に移ります。3月、兵器製造研究のため欧州へ派遣されています。明治20年陸軍三等技手。このとき、化学科の先輩でプロジェクト気球チームの森章吉も同じ陸軍省でした。
明治21年、森省吾とともに、五等技師。

陸軍省にいながら、官民問わず、いろんな仕事を引き受けています。
明治24年に、大阪セメント会社の製造力検査を、内務省より委託されています。
また、明治26年9月〜27年2月まで、東京工業学校で機械科の授業の受け持ちを嘱託される。
さらに26年10月、御料局名古屋支庁所管の錦織綱場の改良方案を調べる嘱託を受けています。
加えて、明治27年7月19日には、震災予防調査会臨時委員に任命されています。

こんな感じで、陸軍に所属していても、あちこち、いろんな分野で使いまわされていた模様。能ある人の宿命というべきか。

明治29年陸軍省を辞することになります。同期の鉱山科の荒川が語るところによると、小銃研究を行っていたとのことですが、良い武器を発明しても上官の名義となり、本人が尽くした功績が世に現れることがない。これが不平で陸軍を辞めた、とのことでした。

その後、八幡製鉄所の技師になり、先輩の小花冬吉とともに製鉄所担当。製鉄事業視察のため再び欧米へ派遣されます。明治34年に陞叙の際「工学博士」という肩書きが見えますので、このときまでに博士号授与があったのかと思います。明治35年10月に八幡製鉄所退官。

その後、明治37年4月、大阪高等工業学校長に就きます。これは今の大阪大学工学部。少なくとも大正7年までは勤め上げています。

興味深いところでは、安永はダイハツディーゼルの創立にも関与していました。
当時、エンジンはほとんど舶来者の輸入品。エンジンの国産化とその普及のために、安永が関西の財界有力者の協力を仰いで、発動機を製造する会社、「発動機製造株式会社」を設立。ここで、国産初の6馬力のガス発動機の製造に成功しています。昭和になって三輪自動車の製造を行いますが、このときの車の名前が「ダイハツ」。「大」阪の「発」動機会社ということで、会社がダイハツと呼ばれ親しまれていたことが由来だったそうです。

さて、安永。興味深い体験談を語り残して下さっています。
「赤羽工作分局製 紡績機械」ということで、彼が明治14〜15年に工作局で担当した、紡績機械の製作についてです。

「現代日本記録全集9 科学と技術」(筑摩書房)に収録されています。この本、団琢磨の語りや田中館愛橘の座談会、前島密の「郵便創業談」、田辺朔郎の「北海道鉄道由来」、そして、恐ろしいことに宇都宮三郎が自分について語っている「宇都宮氏経歴談」などが収録されています。えらく濃い記録集です。田中館愛橘については今ちょっと目をつけておりまして、オムニバス番外編で後ほど語りたいと思います。

で、安永の語り。まず、「わが工学会長山尾庸三君が工部卿たりし時、わが客員大鳥圭介君が工作局長たりし時」と仰っているので、たぶん工学会の公演か何かだったのではないかと。

後になってからの回顧談ということで「未だ赤羽工作分局が工部省の所轄なりし時」と始まっています。なお、赤羽分局は16年2月26日に海軍兵器局に引き渡されています。

紡績業はもともと内務省の管轄で、国内でも綿紡績の発展が強く要求されましたが、日本に紡績機械を製作する技術は当時ない。すべてイギリスからの輸入品でした。これは紡績に限らず、鉱山機械や造船、蒸気機関など、すべてにおいて同様でした。産業の外国依存からの脱皮と国産品の生産は、国の使命。各種機械器具を開発して、国産機械を製作するためには、音頭をまず国が取って、国家資本を投入せねばなりませんでした。

その開発現場最前線が、工部省工作局でした。安永は、この工作局の赤羽分局で、農商務省から注文を受けて、紡績製作の担当となりました。そして、同じ2期生機械科卒業生の坂湛と共同で、紡錘二千個の紡績機械一機を製造したときの苦労を語っています。

以下、国主導の機械開発の黎明期を象徴するような出来事だったのではないかと思いまして、興味深いです。

明治13年5月、坂と共に工部大卒業と同時に紡績機械製造を命じられました。で、6月に三河にある輸入ものの紡績機械を見に行き、見取図を作って、工作局長に報告しています。(次席卒業ということは、一期生だったら十分留学できたのに、二期生以降はそのチャンスはなく、いきなり現場主任を負わされたわけだから、気の毒だ…)

ちなみに、その報告は「工作局長大鳥閣下に奉呈す」から始まっている。大鳥閣下って誰だ、と一瞬本気で思ってしまった。閣下呼びか…。そういえばクララも「大鳥閣下」と言っていたけれども、あれ、訳者の方が勝手につけた敬称だと思っていた。

この紡績機械がまた複雑で、分離離散しているので全体図を把握することはできなかった。が、7割8割の解体図は作ることができた。その見取り図作成に半年を費やした。途中で自分は病気になって、ほとんど坂にお任せする羽目になってしまったとのことでした。

そうして苦労して作った見取り図を元に、紡績機械を製造するわけですが。
農商務省からの注文は10機だったのですが、最終的に1機しか作らせてもらえなかった。
というのは、赤羽で作ったものはあまりに制作費が高価で、英国からの輸入の2倍にもなってしまった。それに見込みより時間がかかってしまった。なので、残りの9機は製作を見合わせられてしまったとのこと。
これがよほど悔しかったのか、安永はそのときの苦労についてつらつらと語っています。

もともと、蒸気機械やポンプも、国内で作ったら最初は輸入品の2倍も3倍もコストがかかった。それらは将来の経済性を念頭において開発するのであって、開発費用を最初の1台の費用に負わされたら、高くなって当然だ。輸入品を国内品で代替するのなら、その目的を考えてほしい、というのが最初。

開発するにも大蔵省から予算は減らされて、仮家屋一棟も建てられない。お雇い外国人は任期が来たら再契約は許されない。新規雇用も絶対にだめ。工場機械もすべて輸入は許可されない、自作するしかないという状況。そうすると全部自分で調べて試行錯誤せねばならず、はなはだ手間がかかる。それで不都合を申し立てると、製作をやめろといわれてしまう。

材料の鉄も、輸入物ではなく釜石産の鉄を使用せねばならなかった。で、釜石の鉄はえらく硬い。ヤスリも鏨も入らない。工夫が泣かんばかり。紡績機の仕上げも困難を極める。工部卿が視察したとき、安永が自ら、輸入鉄と釜石鉄の強度の差を見せるのに、鏨をとって実演して見せた。そうしてようやく上等の鉄を手に入れられるようになった。ただ、釜石産の鉄で苦労して作成した機械は、強度が強くて磨耗や破損の心配が少なかったとのこと。

官営の工場の定めとして、部下の工人を勝手に金銭で報いてやることもできない。全体の組織も緩慢迂遠。

そんな感じでやっとこ作成した手作りの国内初の精密紡績機械。価格は4万円。これはむしろ安価というべきだろう。もし1機だけではなく予定通り10機作らせてもらえれば、1機当たりの値段はもっと下がっていたに違いない。1機だけの値段をみて高価とされてしまったのは酷な話だ、と。その悔しさを滲ませています。

局長、ちゃんと部下を庇ってやれよー、と思いましたが。
大鳥は15年で元老院に移ってました。残念。
組織が緩慢迂遠、というのは、当時どこもそうですよな…

で、そうして心を砕いて製作した1機が、16年2月に農商務省に引き渡されたのですが、なぜかそのまま箱詰めで2年間も蔵入りになってしまっていた。
その後、紡績と織物の第一人者とされている農商務省工務局の荒川新一が、その機械で綿糸を紡ぐ試験を行った。
その評価。

「打綿器のほかは役に立たぬぞえ。決して安永のことを悪く上申するようなことはしない、安心しろい。畢竟、こんな製作を言いつけるやつが、いえー、悪いえ」

などと言い放たれた。
しかも、その数日前には、坂に向かって「打綿器は見掛け倒しで、綿は打てぬわい」などとのたまっていたらしい。

「右のご挨拶は小児の戯言と同然なれば、無論取るにたらず。同氏は十分の試験も為さず、早計にも右様のごとき論定に帰着し、器械はあちこちたたき散らし、同氏の弁舌に任せて同氏の意見、即ち鑑定のとおり十分に工務局へ報告されしならん」

と、精根尽くして製作した機械に対する酷評に、安永は涙ながらに語っています。
そして、器械は、非常に安価で、払い下げられてしまいました…。

しかし。
払い下げを受けた下野国芳賀郡の野沢泰次郎氏。彼の元で、紡績機はその真価を発揮したのです。
野村氏は、後に安永を訪れました。安永はあいにく留守にしていたので、野村氏は手紙とともにお土産の鰹節を置いていきました。その書面の内容。

「先年工作分局にて御製造の綿糸紡績機械その後御払下げを蒙り、据付運転仕り候処、案外工合宜しく候」から始まり、その機械の具合のよさを述べています。長年ご苦心された末の今日の実況、このような精密な機械を日本で製造されたのは国家のための大儀、ということで、「鳴謝かたがた出頭仕り候」だったと。

さらにその後、再び野沢氏からの手紙で。「完全整頓良結果の次第」「爾来右機械の義、なんらの故障もこれなく、十分都合よく運転致し居候」とのこと。まったく長年の苦心の工夫の成果で、わが国未曾有の精密機械で、このような良い結果を得るというのは、実に敬服の至り…と。感謝と尊敬の言葉が連ねられていました。

「論より証拠」と、安永、溜飲を下しています。
見取り図おこしから苦労して、コピーから初めて、先生もおらず、硬い鉄を削って、誰もやったことがない国内製の精密機械を仕上げて。それで評価はボロクソ。発注者には使ってもらえず、民間に叩き売りされてしまった。
けれども、その民間人使用者の評価こそが、すべて。

荒川氏の知識は「架空的、書籍的」。未だ一の実地の演習も経ていない。経験は荒川氏にはなかった。
一方、野沢氏は長年紡績の実業に携わってきた実地の人で、あまたの紡績所の視察もし、自ら英国製の紡績機械を使用して熟達した人である。赤羽製のものと舶来製の機械を、部品一つ一つ比較することのできる人である。
そういう方からの良い評価を得られたことが、実に満足。我輩にとってこの上なき証明。面目欣喜に耐えざるなり、と。

机上人間からの公の評価より、実地で用いる人からの評価のほうがずっと実がある。面目躍如。
お上に認められなくても、実際に使ってくれる人の役に立てたから嬉しい。
そういうエンジニアとしての喜びが伝わってきたことです。
なんかもう、「よかったなぁ、がんばったなぁ」と、抱きしめて肩をぽんぽん叩きたくなりました。

そんな感じで、二期生次席安永君。そのエピソードは、とっても素朴なものでした。
明治の先駆者の方々は、右も左もわからない状態でも、職務に誠心打ち込んで、その分野を開拓してこられたのだなぁと。
実質的な、胸に来るエピソードでございました。
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2006年04月28日

