2008年02月27日

「硫黄島からの手紙」その2

「硫黄島からの手紙」感想、続きです。
ネタばれがふんだんにありますので、ご留意ください。

映画の中で一つ大きなテーマとして描かれていたのは、日本兵の降伏と自決についてでした。

事実はこうだった、だから映画(フィクション)はおかしい、ということを声を荒げて言うのは、どんなジャンルでも鬱陶しがられることなのですけれども。

硫黄島に込められた日本兵の精神性の基幹となるところであり、自分なりに感じたことを文にしておきたいと思ったので、無粋を覚悟で、挙げてみます。

日本兵は降伏せず、すさまじい粘りで戦い続けました。
それは、栗林中将ら司令部も同じでした。

「散るぞ悲しき」の言葉を借りると、硫黄島は、「勇敢に戦って潔く散るという贅沢」の許されない戦場であり、全員が自分の命を最後の一滴まで使い切ることが仕事でした。
栗林中将が全軍に配布した「敢闘の誓い」は以下の通り。

一、我等は全力を振って守り抜かん。
二、我等は爆薬を抱いて敵の戦車にぶつかり之を粉砕せん。
三、我等は挺身敵中に斬込み敵を鏖しせん。
四、我等は一発必中の射撃に依って敵を撃ち仆さん。
五、我等は敵十人を斃さざれば死すとも死せず。
六、我等は最後の一人となるも「ゲリラ」に依って敵を悩まさん。

これを行ったのは、栗林中将も同じでした。他人に訓令をしておいて、自分だけが「潔く散る贅沢」を味わうことは許されない。

映画では、ラストの栗林兵団長の指令部総攻撃は、白昼の万歳突撃として描かれたのですが。
栗林中将は万歳突撃を禁じていました。万歳攻撃で歓声を上げながら集団で突撃するのは、敵に格好の的を与えるだけで、実際の攻撃の効は奏しません。

そして実際、司令部の総攻撃は、深夜でした。闇夜、敵陣にヒタヒタ迫り、万歳どころか、敵の破壊と混乱を狙った物音一つ立てぬ整然とした攻撃だったと、米海兵隊戦史の記録にあるとのことです。

万歳突撃の禁止に代表される、栗林中将の合理主義と兵一人一人をゲリラにして最後まで苦しめた冷徹さは、硫黄島が硫黄島たる所以の一つです。

あと、これは、栗林中将を主役の一翼に置いた以上、言ってもせんのないことだと思うのですが。映画では栗林中将の死を以て終わりでした。
何より、一番違和感があったのはこの点で、本来、硫黄島の本番は、栗林中将が死んでからである、ということでした。

司令部が崩壊し、武器弾薬が尽き、腐臭と熱の中で蝿と蛆虫にたかられ、飢えと渇きに苦しみ、もう敵に撃たれ死んだほうがましという惨状に追い込まれながらも、日本兵は最後の最後まで死ねなかった。

それは、自分達が1日戦い持ちこたえることは、彼らの家族が、妻子が、1日長く、故郷たる日本で平穏に暮らすことができる。だから、自分達が1日苦しむ事には大きな意味があるのだ。その思いがあったから。

その玉砕の意味は、映画では栗林中将の口からのみ語られただけだったのですが。一兵士一兵士が皆、その意味をかみ締めて闘っていました。

妻子持ちの中年招集兵や経験の無い初年兵が、他戦史にありえないほどあそこまで粘り強く戦えたという理由が、そこにあるのではないかと思います。

栗林中将、市丸少将らが死んで司令部が壊滅しても、兵の抵抗はやまず、降伏もせず、敵弾に倒れず負傷して壕に篭っていた兵たちは、最後まで戦い、食糧水弾薬尽きて動けなくなり、皆、自決しました。

独立機関砲第四十四中隊の鈴木栄之助伍長の体験談には、敵の砲弾や火炎放射器など敵の攻撃で死亡したと思われるのは、三割程度、とあります。
一方、自決が、なんと六割。
そして一割が「お前が捕虜になるなら殺す」という他殺だったとのことです。