工部大学校オムニバスその2 川口武一郎、小花冬吉、栗本廉、中村貞吉、森省吾

一期生、次行きます。

● 川口 武一郎(民一郎?)
電信科、一期生

電信科2名の一人。慶応義塾出身。
志田の親友。音響学を研究し、今入町にあった時計屋の元士族の老夫婦と仲良くなり、彼らの奏する六段の琴を聴いて、六段の音符を作ったこともある。

志田と共にエアトンの助手を勤めた。
日本アジア協会で発表されたエアトンとペリーの共同研究「諸気体の電気伝導度の研究 "The Specific Inductive Capacity of Gasses"」(Trans. of Asia Soc. Japan, vol.5, Part1, 1877) には、研究協力者として、川口への謝辞が記されている。 このとき川口は4年生。

四俊才として、田辺朔朗は、志田、高山、南と共に、川口を屈指している。英語得意で、英語の哲学書を愛読していた。

在学中に病に殪れ、卒業2年前に病死し、惜しまれた。五年生のときに、志田、2期生の岩田、中山、三期生の中野、藤岡が青函ケーブル海底線修理工事に赴いたが、このとき既に病を得て、川口は参加していない。
印象的な人物だったらしく、いろんな人の回顧談に出てくる。

高峰とも仲が良かった。時計屋で落ち合って、日曜日などは一酌して、陶然として寮に帰ってきたこともある。

この方も、長生きしていれば、いかなる功績を残してくださったかと、悔やまれる。


● 小花冬吉 (おばなふゆきち)
冶金科、1期生、1856-1934、

旧幕臣家の出。父は小花作助。
製鉄と教育者として功績あり。この人も業績を追うだけで何日あっても足りない。

もと、三好と一緒に工部省勧工寮の修技性だったが、明治2年に脚気で2ヶ月ほど療養。ある日、三好の家を訪れると、そこに入学試験問題があった。昨日実施された工学寮の入試問題であり、その日は終わりの日の2日目だった。しかも修技生制度は廃止されると聞いて吃驚。午後に大和屋敷の入学試験会場に走って、ダイアー先生に受験を懇願した。ダイアー先生は、昨日二問と本日の試験は既に終わったが受けてみるか?と聞く。努力してすべてを答案します、と小花は答える。既に問題を見たかと聞かれて、見たということを正直に述べた上で「余は道に落ちたるを拾わざる者なり」と断然と答えた。試験の結果、見事合格。まじめんぼさん。

地震学の祖といわれた、ミルンに着いて、冶金学を学ぶ。
グラスゴー留学組、採鉱・冶金を習得。16年5月帰国、工部省鉱山局鉱山課に出仕。後、広島県の官営鉱山(現在の三次市布野町)の四等技師に。48箇所のたたらの技術改良に取り組む。翌年、後輩の黒田正暉が加わる。日本の製鉄といえば、砂鉄を材料とした「たたら」。たたらは、空気を送る踏みふいごが語源で、鉄を精錬する炉のことをいう。小花らは、日本古来の方法に様式技術を取り入れ、シンタースメルティング法によるたたら鉄滓からの鉄のリサイクル方法や、水力装置の開発を行なった。
明治20年5月フランスに留学し、製錬技術を学ぶ。その後、秋田鉱山監督局創立に当たって推されて局長。札幌鉱山監督局長を兼任。29年、製鉄所技師として欧州並に米国に差遣される。32年2月に工学博士の学位を授与。

官営製鉄所設立に名を残す。八幡製鉄所の名は彼と共に語られる。
明治17年、大山元帥、樺山、松方、黒田、牧野の元老及陸海軍の諸将に働きかけ、製鉄所の開設を叫んだ。自分の足で山河を跋渉して、全国の鉄山調査を行なった。明治25年6月、製鉄所建設論を公にし、欧米各国の鉄鋼、鋼鉄の算出額、鉄道用軌道の長さから軍艦、商船使用の鋼鉄のトン数まで精査した。そして、日本の鋼鉄輸入額と対照した上で、日本が75隻の軍艦を備える必要がある、軍事防衛上や原材料入手の利便性を考え、九州門司近傍に一大製鉄所を建設すべしと力説した。巨大プロジェクトのフィージビリティ・スタディが認められて、かの八幡製鉄所建設に繋がった。28年帝国議会に建議し、認められた。

晴れて、官営八幡製鉄所の初代製鉄部長に。明治40年2月5日、小花は、八幡製鉄所の炉に初めて火を炉内に入れた。一寒村が東洋第一の製鉄所と化したのを見て「忘れじの 古里しのぶ 老の身は 誰に語らんありし昔を」と詠んだ。八幡製鉄所は、日露戦争への資材供給や技術革新、重工業の発展に伴う需要増加において、なくてはならないインフラとなった。

明治43年に東京帝国大学教授。
また、明治41年、藤田、岩崎、古河などの鉱山会社が、その養成教育を実施する専門学校設立を建言。これに答えて、秋田鉱山専門学校が設立され、小花が43年校長に就く。採鉱学科と冶金学科より成る。現在の秋田大学工学部。小花は、松下村塾等私塾教育の美点を研究して、学生の善導は師弟の融合であるとした。寄宿舎を建設して全ての学生を入舎させ、献立から食料品の購入、会計等一切を学生に任せた。小花もまた、毎週土曜日から日曜にかけて、必ず宿直学生と起居を共にした。校長と学生とは親子の如く教師と学生とは兄弟の如く親しかった、慈父のごとしであった、とのこと。

4年の勤務を経て、退官後は小石川の閑居に閑雲野鶴を友とし悠々自適の生活を送る。大正3年に病没。秋田大学に小花の胸像がある。人のよさそうなつぶらな瞳。

責任観の強い人で何事をするにも予め周到な調査研究をし、後に禍根を残す事はなかったとのこと。学校の校章を作る時にも、世間並のものでは承知出来ぬと、その意匠に苦心して工夫を凝らした、細かい人。
時事新報社曰く、「日本鉱業界の大先輩にして鉱業界の父と云わるる大功労者。我が鉱業界の父」と絶賛。
でもやっぱり「隠れたる功労者」と、一般には伝わっていない。



● 栗本廉
冶金科。一期生。

英国留学組の一人。地質学を学ぶ。
明治16年工部省准奏任御用掛。農商務四等技師。19年に休職した後、官営の生野鉱山に勤務。足尾銅山の鉱夫引き抜きの論争に参加した。
工手学校の提唱者の一人。


● 中村貞吉 
化学科、一期生。1858年生。

三河豊橋藩の出。石油化学を研究。12年の11名英国組には含まれなかった。
13年度、杉山輯吉と共に工学会の技師を務める。

18年、工部大学校助教授と工部省御用掛を兼勤。その後、イギリスに留学。19年帰朝。農商務省四等技師。20年、依頼退官。工手学校設立時の創立委員となる。当初大鳥が校長に推薦されたが、中村が初代校長となった。工手学校の演説でも「工業は恰も戦争の如し」と述べている。
23年、従七位。24年、病のため退官。明治28年死去。
福澤諭吉の長女、里と結婚した。
髪の毛がふさふさで、もみあげが濃い。ラテン系の顔立ち…


● 森省吾
化学科、一期生。工部大には珍しく土佐出身。

化学科は合計6名居り、第一期生では最も多い科だが、ジョーの存在がきらびやか過ぎて、他の人たちが今ひとつ目立たない。けれども彼も、なかなかのもの。
「プロジェクト気球」チームの一人。水素製造を担当した。
議論家。西楼上のストライキの際には首魁者として、第一に取調べを受け、南、岩田(電信科二期生)と共に謹慎処分を受けた。

卒業後、陸軍に入り、火薬や化学に関する研究を行った。発明が上官の名義となる体質に不満を持ち、陸軍から離職。化学工業に関する学会の必要性を唱え各方面に働きかけた。明治31年、工業化学会の設立の際は榎本武揚が初代会長に、森省吾が副会長に就いた。


_____________

そんな感じで、一期生。
経歴を調べるのに、国立公文書館のデジタルアーカイブがめちゃくちゃ使えました…。
よくここまで、人事データを揃えておいてくれたものだ。感謝。

さて、高峰ジョーって、目立つかと思いきや、意外に他の人の手記に出てこない。ストライキやイベント等の騒ぎにも参加していない模様。なんか、孤高の天才で、勉強すればデキるのに、ムラがあって、やる気にならないとイマイチやりきれてない、という感じがします。その辺り、委員長気質の志田が、ジョーのやる気を出させるために構っていれくれればいいと思う。

一期生に特に、大物が揃っているような気がします。英国留学が大きいというのもあるかもしれません。そして、英国における教育そのものより、国の金を使って行っているわけだから、国に還元せねばならない、という責任感が、彼らを育てたのではないか、という気がします。
勿論、たぶろーくんのような綺羅星も後からやってきて負けず劣らずの活躍をするのですけれども。一期生はちょっと別格、という感じがあります。

さて、同じ1期生でも、年齢はばらつきがアル。一学年、皆同じ年というわけではなくて、工学寮明治6年時点で一期生は16歳から21歳まで、結構幅がある。石橋が最年長というのは意外だ。二期生以下とは年齢が逆転している人たちも多いし。
学年と実年齢の年功序列って、どうだったんだろう。4〜6年生は現場実習などで、6年生は、工部省の技師たちを差し置いて主任になったりしているから、実年齢よりは学年のほうが序列としては大きく働いている気がする。
誰もが未踏分野を行くわけだから、先覚者としての動機付けというか、責任が育つということなのでしょうか。

ところで、学生はみんな、体育や実習でやらかしたネタを元に、あだ名がつけられていたとのこと。あだ名がついてない人は、それだけ品行が無難だったということだそうな。どこかにあだ名リストってないですか。石橋にはそのあだ名がなかったそうですが、それはウソだろう、と思った。


    [2] 入潮 2006/04/29(Sat)-20:31 (No.48)
    すみません。あだ名が付けられてなかったのは、石橋じゃなくて、辰野でした。納得した。コワくて誰もあだ名を付けられない。いや。「オヤジ」があったか…。

    (何故か石橋と辰野、キャラが全然違うのに、混同しがちになる…。今までもコッソリ訂正してました)

    ちなみに情報源はたぶろー君です。

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2006年04月26日

工部大学校校長先生のお部屋

すでにもう第一期生で息切れしています。これから第二期生、三期生…と続けて、さらにお雇い教師たちやスタッフたちにも手を出すとすると、とんでもないことになることに、いまさらながら気づきました。昨日触れた一期生だけでも、見れば見るほど書き足したい事が増えていく。

そして、まだアレで、一期生全部は終わっていません。まだ、機械科に今田清之進と宮崎航次、造家科の佐立七次郎、鉱山科に近藤貴蔵(留学からの帰路香港で客死)と麻生政包、化学科に森省吉、中村定吉、深堀芳樹、岸眞次郎、鳥居烋夫、冶金科に小花冬吉と栗本廉、といらっしゃいます。また、夫々がそれぞれ活躍しているもんだから。悲鳴。

で、造家科一期生曾禰君。彼がまた正直に、細かに語り残しています。(「旧工部大学校史料附録」)
入学試験の様子。英語書き取り試験で監督がエアトン先生だったとか。このとき、試験員の休憩所に独り椅子に日本人が座っていた。通訳ぐらいの小官吏と思って、彼の傍に行って何かを尋ねたところ、かなり横柄な態度で答えられた。彼は、工部省の工学助、林董だった、とか。その時の感想が「成程と首肯れた」って一体。

さて、曾禰君は建設専攻だけあって、工部大学校ゴシック式レンガ造り二階建ての建築を事細かに語っています。宿舎は四人部屋でベッドは6つあって、各部屋はベランダで繋がっていて、並んで勉強できる机があって、食堂があって炊事場があって喫煙室があって湯呑所があって、浴槽は蒸気を噴出して暖めるもので、一度に25〜6人は入れる大きなものだった、…等など、細かい設定ができて嬉しい。

それで、工部大学校は、衣食住、官費で全てまかなわれている。授業料もタダ。ノートや筆記用具、製図道具まで申請するだけ手配してもらえるという至れり尽くせり。

いままで破れた袴、粗末な羽織で、汚い下宿にいたり他人の家に厄介になっていたりしていた者が大多数だった。なのに、いきなり一朝、官費生になり、上等の羅紗の制服を支給してもらい、昼はビフテキやシチューが出てくる洋食で、夜は当時高価だった毛布を二枚もかけ、トイレの便器まで英国からの輸入品で、館内もバイブラジエータを導入した蒸気暖房方法で部屋を暖めていて、きわめてハイカラだったとかいう贅沢具合。

しかも、夏期2ヶ月の休暇の時には、下宿料を与えて郊外で自由に生活させて、工場や鉱山、鉄道などにも官費で出張させた。「恰も、手を執り体を押して、愛児を歩ますに似たる態度」であったとのこと。
(途上国で本気で人材育成をやろうと思うと、ここまでしないと人が集まらない、というのは古今東西同じなのだな。今も、防衛大学校が似たようなものか…)
いかに、工部省が教育熱心で、わが国の将来の工業の発達の為に、多大な期待を寄せていたかを知るべし、とのこと。それに対して曾禰は「私は思ひ之に至るごとに、国家に対し身の不甲斐なきを慙愧する」と真面目に述べています。あれだけの活躍をしておいて、謙虚だ。

そんな感じで学生たちの恵まれた待遇を思う存分述べたあと、曾禰。工部大学校が所属した工作局に関して。

「工作局は現在の東京倶楽部の西南部の空き地に当たり、木造平屋建の粗末なものであったと思ふ。大鳥圭介氏は此の小建物内に工作局長として大学を綜理されたのである」

……。校長先生。えらい待遇違いますな。
さすがの私も、校長は、煉瓦造りのハイカラ工部大学校の、奥の豪奢な一室に陣取っていたと思っていましたよ。
それが、木造の平屋の、小さな粗末な建物で。そこから深川やら赤羽やら兵庫やら長崎やらの分局を束ねながら、校長職をこなしていた…。そんな暴露をありがとう、曾禰。

限られた工部省予算。子供たちには贅沢をさせながら、自分は粗末な小さな建物でセコセコお仕事。予算不足と官営工場赤字に頭を抱える校長先生。「大鳥は自身で仕事する人にて局長には不向き」とか、長州人には揶揄されながら。

あまりに大鳥らしくて、涙ながらに肩を震わせました。
そいや倹素会も、このちょっと後の話でしたっけ…。
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2006年04月25日

工部大学校オムニバスその1-3 辰野金吾、曽禰達蔵、片山東熊、杉山輯吉、石橋絢彦

● 辰野金吾
造家科、一期生。1854年8月22日生。唐津出身。

唐津藩家禄十六石の姫松倉右衛門が父。弟の辰野宗安の養子となる。その際、実母に「必ず辛抱してみせる。私が江戸に行ったら必ず槍を立て帰ってくる」と誓った。
耐恒寮(唐津の洋学校)で、大学南校からきた東太郎と名乗っていた同じ年の高橋是清に学ぶ。東京に出てからは、英国人モーリス夫妻のボーイをして英語力を磨いた。

工部大学校の入学試験では点数が足らずに一度不合格、4ヶ月後の再試験でかろうじて合格。32人中最下位だったのだが、在学中に猛勉強して、卒業時には造家学科首位にまで昇った。造家科のコンドル教師は、科の学生をそれぞれ評価している。「英語は片山ほどではなく、理論は今一歩で、将来への提言はクリアではないが、プラクティカルな面は優れている」と評された。
晴れて官費留学生の11人の内の一人になり、ロンドン大学で学ぶ。キューピット建築会社で実地研究を行なう。明治17年帰国。コンドルの後継者として、工部大学校教授に。工部権少技長を兼務。東京大学工科大学学長。明治35年、47歳で辞職して野に下る。東京と大阪の東西二箇所に事務所を開き、200以上の建造物を手がけた。国家的プロジェクトを担当。東京駅の設計は有名。日本銀行本館は国の重要文化財に指定されている。
65歳で亡くなる前まで「次は帝国議会議事堂を造る」と意気込んでいたらしい。仰々しく重厚な作風。
なお、日銀本館建設の際、師だった高橋が社員として働いており、立場が逆転していた。

性格は怒りっぽかった。抜群の秀才というタイプではなかったが、並外れた強い意志を持っていたという。 「辰野堅固」と呼ばれたほど謹厳実直な性格絵に描いたような明治の気骨人間。
息子には「俺は頭が良くない。だから人が一する時は二倍、二する時は四倍必ず努力してきた」と語った。弟子にも厳しく、弟子からは「おやじ」と親愛の情を込めて呼ばれてきた。相撲が強く、刀剣収集が趣味だった。


● 曾禰達蔵 (そねたつぞう)
造家科、一期生。1853年生。辰野が光なら曾禰は影。民間から日本の建築を支え、合理と機能で次世代を導いた。

江戸城下丸の内の唐津藩邸で生まれた。幕末維新の数多い事件の目撃者。
歴史家になりたかったのに、生活のために建築家になった人。何かと辰野と比較して語られることが多い。辰野の影にあった感じのする、ナンバーツー的存在。
1852年生。10歳から唐津半藩主小笠原行の小姓を勤めた。 戊辰戦争では彰義隊と行動を共にした。小笠原長行は恭順を拒み、輪王寺宮と共に白石へ、奥羽越列藩同盟の参謀に。長行が榎本艦隊に合流して箱館へ向かう際、曾禰は長行から生きよと命じられ、断腸の思いで故郷へ戻る。その後、唐津洋学校で、辰野と共に耐恒寮で高橋是清に英語を学ぶ。高橋が東京に戻った時、曾禰は同行して、高橋家に住み込んだ。翻訳などのアルバイトで食いつなぐ。

1873年に工学寮入学した際には21歳と、第一期生の中でも年長だった。歴史の勉強をしたかったが、実家が困窮したために、生きるために官費で勉強ができる工学寮を選んだ。
建築科教師のコンドル先生と、同じ年だったりする。
英語に精通していて、余暇には電信科の川口武一郎と英語の哲学書を回し読みしていた。体育は嫌いだったようだ。
コンドル先生からは、造家科の中でもっとも高い評価を受けている。「論文は細心の配慮を持って作成され、実用性と芸術性を兼ね備え、日本における新様式を提案している。その結論は賞賛に値する。また日本の建築の起源に関する考察も優れている。ただ、英語の文法はややあいまいな箇所があった」。ただ、図版に関しては、poor と badが並んで、酷評されてしまった。コンドルの評価では、記述は良いが、デザインが良くなかった、というところだろうか。

卒業後、辰野が教授、曾禰は助教授として工部大学校の教職に就いた。そのとき造家科の学生は2名しかいない不人気ぶりだった。曾禰は「建築学は当時頗る不人気なものであって、往々富国強兵、もしくは利用厚生に縁遠き、否、妨害ある学科と嫌われ、財を散するのみの贅沢な学術と言われた」などと、辛いことを述べている。でも、現代は、技術史の中で最も一般に関心が持たれているのは、建築史だよなぁ、と思ったり。伝記も多いですし。アートとしての側面があって、目に見て理解しやすいからというのはあるだろう。

その後、海軍兵学校の技師に。旧海軍兵学校生徒館などを手がける。退官してから明治23年より三菱社員。辰野、片山、妻木(五期生、中途退学)らが次々と国家事業的建築を手がけたのに対し、曾禰の活躍の場は常に民間の事業だった。当時重宝されていた華美、威厳、威圧といったものを嫌い、気品と堅実、実用性を求めた。、慶応大図書館、日本郵船ビル、東京海上ビルなどが代表作。

性格は、謙虚で内省的。「庇護される人」などといわれている。人望はあったがリーダーとなることはあえて避けるような性格だったそうな。建築家らしく、工部大学校の校舎や宿舎についても詳細に語り残している。


● 片山東熊 (かたやまとうくま)
造家科、一期生。1854年生。

長州藩士の家系。片山文左の四男。12歳から奇兵隊に入隊。戊辰戦争に参戦し、実の兄(後陸軍中佐)と共に長州征伐や奥羽戦争に参加している。戦後、造兵寮官吏に登用されるが、職務の小ささに嫌気が差し、大器晩成を志して辞職。英国人に英語を学び、明治5年8月に勧工寮の修技生になる。翌年10月に工学寮に入学。

卒業後、明治12年工部省営繕局に勤務。14年に有栖川宮建築掛。宮廷関係の建築造営がメインのお仕事となり、王室ご用達建築家に。1882年にに有栖川親王と一緒に欧州へ視察。外務省御用係などをへて、1886年より宮内省に勤務。他に、1890年日本赤十字病院を設計。これは明治村に移築されている。1909年に東宮御所(後、赤坂離宮、現迎賓館)を建設するが、落成報告をした際、明治天皇に「贅沢すぎ」といわれてしまい、壮麗な建物につ主人となるはずだった皇太子殿下はそこに住まわれなかった。それがショックで寝込んでしまったとか。94年奈良博物館、95年京都博物館などを設計。1916年に明治天皇葬祭場の建設。
兄の湯浅則和が、1871年の山城屋事件(山県有朋ら長州系陸軍官僚が公金を山城屋に貸し付けた汚職事件)で山県を庇って辞職。このために片山は山県の引き立てをうけたとか。(Wikiより)
勲一等旭日大綬章を授与されている。