「栗林中将ならずとも誰か将校で、『無駄な死をせず敵の手に渡れ』という勇敢な発言のできる人がいたら、もっともっと多くの人命が助かったと残念でならない」と、体験談にはあります。

司令部壊滅で組織的抵抗ができなくなった時点でも、なお一万人が生きていました。その一万人が助かった可能性があったのに、実際に捕虜になり命を永らえたのは、その1/10にすぎませんでした。

なぜこれほどまでに降伏を拒み、自決した者が多かったのか。

投降すれば上司や同僚から殺されるという懼れは大きかったことでしょう。
そして、もちろん、東条英機「戦陣訓」の「生きて虜囚の辱めを受けず」の訓戒が、日本の老若男女に刷り込まれていたというのもあるでしょう。捉えられたら人間扱いされず酷い目に遭うという鬼畜米英のイメージが染み付いていたというのもあるでしょう。

ただ、それだけではない気がするのです。

津本陽氏の「名をこそ惜しめ」で、加藤上等兵の手記が引用されています。

「『死は眼前に迫っている。俺達の取るべき最良の道は何か、それは分からない。とにかく死ぬ時まで生きる努力をするほかはない」加藤たちの心中には、日本人として戦死を遂げようという考えが、どんなに追い払おうとしても根付いていた」

同じ手記から、周囲が自決する中で、加藤上等兵と共に居ただれかの言葉。

「死ぬなら壕の外で、いい空気を吸えるだけ吸って、日本の軍人らしく万歳三唱をして、散華するんだ。魂はきっと日本に戻るよ」

それから、武蔵野工兵隊の浅田中尉の遺書。彼は壕内で5月13日まで、兵団司令部壊滅からなお2ヶ月生き続けていた。彼はその間に降伏勧告を何度も米側から受け取っていた。けれども、その日に至って遺書を遺して自決した。その遺書。

「閣下のわたし等に対する御懇切なる御行為誠に感謝感激に堪へません。閣下よりいただきました煙草も缶詰も皆で有難く頂戴いたしました。御奨めによる降伏の義は日本武士道の慣として応ずる事はできません。もはや水もなく食もなければ十三日午前四時を期して全員自決して天国に参ります。終りに貴軍の武運長久を祈りて筆を止めます。 日本陸軍中尉 浅田真二 スプルアンス提督殿」

確かに、降伏するとして上官に撃ち殺された兵もあったことでしょう。また、映画にあるように降伏した後で米兵に殺された兵も居たことでしょう。

けれども、浅田中尉のように、飢えと渇きの極限で、食糧と嗜好品を与えられ厚意に降伏を勧められても、決然と礼を尽くして断り、自決した方がいたことも事実です。

「日本武士道の慣」「日本の軍人らしく散華」という言葉にあるように、彼らは、日本人として自決する、日本人として終わることに、意味を見出していたのではないかと思います。
ここで、武士道とか軍人とかいう言葉に目を取られると、本質を見失うのではないかと思います。