造家学科第1期生にはもう2人、佐立七次郎と宮伝次郎がいましたが、宮伝は卒業の前年に死去しています。


● 杉山輯吉 (すぎやましゅうきち)
土木科、一期生。

1855年生。静岡出身。菊間藩から沼津海軍兵学校の貢進生を経て、工学寮へ。
「土木人物事典」では、大鳥と同じく「工業人」という肩書きを与えられていた。

工学会誌の運営に参画、編集委員を勤め、自らも数多くの寄稿を行なった。元々、工学会は、第一期生卒業生によって、学究と交流のために結成されたものだった。しかし、主力の幹事高峰と、主記の石橋がグラスゴーに留学してしまったので、補欠選挙によって彼が幹事に選ばれた。「異常の努力」によって工学会誌を発行し「杉山氏の活躍は実に目覚しき」と、工学会の会計だった曾禰が褒めている。実際、会誌の投稿は杉山が最も多く、杉山の名前で埋め尽くされている年もある。「鉄道之害付鉄道建築規則」、「釜石鉄道ノ記」、「鉄道建築費ヲ諭ス」、「日本鉄道延線論」「水車用水路ノ計画」「碓氷馬車鉄道」 など、鉄道関係が多い。合計200以上の論文を発表して、記事数は同時代トップ。なお、これら「工学会誌」は、恐ろしいことに、創刊から全てPDFで読める。(http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/kogakkaishi/index.html)

工部大卒業後は、工部省鉱山局勤務、82年〜85年は長野県に勤務し道路開削委員に。その後、藤田組や日本土木会社など民間会社に勤め、大阪駅や呉軍港の改築に携わった。92年には外遊し、極東ロシア、朝鮮・中国を視察している。96年には台湾総督府で民生局技師に。元祖グローバル土木技師。


● 石橋絢彦(いしばしあやひこ)
土木科、一期生。1852年12月27年生。あやや(あろあさん命名)。
輝く名前の君は灯台。君の灯りが時代を導く。

父は中井国出身。代々久留米藩主に伝えた家系。江戸に生まれる。中井藩医杉本忠達に読書を、柔術を学ぶ。慶応2年4月11日、福田八郎右衛門の撤兵隊の江戸脱走に加わり、老幼隊に入る。撤兵隊が木更津に敗れた際、危機に陥って、官軍の点検を逃れて江戸に戻る。それから横浜の兄敬之助を訪れて、その指導に従い、東漸寺で英学を学ぶ。沼津兵学校生徒となる。(片山と仲が悪かったら面白い)。
「旧工部大学校史料」で誰よりも長く味のある語りを残している。言いたい放題で、山尾と井上勝不仲説を暴露してしまった。山尾スキーなのは言いとして、井上勝に何か恨みでもあったのか。井上勝は工部大学校生を重く用いなかったと言っているが、南清のように、勝に気に入られた例もある。

製図の消しゴムに用いたパンを貰っては飢えを凌いでいたという大食漢。

留学中はイギリスの灯台局で工事に従事。技師長のジェイムズ・ニコラス・ダグラスから灯台建設技術を学び、アメリカ、フランスの灯台や機器製作工場を視察して、明治16年に帰国。直ちに工部省灯台局に勤務し、灯台建設に携わった。北海道灯台の増設、91年には航路標識管理所所長兼技師長。神奈川県に一時期転任して、横浜港の北水堤工事監督も担当した。日清戦争では海軍省へ軍事用灯台建設を進言。大本営付となって、対馬や五島など、日本の防衛線の灯台建設を行なう。また、台湾総督府か要請されて、台湾灯台建設部技師となり、灯台建設のための調査を行なった。1904年には日露戦争のために陸軍から依頼され、韓国で浮標、灯台設置に当たる。いろんな部署からの時代の要請に答えて、灯火のために飛び回った。

工手学校(のち工学院大学)の4代目学長。逓信省航路標識管理所所長。榎本武揚の育英黌に講師として参加。
工学会にも多くの論文を寄せる。「英仏運河ノ計画」「巴理府給水法計画」「モルタル試験」「パナマ運河ノ勁敵」「軟土ヲ凍固シテ之ヲ堀削スル法」灯台の人かと思ったら、運河とか給水とか建設素材とかけっこう幅広く手がけている。横浜に架けた吉田橋は、日本初の鉄筋コンクリート橋建設としても有名。工学の中でも分野に拘らず、いろんな範疇に手を出している。メインは灯台と港湾で、特に灯台学の権威。

明治24年の「ポルトランドセメント試験法」のほか、明治30年〜33年にかけて、「鉄橋図譜」「 堀割盛土土坪表」「応力論」「隧道編 」「水理学」「治河法」「築港要論」 「石灰及膠泥ノ説」 「セメント篇 」等、多くの著作を記した。また、明治37年「工業要具編」、明治44年には「工業字解.建築部」を編集している。著作の数では工部大卒業生ぴか一。

意気勇猛。「身幹短小力微にしてその技に克つ能わず」これを恥じ竹中清兵衛に柔術を学ぶ。侮りに怒って刀を抜き格闘したことも多数。「回天艦長 甲賀源吾伝」を残すなど、箱館戦争についての語り部でもある。同方会誌では新選組の池田屋事件についても触れていた。歴史家になりたかった曾禰より、彼が歴史語り部になってしまった。ていうか戦争マニア? 彼が戊辰戦の語り部になったのは、自らが関わりきれなかった悔恨が大きいのだろうなぁ、と。土木より、幕末史で彼の名を知っている人のほうが多いかもしれない。

____________________________

と、とりあえずこんなところで。
朝になっちまった。(昼休みに修正していたら、1ポストに収まりきらなくなった)
一期生、貴方たち、活躍しすぎ…(悲鳴)
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工部大学校オムニバスその1-2 高嶺譲吉、荒川新一郎、高山直質、三好晋六郎

● 高峰譲吉
化学科、一期生。ジョー。1854年11月3日生。ご存知、世界のジョー。発明に開発に事業に秀で、日米友好にまで尽くした万能人。

工部大出身者では最も著名。消化酵素のタカジアスターゼやホルモンのアドレナリンの発見者。日本でより世界の舞台で名が通っている。世界のタカミネ。伝記も多い。高峰譲吉顕彰会(http://www.city.kanazawa.ishikawa.jp/takamine/index.html)では小学校児童や高校合唱部による賛歌まで聴ける。国立科学博物館では生誕150年記念典が開催された。(http://www.kahaku.go.jp/exhibitions/ueno/special/2004/takamine/index.html)

加賀藩医高峰精一の長男として越中、富山県高岡に産まれる。高禄の家系で工部大学校生では珍しく貧乏をしなかった人。加賀藩校明倫堂で学び、藩命により長崎へ3年間留学。1870年に大阪医学校に入る、東京に出てから舎密局で化学講義を受け、化学を志すことにした。工部省の修技生(工学寮発足前にあった各寮の技術者養成所)。

その後、主席で工部大学校に合格。在学中は、しだりんの追撃で成績は追い越され、首席は逃したが、英語ではトップ。志田と共に「プロジェクト気球」の委員。志田に協力して陸軍省の実験のために、気球の最も重要な気密仕上げを担当した。

明治16年帰国後、農商務省官僚に。米国万博出張の際、明治18年、発明家であった彼は、特許制度に関心を持ち、高橋是清に認められて、明治19年専売特許局次長に任命される。在職中、醸造、和紙、製藍等の研究を幅広く行なう。明治23年、麹を使った醸造法の改良で特許を得た。これがアメリカのアルコール会社に採用され、清酒醸造方法の指導を懇請された。当時日本人で、外国の大会社から招かれるというのは稀有なことだった。この関係でアメリカに移住、33歳で結婚。嫁はアメリカ人キャロライン・ヒッチ。大変ラブラブで周囲を困惑させた。ただ、酒造の材料にとうもろこしを使用したことから、モルト業者の大反対にあって、会社は解散せざるを得なくなってしまった。

事業者としても優秀で幾多の会社を設立している。ベンチャービジネスの元祖。渋沢栄一らと「東京人造肥料会社」設立。1913年帰国の際、国民の科学研究所の必要性を強く訴え、「理化学研究所」を設立した。また、製薬会社である「三共株式会社」初代社長。さらに、「亜細亜アルミナム」社設立。アルミニウム精錬の為の電力開発のために、自らの足で黒部の未踏の峡谷を踏査し、ダム水力の発電開発調査を行っている。生涯精力的。そのほか、功績は数知れず。

日本協会をニューヨークに設立し、日米の親善に尽くした。セントルイス万博に明治政府が出展したパビリオンを移築し、これに大鳥が「松楓殿」と命名した。桜の苗木をハドソン河畔に植えて、サクラ・パークを作ったり。帰国しようとしたら渋沢に「君は米国にいて世界のタカミネとして日本のプレゼンスを高めてくれ」といわれてしまった。大鳥の論説「国民の外交」には、高峰を脳裏に描いたのではないかという表現がある。大正11年勲三等瑞宝章。67歳でニューヨークで没。


● 荒川新一郎
機械科、一期生。

南、志田、高峰と共に、第一期生秀才4人メンバーの一人。寄宿舎の各部屋は、成績順に二階の端の部屋から決められていったので、高峰、志田、南、荒川はいつも一緒の部屋だったのだそうな。(どこかで聞いたことのあるやり方だ。校長が決めたんじゃないだろうな…)
英国留学組。紡績を学ぶ。1885年工務局勤務。

● 高山 直質
機械科、一期生。

入学は補欠だった。しかし、卒業時には志田に次いで次席。
在学中は不気味なほどに不動の二位。数学、物理、図学、英語、全ての分野で二位だった。わざとやっていた真の天才だったら面白い。
「高山、おまえまさか」「ちょうどディクショナリーオブエンジニアリング、欲しかったんだ。しだりん、エンサイクロペディア・ブリタニカもらえてよかったね」なんて会話を想像してみる。(物理、数学、英語、図学など、科目ごとに一位、二位と試験順位がつけられ、学業に関連した賞品がもらえた。ディクショナリーオブエンジニアリングは二位賞品の工学辞書。エンサイクロペディア・ブリタニカは一等賞品の巨大百科事典)

機械科より、グラスゴー留学組。グラスゴーでは志田、南と一緒に住んでいた。物理の試験では、一位志田、二位高山、七位南と、日本組がグラスゴーを席巻した。ここでもやっぱり二位…。

本業は鉄鋼技術研究。1881年に英国におけるボイラー保険事業の意義について「蒸気缶破裂予防要件」として報告している。「工業新報」にも、高峰と同じく、欧米の論文の翻訳を掲載。ボイラーについて保険、安全の概念をもたらした。工学会誌の追悼文に「意ヲ汽缶保険ト魚猟ニ注グ」とある。釣りが趣味?
明治15年(17年の説もあり)に帰朝し、母校の機械科の教授に。しかし、その翌年に夭逝。生きていたらどのような業績を挙げてくれたことかと悔やまれる。


● 三好晋六郎
機械科、一期生。1857年生。旧幕旗本三好家の六男。江戸裏猿楽町に生まれる。維新後は徳川に従って駿府へ。父が心を砕いて教育を施し、藩校で英学・漢学を修める。明治5年、勧工寮修技生に。

機械科次席で、やはりグラスゴー留学組。造船を学ぶ。機械科より2名の留学生があったのは、蒸気機関を主とした機械学のほかに、造船の需要が高かったためか。実際、海軍からの要請により、明治17年、機械科のほかに造船科が設立されている。グラスゴーのロベルトネビヤ造船場に入り、英国海軍の造船着手の際に、造船製図を実地で学ぶ。その後グラスゴー大学で学び、造船学科の優等賞典を受ける。
帰国後、工部大学校助教授として、ウェストとともに母校の教壇に立ち、造船を教える。後、明治19年に東京帝国大学工科大学の教授。工手学校(現、工学院大学)の設立にかかわり、明治20年から校長を兼ねた。榎本武揚の設立した育英黌の講師にもなっている。

性格は従順、謹直。粗暴を嫌い、常に文書を読み、絵図を見るのを無上の喜びとした。

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工部大学校オムニバスその1-1 志田林三郎、南清

● 志田林三郎 (しだりんざぶろう)
電信科、一期生。1855年12月25日生。しだりん。工部大学校エース。悲運に早世した苦労人。電子立国日本の出発点。

佐賀県出身。父は武士ではなく、塾の先生。林三郎が生まれてすぐ病死。母フミがまんじゅう売りをしながら、林三郎をミス・ナカという姉二人と共に育てた。饅頭神童。石炭運搬労働者相手に饅頭を売って母を助けたが、その際に計算がすばやく、決して代金を間違えず、大人たちがこぞって奪うように饅頭を買って、饅頭少年の計算能力を試したという。
漢方医に見出されて、階級の隔てのなかった佐賀藩の学校、東原庠舎で学ぶ。その後特例的に見出されて藩校の弘道館へ。佐賀藩科学技術振興の申し子扱いだった。石丸安世(後、工部省電信頭)が開いていた経綸舎でも学んでいる。石丸の影響を受け、16歳で上京。

工学寮一期生の電信科は慶応義塾から来た川口と二人のみだった。入学試験は高峰に後れを取ったが、その後、理学一位、数学で一位、英語三位、図学(製図)二位、総合でトップ。特に高等数学が得意で、同級生に教える立場だった。電気工学教師エアトンの信頼篤く、助手も勤めた。
5年生のとき、「プロジェクト気球」のチームリーダーとして、気球の設計を担当した。
卒業論文は「電信の歴史・電気電信の進歩に関する研究」200ページを越える理路整然とした圧巻論文で、卒業時点で、ぶっちぎりの首席。

第一期生留学組11名の中では、皆が士族出身の中で、唯一平民。留学中はケルビン卿に師事する。ケルビン卿(ウィリアム・トムソン)は熱力学の開拓者。トムソンの原理、ジュール・トムソン効果の発見者。絶対温度の単位(K)になっている。10歳で大学入学、22歳で教授、事業家としても秀で、怪物と呼ばれた。その卿をして、志田は「私が出会った数ある教え子の中で最高の学生」と言わしめた。「ケルビン卿は志田を愛した」という言葉はあちこちで見つかる。

また、グラスゴー市中央郵便局で無償で働き、これが後の郵便通信事業、行政の糧となった。
ただ従順に学んでいたから教授に好かれたわけではない。当時、英国の電気学の権威であったオスボルン博士が、Philosophical Magazine (http://www.tandf.co.uk/journals/titles/14786435.html) に掲載した論文を見て、志田は不審を感じた。そして自分の考えを、同じ論文に投稿した。オズボルン博士は「たかが日本の書生のくせに」と一喝するが、志田は怯まずにまた反論して、周囲を驚かせた。そんな気の強いところも見せる。更に志田は同じ雑誌に自記電流計に関する論文を掲載した。

グラスゴー大学に在籍したのは1年だったが、志田の研究成果に対して、自国学生を差し置いて、年に一度トップの学生に与えられクレランド金賞を授与された。名前も聞いたことのない東洋の端っこの小国から来た志田は、実力を持って英国人の鼻を明かした。その存在はよほど印象的だったらしく、志田の死後100年経ったあと、グラスゴー大学入学式で時の学長フレーザー博士が、学長挨拶のなかで志田について述べていたとのこと。
(今で言うと、つい最近まで内戦の最中にあったソマリアやルワンダのように、いったん荒れ果てた小国から、留学生が国費でやってきて、東大や旧帝大に入って、西澤潤一のように、教授としても実業家としても日本で1,2を争う功績を積んでいる今にもノーベル賞を取りそうな超人の下で研究して、教授が出会った中で最高の生徒と愛されて、しかも一介の学生なのに他の著名な教授に論文で喧嘩を売って、学生首位にも輝いていて、1年で自分の国のために去っていってしまった、みたいな感じか。そんなヤル気のある人間を見たら、絶対その国は伸びてくる、と恐れ戦くよなー。)

明治16年4月に帰国。27歳にして工部大学校初の日本人教授となり、さらに工部省准奏任御用掛を兼ねて、電信局勤務。月報は五十円。大学教授と技術官僚の兼務で、多忙を極めた。高峰と同様に、工業新報の協力者としても活躍。
逓信省電務局電気試験所(現在の電子技術総合研究所)の初代所長。時代は、ようやく官営の電信と、電灯のための直流による配電が始まったばかり。志田が電気産業振興のために切り開いた貢献は計り知れない。

郵便事業が農商務省、電信事業が工部省、という管轄違いに苦しみ、電信行政に不満を持った。しかし、明治18年、内閣創設に際して、電信・灯台を工部省から、駅逓と管船を農商務省から受け継いだ逓信省が発足。時の逓信大臣が榎本武揚となり、志田は榎本から厚遇された。明治20年31歳で逓信省公務局次長。同年、東京電信学校校長。32歳で電気学会を創設。榎本武揚を会長に守り立てる。明治21年本邦第一号の工学博士でもある。明治22年、逓信省初代逓信工務局長。常に、教授と校長とテクノクラートを兼ねていた。その傍らで電気技術の研究開発も怠らず、電話機や電話交換機、地磁気、電流自記機、直流発電機、アーク灯、蓄電池、電気通信技術に関する研究を進め、多くの論文を記し、工学会、電気技術学会のほか、英国専門雑誌にも寄稿して評判になった。常に日本の電気技術開発の最前線にあった。

電気学会第1回通常会に係る演説は、電気史、工学史の伝説となった、圧巻・不滅の金字塔。淡々とした語りで、「将来可能となる10余のエレクトロニクス技術予測」として今日の社会を予言した。即ち、高速多重通信、長距離無線通信、海外放送受信、長距離電力輸送、鉄道電気・電気船舶・電気飛行船、光通信、録音・録画・ビデオ、地磁気や電気変動による地震予知や作物の収穫予測。これらは全て、夢でも希望でもなく、志田の電気、熱、磁気の原理の理解、電気技術の経験と知見と実績に裏付けられた、論理的な予測だった。その多くは実現し、我々はその恩恵を享受してあまりある。余りにも身近で普通になってしまったために、我々はその技術の価値を評価できないでいる。

さて、電話事業に関して、官業か民営かの方針で、政府内が分かれた。志田は官業の方針を取った。榎本は民営派だった。さらに、逓信大臣が官営論者の後藤象二郎となり、志田は二人の軋轢に苦しんだ。結局政府は、志田のとった官営を採用。その後、1985年のNTT発足まで、電信電話は官営を続けることとなった。しかし、郵便制度創設者の前島が後藤に反発して辞職。前島派と後藤に見られていた志田は、このあおりを食らって非職を言い渡される。志田の部下はストライキを計画して反発したが、事前に発覚して失敗。
さらに、国会議事堂が失火事件を起し、この原因が電気とされ、一般人の電灯事業に不安が増大した。志田は東奔西走し、一般人の電気への無知からくる誤解払拭と電気の啓蒙・普及に努めて心を砕いた。

この過労と膨大な責任と、政治の軋轢が、志田の死期を早めたとされる。明治24年8月、志田は36歳という若さで世を去った。痛恨の早世。過労で体を弱め静養していたその最中も、大勢の関係者が、故障や停電のために詰め掛けて志田の指示や助言を求めたという。結核ではないかといわれているが、実際は過労死だろうという声が多数。同期の辰野金吾は「出世も早かったが死ぬのも早かった」と遺骸の前で涙してつぶやいた。特旨により、従五位。辰野金吾や電信科後輩の浅野応輔らが、遺族を擁護したとのこと。
ケルビン卿は志田の死を悲嘆した。志田の死後に、ケルビン卿の別の日本人弟子から、志田とその妻そっくりの等身大の人形がケルビン卿に送られた

写真や肖像では、切れ目のすっきりしたお醤油顔。機械科の同期今田清之進曰く「いたって淡白な人格者」。また、後輩の岩田武夫に「頗る蒲柳」と言われており、もともと体は強いほうではなかった。酒、煙草はやらず、葡萄酒を少々たしなむ程度。囲碁と読書とトランプが楽しみ。留学中に森有礼と囲碁を打っていた。漢文に親しみ、雅号は「別阜逸人」。

志田を知る者は、皆が皆、口をそろえてその早世を悔やみ、また、電気工学の祖、科学技術の先覚者たる功績の大きさに比して世にほとんど知られていない事実を残念がっている。1993年に郵政省は志田の没後100年を記念して「志田林三郎賞」を創設し、情報通信の分野で先端的・独創的な成果を挙げた個人を表彰することとした。

「先見の人 志田林三郎の生涯」(ニューメディア)は、佐賀大教授による、しだりんに捧げる賛歌。著者からしだりんに対する愛が満ち溢れていた。負けてはならんと思った。大鳥も大事だけど、この人もまず、語り伝えねば、という使命感に打ち震えた。


● 南清(みなみきよし)
土木科、一期生。1856年生。

活躍分野は主に鉄道。会津若松出身。日新館で漢籍を学ぶ。明治2年に東京へ上京。神田孝平、箕作佳吉の塾に入り、後に慶応義塾で英語を学び、さらに開成学校(大学南校)で学び、入学前の72年に工部省測量司の技術二等見習生になって、数学と実地測量を鍛えている。入学時点で既に相当な学力と技術があったようだ。

明治12年9月、お雇い教師が、海軍の雇いのキャプテンが死亡した際、その葬式に教師全員が出席して、授業がいきなり休講にされた。一方で、天皇が東北地方巡幸される際、見送りのために授業休講を生徒が要望したところ、受け入れられなかった。これに反発してた工部大生が全員、授業をボイコットする、ストライキた事件が発生(西館楼集合の事件)。南がダイアー教頭に向けた英文の起草文を書いた。ストライキを煽った首謀者の一人とされて、二期生の電信科岩田、鉱山科仙石らと共に、4週間の謹慎を喰らう。(謹慎メンバーは他におり、証言者によって一致していない)。このとき、皆から酒に刺身にと差し入れを受けて、豪奢な日を送った。

77年に、6年生の実習として、杉山輯吉と共に、京都-大津間の線路工事に従事。琵琶湖附近の工事で、お雇い外国人の設計のした線路の曲線が不適切だと指摘。実地試験の結果、南が正しいと分かり、井上勝に大変気に入られた。