日本の慣。日本人らしく散華。魂は日本へ。
それが揺らぐと、日本人のアイデンティティが崩壊するように感じていたのではないかと思うのです。

降伏したらもはや、日本人としてあることはできない。
恰も日本人たる資格を剥奪される。
死した魂が、故郷に、日本人として戻ることができない。

それを、日本兵たちは、芯から懼れたのではないかと感じます。


「いつか我々の御霊が感謝される日が来るだろう」という台詞が映画にありましたが。

彼らは、感謝されたくて戦ったわけではないと思います。
彼らは、故郷を、家族を、日本という魂の還る場所を、守りたいから戦った。

だから、ここの台詞は「日本を守ろうとして死んだ御霊があったという事実を、日本人が誇りに思う日が来るだろう」のほうがしっくりくると思いました。

日本のために、故郷のために戦い、最期まで日本人であろうとした。
兵士の方々の、その日本というものへのすさまじい動機を、あらゆる手記、体験談から感じます。

その悲壮な想いと共に、悲彼らが守ろうとした日本というものがある。

その日本に、今現在、自分達が、平和に、ゆたかに、暮らしている。

硫黄島の意味は、そこにあるのではないかと思います。


映画の最後のシーン。

「ここは、まだ、日本か」

栗林中将が、西郷に聞いた言葉。

「ここは日本であります」

西郷の答え。
ここで号泣しました。

ここは、良いシーンを描いてくださったと思いました。
監督に、心から、感謝しました。



「硫黄島は、あんなものではない」

当事者ならともかく、第三者がそういって片付けるのは、感傷に過ぎないのかもしれませんが、正直、自分にもその思いは、残りました。
しかしながら、硫黄島の持つ意味への取り掛かりは、映画は確実に与えてくれたと思います。

主役の西郷役の俳優の方は、人気あるグループのアイドルの方だそうで。そうした層を取り込んだことによる若い世代の方々への、社会的なインパクトも大きかったと思います。

色々書きましたが、本当に良い映画だったと思います。

こうした映画が、アメリカで、アメリカ人の手で描かれたという点に、アメリカの文化の度量の深さに、感じ入りました。
日本人が他人の文化でこれほどのものが描けるのかと聞かれると、否だと思います。

だからこそ、同時に、硫黄島の本当のリアリティは、いつか日本人の手により描かれてほしいと思いました。
タグ:硫黄島
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2008年02月21日

「硫黄島からの手紙」その1

銭湯で、「硫黄島からの手紙」のポスターが貼られていました。上野の映画館で、1週間だけ上映しているらしい。19:00からの回がある。

まさかまだ上映しているとはと、喜び勇んで、本日、行ってきました。

前評判に違わぬ、中立的な視点の、よい映画でした。
一つ一つの台詞も心に染み、役者さんの表情も演技も良かったです。ボタボタと涙を流してきました。


ただ、見ていると、細かいところで、言いたいことが色々と出てきてしまう。
映画としては満足だっただけに、贅沢を言ってみます。
以下、かなりのネタバレを含みます。もう公開されてから1年以上経ち、観る方は観た後だと思いますので、全く配慮しておりません。すみませんが、お気をつけください。


主役は、西郷一等兵という架空の人物。パン屋の主人で、妊娠した若妻を残してきた召集兵。映画のオリジナルの人物です。
戦中当時の日本人の中に、一人現代人が居るなぁ、という感じでした。現代人観客の共感を呼ぶために主人公補正がかけられたのかもしれません。
あと、一等兵の西郷の態度が、やけに大きいのも気になりました。

一方、もう一人の主役、兵団長の栗林忠道中将。こちらは実在の人物です。硫黄島というとこの方がまず有名で、軍事系の読本などでは何度も特集が組まれているかt思います。
この方の人間性は、「散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官栗林忠道」という書籍に詳しいです。

名将の誉れの高い、元騎兵。実際の人物は、写真で見ると、この人が軍人なのかと思うほど、とても穏やかな知的な顔をした方です。アメリカに留学経験あり。
家族思いの方で、妻の為に家の台所の隙間風を心配する手紙から始まっています。映画でも作中、何度も家族への手紙が出てきますが、それらは全て本当に書かれたものです。
役者さんは、好々爺たるおだやかな様と、クワッと目をむいた激情モードの二様を演じて、とても印象的な役作りをしておられました。

西郷一等兵の家族は出てきたのですが、栗林中将の家族はなぜか描かれていませんでした。
どうせだから、一瞬でも、たこちゃん(娘)と義井さん(妻)、太郎君(長男)たちを出してほしかった。

そして、映画でのもう一人のヒーロー、西竹一中佐。良い男の代表格。バタ臭い洒落者に描かれていました。

西中佐は、第二十六戦車連隊長。通称、バロン西。薩摩出身の西徳二郎男爵の息子。
オリンピック馬術競技の優勝者で、オープンカーやオートバイクを乗り回していて、アメリカ人女性にモテモテだったという逸話だけを知っていると、ああいった描き方になってしまうのでしょうが。