グラスゴー留学組。マクレラン鉄工所で鋼橋の組み立てや、クライド築港工事に従事。カレトニアン鉄道会社の技士長グラハムに従って、ブランタイヤ支線の工事に従事し、実地で修行した。さらにグラスゴー大学を中退して、15年、スペインへ渡り、鉱山で鉄道、給水などの工事に携わった。ロンドン土木師会院委員に選ばれている。

明治16年帰国、直ちに工部省鉄道局に奉職。17年7月工部省権少技長、正七位。19年5月鉄道局三等技師、従六位。新橋-上野間、東京-前橋間の市外・市中の線路のほか、高碕-上田間の鉄道工事を担当。東海道の沼津-熱田の160里の測量を担当。碓氷峠を開拓。姫路以西、備後の道百里の設計と尾道以西、馬関にいたるまで、線路実測に従事。東海道線の沼津-天竜川間の工事を担当。「東海道鉄道」「天龍川鉄橋質疑ノ答」として工学会誌に寄稿。3年には野に下って、山陽鉄道会社技師長に。民間における経営手腕も発揮した。日清戦争では尾道-広島間の軍事輸送も担当した。

鉄道に捧げた人生は、47歳で没。「進取の気象に富む」人とのこと。顔はふっくらしているが、眼光が怖い。
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工部大学校概要

工部大学校オムニバス。早速いきます。

工部大学校はもともと、工学寮という、工部省の一機関でした。
工部省は、工業を勧奨して近代産業の保護育成を目的として、明治3年に立ち上げられた省。工部省は、鉱山寮、製鉄寮、造船寮、灯台寮、電信寮など「寮」という各部門に分かれていました。工学寮は、明治6年に工学を開明し、のエキスパートを育てる高等教育機関として設立。当時、工部省にはそれまでは、それぞれの工部省の寮が修技生という形で必要な人材を小規模に育てていました。しかし、工学を発展させるためには一括した高等教育機関を設けるべきとの林董が提唱。山尾が設立を建議し、工学寮が発足しました。

工学寮は後に工作局の管轄下に入り、英語名(The Imperial College of Engineering) にあわせるために,
明治10年に「工部大学校」と改称。明治18年の工部省廃止にともなって、文部省の管轄に組み込まれ、東京帝国大学に吸収合併され、東京帝国大学工科大学となりました。

以後、工学寮・工部大学校を含めて、「工部大」と総称することにします。

工部大の学期は六年間。最初の二年を普通学期、次の二年を専門学期、最後の二年を専門実習学期としました。
同時代の理工系高等教育機関には、東京帝国大学がありました。東大のほうは学術理論に重きを置く一方、工部大学校には実地教育が重点視されました。数学や物理などは基礎学問は東大生のほうが優れていたけれども、工部大は実務応用に秀で、東大と争うように各分野や業界の先覚者を輩出しました。ただし、工部大の官費生は、7年の奉職義務がありました。つまり、工部省にお金を出してもらって学んだ学生は、工部省に就職して最低7年間は工部省で働かねばならない、という就職の制限がありました。

工部大学校の教授陣、実験施設は工学の研究発展のために充実し、グラスゴーの怪物、ケルビン卿をして「世界の工学に中心は日本に移った」と言わしめました。当時、世界で最も充実した工学の教育機関が、極東の後進国日本に産まれたといえます。

実際、卒業生それぞれにスポットを当ててみると、工学、産業のいたるところに、業績がひしめかせています。工部大出身者は、明治の日本の殖産興業の中心人材でした。彼らなくして技術と産業の黎明期・成長期は語れません。

沿革の概略は以下の通り。

明治6年 工学寮発足
明治6年9月 第1期生入学試験の公示。
明治7年3月 宿舎を川越藩邸大和屋敷から虎ノ門へ順次移転
明治8年6月 工学寮頭(校長)に大鳥就任
明治9年11月 工部美術学校併設
明治10年1月 官制改革によって工学寮は工部大学校に名称変更。工作局の管轄下になる。
明治10年5月 陸軍省依頼により、西南戦争投入のための気球を実験的に製作。
明治11年7月 天皇の親臨を仰いで開校式。
明治12年11月 待望の第一回卒業式。卒業生23名。内11名が英国留学した。
明治15年8月 工部大学校が工作局から工部省本省の直轄に。工部技監大鳥が校長を兼ねる。
明治16年6月、12月 経費節減のため工部美術学校廃止。
明治16年 第1期生留学生が帰国、念願の日本人教授の導入。
明治17年3月 藤岡市助、12月には辰野金吾が教授に。
明治17年5月 海軍の要請で造船学科設立。
明治18年4月 工部省の官業整理。規則改正。
明治18年12月 工部省廃止。工部大学校は東京大学工芸学部と合併し、文部省の管轄下に。東京帝国大学工科大学となる。学長古市公威、教頭心得に志田林三郎。

入学者は合計493名。内卒業者が211名。明治18年、工科大学になった際の在校生が153名。111名が退校となっていて、単位習得が出来なかったり家庭の事情などで、1/3が卒業できませんでした。

第一期の各科の首席卒業者は、官費留学の特典がついていました。これは、お雇い外国人に代わる教師育成という明確な目的がありました。このため、第二期生以下にはこの特典はナシ。
ちなみに、明治12年時点で、お雇い外国人の給料が、工部省予算の2/3というとんでもない割合を占めていました。

栄光の官費留学生は、以下の通り。
南清(土木学)、三好晋六郎(造船学)、志田林三郎(電信学)、近藤貴蔵( 鉱山学 )、高峰譲吉(化学)、栗本廉(地質学)、高山直質(機械学)、荒川新一郎(紡績学)、辰野金吾(造家学)、石橋絢彦(燈台学)、小花冬吉(冶金学)

無論、留学生以外も、外国人教授を補佐する助教授や、工部省の各部局の技術者として活躍をしています。

工学寮/工部大学校は、土木、機械、電信(電気工学)、造家(建築)、鉱山、化学、冶金、造船の8科に分かれていました。(冶金、造船が出来たのは後になってからで、明治6年時点では6科目)。卒業者人数では鉱山と土木が最も多く、機械がそれに次いでいました。

以下、第一期生から順に、ご紹介していきます。
まだ史料を直接当たりきれておらず、ネット情報なども含んでいるので、誤謬など見つけられましたら、ご指摘くださいませー。
主な参照は、「旧工部大学校史料、同附録」、「日本工業の黎明」、「工部省沿革報告」、「工部省とその時代」、「土木人物事典」、「東京大学百年史」、「工学院大学百年史」と、Amazonで購入できる各人物の伝記より。「去華就実(http://www.miyajima-soy.co.jp/index.htm)」や「学問のアーケオロジー(http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1997Archaeology/)」Wikiなどのサイト様にもお世話になっています。

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2006年04月23日

工部大学校体操教師

工部大学校の体育の先生は、元、沼津兵学校の体操教師でした。

……これで萌えて椅子から立ち上がれる方は、立派に歴史ファンから逸脱した、大鳥・伝習隊ファンです。お仲間です。同志です。

えーと。この沼津兵学校の体操教師の方。工部大学校教授陣にはめずらしい、日本人です。「工部大学校の体育」(体育学研究41号、1996)という論文で紹介されていました。文部省系統の学校(東大を初めとした帝大など)とは違った体育システムが構想され、実施されていた例として、工部大学校を取りあげて下さっています。項羽大学校の体育は、文部省系学校と違った意義を持ち、一つのユニークな「実験」であった。その元には、「歩兵操練」の建言に示されていたように、陸軍との繋がりがあったこと、ということを指摘しています。

工学寮・工部大学校の学生たち。毎日午後4時から5時までの1時間、「体操」が日課として組み込まれていました。
「実験や製図に疲れた頭の方向転換を行って、鬱を払って気分爽やかとなる良い機会で、上級生と下級生の交流のきっかけを作る便宜があった」と中山が述べています。
ただ、学生が皆喜んでやっていた、というわけでもないらしい。「当時の生徒は概して体操嫌い、何かと口実を作って欠席をした。体操時間になったら急に病人がでるのも珍しくなかった」曽禰君が暴露してました。…曽禰君、貴方も?

工学寮の体育の最初は、陸軍の新兵に教えるのと同じ、柔軟体操や歩兵小隊の行進と同じだったらしい。それが、虎ノ門に校舎が移転してからは、器械体操が加わり、その後フットボールやクリケットなどイギリスの外国人教師からもたらされた競技が加わった、とのこと。(工学寮は工部大学校の前身で、明治6年旧川越藩松平大和守の屋敷を用いていたが、虎ノ門に校舎が新築され、移転した)

えっと「工部大学校と体育」という文献で、下逸郎という方について述べられていました。
この下さん、本多さんと、沼津兵学校の任期が重なっていました。

で、この体操教師を担当された下逸郎氏。もと幕府の馬医であった家系。1854年生まれだとのことで、本多さんより14も年下でした。本多さんが沼津にいた明治3年時点で、下さんは16歳と年若いですが、沼津兵学校の「体操方」に属していたとのこと。1878年、明治11年に工部大学校に移って、工部大学校が東京大学工科大学に合併されるに及んで、工科大学の雇いとなっています。

そんなかんじで、本多さんと同僚というには年が離れていますし、大鳥校長とどのぐらいの接点があったのかは分からないのですが。ほのかな繋がりが伺えて、嬉しかったのでした。

自分の子供ぐらい年齢が離れている体操教師。沼津の元部下たちの様子を聞いてみたいのだけれども、聞くに聞けないでいて、声をかけようか迷っている校長先生、なんて図がありましたら、ちょっとツボですな。


そんな感じで、昨日の収穫物についても、ぼちぼち触れていければと思います。
それにしても、研究紀要って面白いなぁ…。
学術論文雑誌だと、それなりに権威のある人の検閲が入るから、テーマが学界の重点項目に縛られたり、格調高さを求めるあまり結論が無難になったりする傾向があるのだけれども。
各大学が定期的に発行している紀要だと、研究者が自分の好きなことをやったのを纏めているのがあって、よりマニアックなのにお目にかかれる。
企業の百年史や五十年史なども、こだわりがあって深いし。まだまだ一杯、お宝が埋もれていそうな気がしますですよ。

で、最近、ヤバイぐらいに工部大学校にハマリまくっています。
私がハートを貫かれてしまったのは、しだりんです。

ジョー(高峰譲吉)もたぶろー君(田辺朔朗)も、たっちー(辰野金吾)も、それこそ伝記が何冊もかけてしまうぐらいに業績はすばらしくて、じっくり煮詰めて追いかけたい魅力的な方々なのですが。
今のところ、マイ・ヒーローは、しだりん(志田林三郎)。第一期生、電気科。工部大学校第一の秀才。彼が予言した電話、ファックス、テレビなどの電気事業は、全て実現化されて一般になくてはならないほどに浸透したという先見の明がスゴイ。
農商務省で、後藤象二郎と榎本・前島組の板ばさみになって、政治的に疲れ果てて、過労死したとも囁かれているほどの苦労人、という辺りにも、やられました。

大鳥史料についての解説のほうを充実させようとしていた矢先だったのですが。そのまま本道から逸れそう。
工部大学校資料とどちらを優先させようかなぁ。
開拓使も強烈で迷いましたが。そのうち、工部大学校オムニバスなぞやり始めると思うので、笑ってやってください。


といいつつ、長らくほったらかしていた本体の更新。といっても、お知らせするほどのことはしていないです。
「伝習隊」のほうは、本多さんと滝川君を若干追加。滝川っちのほうは、既に他の方々が触れておられる部分なので、新しい情報ではないと思います。ただ、資料確認できたものは、後追いでも、自分の目で追っていければなぁと。

「語り」のほうは、「技術者としての大鳥」で、明治の大鳥の官僚実績の部分を追加。分量が増えた…。ここの場所こそをちゃんと強調しておきたいと思ったのですが。普通は読んでてもふーん、で流されるつまんない部分ではあります。そこを掘り起こすのがトレジャーハンター。価値は自分にしかなくってもいいのさ。

あと、「軍人としての〜」は削除しました。サイト立ち上げの初期の頃に書いたものですが、今はあまりに認識がかけ離れてしまいましたので。同時代の資料を見ていると、初期の頃に呈していたものは、浅はかすぎたなぁ、と。
今自分が持っている認識については、今後、「業界への異論」のほうに、まとめていきたいと思います。

触れたいところが一杯で、踊り狂える幸せな今日。すぐに仕事の波に浚われていって忘れていくのが不幸、いや、至らなさ。いつも口ばっかりですみません。口で言ってやった気になっている、というのが一番宜しくない。


    [2] あろあ 2006/04/24(Mon)-03:20 (No.38)
    こんばんは!先日は楽しいひとときをありがとうございましたv
    弱いくせにたくさん呑んじゃってあまり何をお話したか覚えてないというのがツライです(笑)。
    でも帰ってからも荒井さんのことで頭がいっぱいでした。入潮さん、酔った私にいったい何を吹き込んだんですか…?(笑)

    それにしても、入潮さんが工部大学校ブームだなんて、嬉しくて卒倒しそうです!
    いまだに『旧工部大学校史料』すら目にしていない嘘ん子工部大ファン(というか曾禰君ファン)ですが、もう私は何もしなくてもいいなという気がしてきました(笑)。
    ちなみに下逸郎さん、私が読んだ『旧幕臣の明治維新』では明治元年現在18歳となっていました。
    んで、本多幸七郎さんは28歳と書かれてました。あれれ。(まあ、こちらは史料じゃないですし…笑)

    ではでは。工部大では、あやや(石橋絢彦)にも興味津々のあろあでしたv
    (「工部大学校オムニバス」、超楽しみにしています!)

    [3] 豆野 2006/04/24(Mon)-07:06 (No.39)
    おはようございます。
    最初の一行で立ち上がりました!(でも思わず日付を確認しました←コラコラ;)
    「な、名前は・・・!?」とドキドキして、ちょっと気落ち(笑)
    いや、でも「ほのかな繋がり」で充分です。どこのどなたか知りませんが、沼津から工部大学校に−と転属させてくれた方に感謝したいです。萌えを有難うございます!ってv(そんな事言われても)
    入潮さまにも、これからも貴重な情報を宜しくお願いいたしますv
    校長の大鳥氏も楽しみですv

    [4] しの 2006/04/24(Mon)-23:57 (No.40)
    『工部大学校オムニバス』是非是非!!
    いまだにどこから手を付けようか迷ってしまう工部大学校生達、とりあえず気球に行っとこうと井口在屋が気になっています。
    でも、なにげに同じようなオタク臭を漂わせている石橋絢彦も気になるところです。

    『工部大学校オムニバス』ワクワクして待ってますので、よろしくお願いいたします。

      [5] 入潮 2006/04/26(Wed)-02:55 (No.43)
      ● あろあさま

      先日はいきなりで、押しかけてしまってスミマセンでした。上京されると聞いて居ても立ってもいられず。
      持っていたPCに、決して人に見せてはならないモノを開いていた形跡があります。<荒井さん
      更に、酔った勢いにスゴイ約束をしてしまったような気がしますが、自分の記憶もあやふやなので、それはあろあさんが覚えて下さっていた場合には有効、ということにいたしましょう。

      あろあさんが曾禰君好き。経歴を辿っていくと、なんだかとっても理解できてしまいました。あろあさんペーパーの、天然コンドル先生と、呆れ顔の曾禰君でイメージが膨張しました。ありがとうございます。
      あろあさんがなにもしてくださらないなんて、私の気が萎えます。ひとりではなにもできないさびしんぼさん。もとい。是非ご一緒してやってくださいませ。

      『旧幕臣の明治維新』はまだノーチェックでした。下逸郎氏を挙げているなんて、かなり深いですなー。教えてくださってありがとうございますー。てか、読み込んでおられますな、あろあさん。下さんも、石橋君語りによって判明した方ですが。下家の記録「要事記録」には嘉永6年(1854年)6月15日生まれ、とあるそうです。論文に引用されている数字のほうが間違えているという可能性もありますし。明治3年、16歳で教官というのは若すぎるので、年齢的には明治元年18歳、というほうがよほどしっくりくる気がします。原典はご子孫の方が所持されているようなので、直接確認するのは難しそうですよな…。
      本多さんの年齢ですが、1840か1841年生とのことで、自分ではまだ史料上では未確認で、聞き伝でした。すみません。

      あやや。つっつけばつつくほど面白げな人です。戊辰戦に参加した旧幕臣を凄く尊敬していそうなのに、自分のところの校長のことは殆ど語っていないのは、なぜなのでしょうか…。いや、自分が知らないだけかもですが。

      ● 豆野さま

      流石にそんなウマい話はありませんでした。
      けれども、その「沼津から工部大学校にと転属させてくれた方」が本多さんだったら、どうしましょう…なんて妄想してみる辺りは、往生際が悪いです。

      豆野さんも何か発見されましたら、是非教えてやってくださいませ。ワタクシなぞが垂れ流すものより、自身で直接当たられ見つけたモノのほうが、萌え度合いは相当大きくなると思いますー。

      ● しのさま

      井口のありやん。すみません、荏原製作所のモトになった、ぐらいしか分からないです。相変らずしのさん、マニアックなところを突いてこられますな…。いのぐちポンプが明治村に飾ってあるそうで。現代の世界に冠する日本企業のオリジンがここにも、ということで。何か分かったら、取り上げたいと思います。四期生なので、もうちょっと先、ということで…
      気球ですが、志田が、直接圭介から製作を依頼され、志田がチームを組んで高峰に参加してもらった、という流れのようでした。志田は殆どが士族の工部大にめずらしく、平民出身なので、圭介に共感するところがあったりしないかなー、なんて期待してしまいますが。早くに世を去ってしまい、なかなか語り残しに出会えないので、つらいところです。

      石橋…。確かに、彼の幕末語りには、学術的に歴史を研究、とか、自分が証言者になる、とかいう志より、好きだからやっている、というマニアックさが最初に見えている気がします。
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2005年02月27日

お内裏様とお雛様

お内裏様とおひな様、どっちが右なのか、ブータンの人に聞かれたのだけれども、答えられませんでした。
調べていてふと彷彿した、大名家の上杉氏と結婚して、出戻ってきた、ひな。
後に彼女が結婚した奥田象三氏は、いったい、何者なんだろうかと、ずっと思っていたのですが。

「工部省達全書」をパラパラとめくっていたら、明治15年4月の「工部大学校課並諸規則改正」というのがありまして。ここの教師名、「博物場」という役職に、いました。奥田象三氏。…偶然、同名の人間だった、ということは、あるかもしれないのですけれども。でも、圭介のお膝元に居たこの方。全く無関連だったとも考えにくい。

で、この「博物場」。「校中緒場に於て要用なる緒器模型を法に従い序を正し整地して生徒に縦覧せしめ、書図上に於て知り易かざる物を指示して解得せしむ」とあります。機械や電信や蒸気機関や化学、鉱山などの各分野で必要となる機器の模型を作って、生徒のために並べておいたところのようです。

また、圭介が就任したばかりの明治8年6月には「局中の器物の排列は逐次増加すべしと雖も、まず生徒機工場に於て造為する所の緒模型を以って列品の基礎とし、又、之を他に求め、漸に集めて以って整頓すべし」とされていたところ、明治15年には「場中別に室を設け本邦の製造物を陳列して博覧に供ふ。但し場中陳列品の目録は既に刊行せり、就て見るべし」とあります。最初は並べるものもほとんどなく、まず生徒が作った模型を並べ、段々増やしていきましょう、としていたところ、7年後には、工部大学校内だけでなく、日本中から製品を並べて見せ、目録まで作られていたようです。

ここで思い浮かぶのが、圭介の内国勧業博覧会審査委員・部長としての実績。出典品の解説書などを作成して、原理や仕組みを分かり易く説明し、導入技術や発明を一般に広めていた圭介。多分、博覧会からも大分、流用してきていたのではないだろうか…。
てことで、この「博物場」。筆頭になって模型を集めてきて、時には作って、解説書を書いている校長先生の姿が、目に浮かぶのですが。

そこの役職についていた、奥田氏。
博物場を充実させた彼もまた好奇心旺盛で、コツコツと物事を煮詰める作業が好きな感じがします。そして、新しい物好きの校長のお気に入りだったに違いない。それはもう、バツイチの娘を紹介してしまうほどの。
あ、ひなが工部美術学校に入っていたことがきっかけで知り合っていた、というのもアリでしょうけど。

で、元大名家の華族の華やかな美形の夫の下を飛び出した後、結局、親父の紹介の、どこか親父似の、地味な男の下に落ち着いてしまった、娘。

…いや、奥田氏の性格は思いっきり願望なんですが。ミーハーで、顔も家柄もいい男とくっついて、出戻りしてきた我儘娘は、実はとってもファザコンでした、なんて、オイシイではありませんか。


さて、余談その1。工部大学校時間配分。

6:00-7:30 習学
7:30-8:00 朝餐
8:00-12:00 授業
12:00-1:00 午餐及び休息
1:00-4:00 授業
4:00-5:00 体操
5:00-6:00 夕餐
6:00-9:00 習学
9:00-10:00 休息

体操が、毎日1時間取ってあるのは、なんと言うか。やっぱり、体操を日本に導入し、極狭の牢内でも体操し、老後も運動好きといわれていた圭介が、関わっているのだろうか。
あと、習学というのは、自習時間、ということなのだろうか。休息、という時間も取ってあることだし。
この時間、皆本当に勉強していたとすると、1日に12時間程、机についていたことになります。よく勉強したなぁ、当時の人たち。

余談その2。
明治8年6月、圭介が工学権頭に就任したばかりの頃、教授陣は、ダイアー氏を頭に、全てお雇い外国人でした。けれども、明治15年には教授陣36人中29人が日本人。この教授や助手たちには、工部大を卒業した人も、中野初子を筆頭に多数。