実際の西中佐は、反骨心旺盛な、和魂洋才の人です。「名をこそ惜しめ」によると、西中佐は薩摩武士の血を引いており、いったん覚悟を決めると梃でも後へ引かない頑固者。アメリカでの振る舞いも、当時世界にまだ余り知られていない日本人に対する認識を高めようとした意図があったものとのことです。

Wikiには、西中佐は戦場に遺棄された米軍の兵器を積極的に鹵獲し、整備・修理した後それらを使用して米軍を相手に勇戦したと記されています。
途中から西中佐の戦車隊に合流した大曲少尉の手記によると、西中佐は「老人のような皺が縦横に刻まれ、乱髪は顔を覆い、戦闘の苦労にはやつれていたが、両岸にはするどい光を宿していた」という外見。そして、映画で描かれたように自殺ではなく、戦車射撃の戦闘により、鉄兜を銃弾で撃ち抜かれ戦死だったとのことです。死に様には諸説あります。

役者さんは、笑顔が魅力的な方で、西中佐のイメージにぴったりだったと思います。ただ、洋かぶれ具合が過剰演出だったように見えて残念でした。


日本兵の戦術については、よく調べられていたと思います。

日本軍の虎の子、噴進砲が描かれたのが良かった。日本兵がやられっぱなしではなく、米軍戦車を破壊してくれたのが頼もしかった。

一人地雷を抱えて、死体にもぐりこんで、敵戦車を待つ伊藤中尉の空しさも、良かったです。
あまり成功はしませんでしたが、10km爆薬を抱えて、地面にもぐりこんで戦車を吹き飛ばすという人間地雷は、常套手段として硫黄島の兵士により行われていました。斬込み隊と呼ばれ、夜な夜な兵は爆薬を抱えて壕を出て、多くは帰りませんでした。壕を掘る工兵もこれ多数が亡くなりました。
欲を言えば、この地雷斬り込み隊は、もう少し描写してほしかったです。

一方、米軍の自動小銃や火炎放射器に対して、日本兵の持っていた村田式に毛の生えたボルトアクションのライフルの非力さも、よく伝わってきました。


さて、日本軍兵士の過酷な状況については、描写不足の感を否めませんでした。

掘り抜いた壕は、多くの箇所は、背をかがめて漸く歩ける狭い通路で、それが迷路のように張り巡らされいたのですが。映画では随分と大きい洞窟のようなところばかりで、イメージと異なりました。

細かいですが、映画では壕内の明かりのランプが電球だったのも首をかしげました。兵団長壕ぐらいしか発電機を回している余裕はなかったかと。手記ではほとんど石油ランプを使っていた模様です。

また、映画で皆、多くが長袖を着こみ、将官が軍服を身に着けていたのも疑問。本来壕内は、硫黄の蒸気が吹き出て、地熱で40℃50℃もあり、兵士は汗だく。ある壕では、みな素っ裸で、ただ一人ふんどしを付けているのが、隊長の大尉だった、ふんどしが将校の階級章のようなものだったという話もあります。

空襲や戦闘が酣になると、壕内の遺体安置場に死体を積み重ね死臭が充満し、食糧の腐臭や弾薬、汗、排泄物の匂いが混じって、壕内はすさまじい状況でした。
映画で、砲弾の中、西郷が排泄物のバケツの中身を捨てに行くシーンがありましたが。壕内は、下痢患者の下痢便だらけで、臭い汚いといったらそれどころの話ではなかったのではないかと思います。

さらに、食糧不足や粗悪な食糧も問題でした。映画では飯盒のメシがふんわりして白かったですが。硫黄交じりの水で炊いた米は、紫色がかっていて、食欲も減退したとのこと。野菜も高野豆腐ぐらいしかなく、新鮮な野菜などは手に入りようがありませんでした。

そして、水不足と乾きの辛さは、誰もが手記に書き連ねています。水は塩辛く、硫黄と重金属を含んでいて、湯のようにぬるい。雨水を溜める水桶は次々破壊される。どんなに砲撃が激しくても兵は水を汲みに外に出ねばならない。半ば壊れた水槽には、水を汲みに行って射殺された味方の腐乱屍体が浮かんでおり、そこに黄燐弾を投げ込まれて、腐臭と毒で異様な臭気を放っている。その水を、身体から水分が蒸発しきって枯れたような兵たちは、これほど旨いと思った事はないとため息をつきながら皆飲んだ。乾きに苦しむよりは、ひと思いに撃たれ死んだほうがましだった、という状況もありました。

兵は皆、壕掘りの重労働と、下痢と水不足で、皆痩せ細って、垢まみれの骨と皮だけになって、目だけがギラギラ光っているような様だったとのことです。なので、映画の兵の血色のよさは違和感がありました。

兵には、硫黄島の硫黄交じりの水と米を、硫黄臭い臭いといいながら、鼻を抓みながら飲み込んでほしかったです。
藤田中尉→西郷一等兵への命令で、「ミミズを取って来い」というのがありましたが。
これは、おそらく本当なら、「蛆虫を取って来い」でしょう…。
兵団長壕は若干余裕があったようですが。

食糧を奪って味方同士殺しあう日本兵というのは十分ありえた話で、汚い話を描くならそうしたシーンもありではなかったかと思います。

映画では、そこまでの過酷な様は描かれていませんでした。
事実は、フィクションよりもよほど凄惨です。


一方、脇役キャラクターは、皆、良かったと思います。

特に、愛国婦女連合のおばちゃんの演技が良かったです。パン屋の西郷が召集を受けるシーン。おばちゃんは、私も夫と息子を国に捧げたのですと、西郷の妻花子に夫を差し出せと迫る。そのときの醜く歪んだ顔が印象的でした。これは多分、彼女が持っていたのは、愛国心ではなく、嫉妬だったのだろうと思いました。自分は家族を国のために失った。目の前の若夫婦だけが幸せに暮らすのを見ていられなかったのではないかと思いました。

伊藤中尉の融通の利かない剛直ぶりも、ああいう士官は当時本当にたくさんいたのだろうな、という感じでした。

そして、自分の思うベストキャラクターは、栗林中将の副官、藤田中尉でした。彼は、実在の人物です。
映画のテーマでもある栗林中将の家族への手紙ですが、実際藤田中尉は、これを「検閲」するという、グッドジョブをしてくれたと推測される方です。

兵士の手紙には戦況などの機密が含まれるため、手紙は全て検閲を受けます。赴任地や、弾薬や食糧に窮しているということも書いてはいけません。それどころか、家族への弱音や武士らしくない表記は、全て検閲で撥ね退けられます。
一方、家族への思いにあふれた人間らしい栗林中将の手紙が、今我々が直に参照でき、この映画でも何度も引用されているのは、栗林中将の手紙の検閲が素通りだったためです。手紙の「検閲印」にいつも「藤田」とあったとのことです。この藤田さんの「仕事」なしには、今伝えられる栗林中将の姿もなかったことでしょう。

まぁ、自分だけ感情のままに手紙を送ることができて、栗林中将はずるいとも思います。 家族に本音を伝えたかったのは、どの兵士も同じだったでしょうので。

それで、映画の藤田中尉、すごくイメージがぴったりでした。栗林中将に従う藤田中尉。夫の三歩後を常に影のように寄り添う女房のようでした。映画での彼は、戦闘推移や大本営からの連絡、情報を全て頭の中で整理して、栗林中将にお伝えしていた。さらに、中将の命令で、侵攻してきたアメリカ軍の振りをして砂浜を駆け回っていた。すごい仕事量です。二人の信頼関係も、存分に伝わってきました。

合理主義、親米派で、日米の物量の違いをイヤというほど知っている。兵からの人望はあるが、旧態依然の海軍や陸軍の将官とは意思疎通が難しく反感も多い。家族思いのおだやかな司令官中将。
そして、その中将に傾倒して、暖かく見守り我が身惜しまず援ける有能副官。

すみません、白状します。
栗林‐藤田ラインは、大鳥-本多ラインに似ていると思いました。
もっとも本多さんは副官ではなく、れっきとした実戦隊長ですが。

色々と文句をつけて、結局それか、という感じで、ごめんなさい。
映画にはとても満足しています。
そして、感想はまだ続きます…。
タグ:硫黄島
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2008年01月11日