こうして、金の掛かるお雇い外国人のクビを切りつつ、予算をセーブしていったからか、明治10年に、大学校の私費生の月謝が、10円から7円に下げられていました。

これらの発案が圭介から行われたのかどうかはわかりませんが、少なくとも、校長職及び、管轄部の局長だったわけで、意思決定の責任者ではあったことは間違いない。
出すところには出し、締めるところで締める、合理主義の圭介らしい実績だと思いました。


で、結局、お内裏様とお雛さま。どっちがどっちかは、わかりませんでした…。
一説によると関西と関東と違うとか。うーん。

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Re: お内裏様とお雛様。 セイコ - 02/27(日) 18:27 PC No.760 [削除]

お久しぶりです、丗子です。

お雛様とお内裏様の配置。現在では、京雛とその他で右左が違うって話を聞いたことがありますけど・・・。
もともとは、向かって右がお内裏様、左がお雛様だったのですが、明治維新以後、明治帝と皇后の並び位置が、西洋を真似て逆になった(帝が左で、后が右)ので、お雛様も逆になってしまったそうです。ただ、京雛だけは昔ながらの伝統的な配置を今でも守り続けているとか。そう言えば、この間、三重県で見た旧家のお雛様も伝統的配置でしたよ。
まあ、そんなよーなことを「な●でも鑑定団」と「名探偵●ナン」で解説してました。
知識の半分はテレビから吸収のテレビっ子世代です(だから上っ面知識のみの確証無し)。知ったかぶりでごめんなさい・・・。

今でも技術革新のスピードって門外漢から見ると、ポカーンとしてしまうほど速いものですが、政府の鼻息も荒く、技術者にも強いナショナリズムがあったこの頃の7年って、ものすごい勢いで発達していったんでしょうね。・・・勿論、そうした勢いの密度が全国一律ではなかったでしょうが(笑)。
怒涛の勢いで周りの全てが動いていく中、興奮するだけじゃなくて合理的かつ堅実な見通しを維持するのってかなりの精神力が必要な気がします(私なら単に「すげー!すげー!」と言って終わりそう・・・)(比べるまでもない)。
圭介、地味な所がむしろカッコいいぜ!ちょっと親ばか入ってそうなところも可愛いぜ!(誰)

ところで、この度HN改名いたしました。一発で読めない難読字からカタカナに変わっただけですけど、今後は「セイコ」で宜しくお願いします。
すいません、ちょこちょこ変えちゃって・・・実はこれまで、ほぼ一年周期で変えてたのですが、これから数年はこれで落ち着くつもりです(謝)。


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流れの速さ 入潮 - 02/28(月) 03:28 PC No.762 [削除]

いやーん、お久しぶりでございます〜。いつも素敵情報、ありがとうございますっ。
相変らず、一般教養の皆無、無粋っぷりを晒し続けております…
明治天皇の結婚式。右は元々偉いほう、殿方のポジションという位置づけがあたのですが、一般民衆の結婚式も、皇后を右においた陛下の真似をして、以降、男女の右左が入れ替わった、というの聞いたことがありましたが。これがひな祭りにも適用されていたのですね。

旧家のおひな様とは。ここでそれがするりと喚起されるところが、おさすがでございます。自分なら配置も何も気配りなく、見過ごしてしまっていたでしょう…。ありがとうございました〜。

よく黒船以降、明治維新、明治初期は、日本の革命期だと言われますが。実は現在は、その明治維新を越えるほどの激動の只中に居るのではないか、ということを、うちの上司が言っていて、はっとしたことがありました。この時代に生まれられたことが嬉しいと。圭介らもそう思っていたのかなぁ、と。
確かに、政治にしても技術にしても、めまぐるしい。CPUの速度やメモリの容量は、エキスポネンシャルに発展中ですし。携帯電話やインターネットの出現で、個人の情報に対する自由度は、圧倒的に広まった。ただ、その只中に居るとなかなか気がつかない。それを認識せずその流れをなんとなく受け入れて乗っている現代人って、実は凄まじい許容性があるのではないかと思うのですが。実はその速さを認識するほうが難しかったりして。
只、流れがあるということをちゃんと認識しないと、自分の位置が見えなくなってしまいそうで怖かったりします。

西洋の技術は、ギルド(同業者組合)に閉じていた職人が、科学知識を持つ学術人と偶発的に接点を持つ事により進み、成果に実業家が飛びついた、いわば偶然の産物だった側面があったりしますが。日本はそれを国が上から教育として推し進めた。それはダイアー氏の方針からでもありますが、それを受け入れる土壌、職人を学術界に迎え入れる許容性、言ってみればなりふり構わなさが、良かったのかなぁと思ったりします。

圭介は馬鹿親認定です。自分では厳しいと思っているところがミソですが。
突拍子もないことをしでかすところで自分に似ている娘が。可愛くてしょうがないのです。
そして、娘が、ちょっと自分に似ているかもしれない(決め付け)奥田氏とくっついた事が、嬉しくてしょうがないのです。今度奥田氏に、ひな嬢のどこが良かったのか、じっくりインタビューしてみたいと思います。(どうやって)

丗子さんからセイコさん。古風な平安美女から、あでやか才女な雰囲気になりましたな。と、乏しい語的センスを暴露しつつ。いつもセイコさんの溢れる教養に、溺れさせていただいております。これからもどうかよろしく、導いてやってくださいませ〜。

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右と左の社会的地位。 葛生冴 - 02/28(月) 15:29 PC No.764 [削除]

向かって右、すなわち着座する側からみて左側が男の席だったのは、左大臣のほうが右大臣より上位であるのと同じ論理ではないでしょうか。
と思ってちょいと調べてみました。

律令制以降の大臣職は、太政大臣>左大臣>右大臣、です。ところが律令制の元である漢の国では、「左遷」の言葉に象徴されるように、左は右より下位とされていたそうです。これが日本に来て逆転してしまったのは、一説には次のような理由によるとか。

>「天子南面」という言葉が示す通り、古来より日本では南に向いたときに日の出の方角(東=左手)が上座、反対に日没の方角(西=右手)が下座とされてきた。皇太子を「ひつぎのみこ(日継御子)」と呼び『春宮』或いは『東宮』と書くのはこの現れである。方位で言えば春は東。ちなみに北は冬で南は夏、西は秋。そして西には死の国があると信じられていた。

これを受けて、やはり日本の雛人形はずっと古代律令制に則って(何せ左近の桜・右近の橘が下段にありますしね)男雛が向かって右に飾られてきたようです。ところが近代になって、西洋の結婚式が輸入されると、男女の位置が逆だった。左右の地位は、国際的にはやはり右上位が優勢なようで、中世ヨーロッパでは家に入る時は必ず右足から入らねば悪魔が付いて入って来るという迷信が横行していて、貴族の家では門前に客人が右足からはいるかどうかだけをチェックする召使いが居たとか。そんなわけで、お雛さまも自然と国際基準に合わせるようになった。…と、いう顛末らしいです。
個人的にはそこまで伝統を妥協せずとも…と思いますが。ちなみに私は昨日、雛壇を飾り付けていて、「左近の桜だから…」と男雛を向かって右側に飾ったら、後で母親に直されました(笑)

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右と左で頭がグルグルしてきた・・・(アホ)。 セイコ - 02/28(月) 19:20 PC No.766 [削除]

入潮さんよりお先に、横レス失礼致します。某所のチャットではお世話になりました(ですよね?)。

古来より日本では左>右、漢では右>左。
ちょっと疑問に思ったのですが、高校の世界史で「中国の律令制は隋・唐時代に完成し、奈良時代日本に伝わった」と習ったと思うんですが、つまり左大臣・右大臣などの職制を取り決めた日本の律令制は、漢時代のそれというより遣隋使や遣唐使などが活躍した隋・唐時代の中国のものを真似たということですよね。隋・唐時代以降の中国職官制度では、だいたい左>右なようですし、特に日本に来て左右が逆転したというわけではないように思うのですが、どうなんでしょう・・・?
中国でも時代によって、左優位だったり右優位だったりで、制度と言葉の面でも様々に矛盾抱えていそうですけどね(笑)。

そう言えば、現代において出入り口から見て左(着座する側にとって右)が上座っていうのは、明治以降に成立した常識ってことなんでしょうか。でも、入学式や卒業式の来賓は大抵右側に座っている気がしますけど、あれは伝統的配置のままなんでしょうか・・・(ぐるぐる)。

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いやいやいや…。 葛生冴 - 02/28(月) 22:12 PC No.767 [削除]

私もネットでばさばさっと調べただけなので詳しい事はどうにも…。あのあと更に調べたところでは、確かに古代中国(漢以前)は左が偉かったみたいですね。歴史は弱点なので学生時代の記憶はありませんが(笑)
お雛様の配置が入れ替わっちゃったのには、昭和天皇のご成婚のときの配置が旧来のものと逆で天皇が向かって左側にいて、それを見た東京の人形組合が、雛人形の配置を変えた、なんて話もあるようです。ぜんぶ他人様の受売りです(爆)

いえいえこちらこそお世話になりました(ハイそうです)。って他所の御宅でご主人を差し置いて何をやっているのかしら>すみません入潮さん

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右と左の文化 入潮 - 03/01(火) 12:25 PC No.772 [削除]

すすす、すみません、お二方様。素朴な疑問に、ここまで深く調べていただいて、感服の至りです。
葛生さま、家族の温かみとか重みがにじみ出る日常のおすそ分け、ありがとうございました〜。
セイコさんの、文化をばしっと分析する姿勢、おさすがでございます。

左と右、順番でいうと、日本語、中国語ともに、「左右」。英語では「right and left」というように右が先。
で、英語では「right」に正しいという意味があるのと対照的に、「left」には「不誠実・陰険」といった意味もあったりする。
イスラムの、左は不浄の手とされていたり。これは、単に用を足したときに、左手でそこを洗うので、衛生的な観点からそうされているだけという話もありますが。アラビア語で“右”を意味する単語は、幸運・吉兆・成功など“善的”な意味がある。アラブの人々は“右”を“善”と考え、左を“悪”と考える思考と行動の様式。浴室や便所には左足から入り,着物や履物をぬぐときは左を先、と。この当たり、キリストもそうですが、二元論の文化では、きっちり善悪を何かに投影して分けたがるのが、右と左の分け方に効いてきている。

右と左の文化というのは、それだけでひとつの文化論ができてしまうぐらいのものなんでしょうな…
とか思っていたら、そのものずばり、「右の文化と左の文化」という本がありました。

自分は「清濁併せ呑む」という言葉を生んだ日本が好きな自分は、どっちでもいいやん…と思う節操無しです。
そういう、右と左の重みも、東西で違う、というのが面白く、それをなんとなく受け入れてきた日本の感受性と許容性こそが、日本文化の真髄なのかなぁと思ったりします。ひな祭りは象徴的。いいネタになりました。ありがとうございます〜。

あ、このような場でよろしければ、いかようにも、コミュニケーションスペースとして、用いてやってくださると、ありがたいことこの上なしでございます。
と、人様にすがりながら、ネットアクセスの空白が多くて、ムラだらけな状態が恥ずかしいので、助かっております…。
タグ:工部大学校
posted by 入潮 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 工部大学校 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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