硫黄島と日本

酔い冷ましに、雑煮を食っています。今年に入って三鍋目ぐらい。材料が勿体無いからですが。

自分は、雑煮と言えば、大根とか人参とか牛蒡とか里芋とか、てきとうに根菜を煮て、白味噌で味付ければそれでいいと思っていました。

もしかして、関東の雑煮は、何か違うのだろうかと検索してみたら。
小松菜とか、鮭とか鰤とか肉団子とかカマボコとかが入るとか。しかも白味噌は入れないらしい。
トビウオでだしをとるなんて初めてきいた。道理で白味噌を探しても、なかなか見つからなかったはずだ。

うちの雑煮は、えらくみすぼらしい、もとい、経済的だったようです。
新年会で、これが雑煮です、とばかりに張り切ってお客様に出してしまったのですが。
何これ、この味噌汁の出来損ない、ぐらいにしか受け取られていなかったのでしょう。

餅の食い方も色々あるようで。皆様、餅はどうやって食されますか。
うちは砂糖醤油です。しかも、餅は高いということで、正月の三箇日になってからと、あとは神社の残りモノぐらいしか食わせてもらえませんでした。

先日はKさまと飲んでいました。とても為になるお話をお伺いしたような気がします。そういえば大鳥の話をしたような記憶が全く無い。そのうち思い出すと思います…。それにしても、昆布焼酎が美味かったことと、何かを考えなければならないなと思ったことしか覚えていない。酒飲み健忘症になったのだろうか。末期症状だ。


そんな感じで飲みながら、纏めるべきこともやらずに、ひたすら偏った分野の本ばかり読んでいました。

年末から読んだ本。

「野火」大岡昇平 昭和29年4月 新潮文庫
「俘虜記」 大岡昇平 昭和42年8月 新潮文庫
「硫黄島の星条旗」ジェイムズ・ブラッドリー 文春文庫 2002年2月
「硫黄島 太平洋戦争死闘記」 R・F・ニューカム 光人社 2004年8月
「散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官栗林忠道」 梯久美子 新潮社 2005年7月
「あの戦争は何だったのか」保阪正康 新潮新書 2005年7月
「名をこそ惜しめ ―硫黄島魂の記録」津本陽 文芸春秋 2005年10月
「十七歳の硫黄島」秋草鶴治 文芸春秋 2006年12月
「硫黄島戦記―玉砕の島から生還した一兵士の回想」川相昌一 2007年1月

文書名だけ羅列しても仕方がないのですが。一冊一冊、すべてチクチクとレビューしていきたい、中身の濃い本でした。

もともと、「祖父の硫黄島戦闘体験記」http://www5f.biglobe.ne.jp/~iwojima/index.html
を出張中にネットで読んでいたらどうにも抜け出せなくなってしまいました。この実録の現実感といったら、凄まじいです。

硫黄島の戦い。
アッツ、ペリリュー、サイパンなど、太平洋戦争で日本兵が玉砕した島は数あります。そのなかでも、名将栗林中将の卓越した防禦戦で持久した故に、兵が凄惨な目に遭い続けた戦いです。

本人の一兵士としての記録が本人そのままの言葉で記されているので、実在感が計り知れない。

軍に服務したことのある方の文章は、必要最小限のことを、速く正確に言う訓練を叩き込まれているせいか、非常にすらすらと頭に入ってきます。ある意味、仕事をする人間の理想的な文章だと思います。

特に太平洋戦争は、末端の一兵士、二等兵も自分の手で字を書いて記録を残しているのが凄いと思います。多くの戦争は知識階級の士官クラスでないと記録残すということができない。戊辰期は、武士階級、旗本も兵士となっているのでその記録もありますが、兵士が町人主体の伝習隊もやはり兵士の記録は無い。

それにしても、戦中の日本人の一兵卒の、語彙の豊富さ、感受性、文章力には唸らされます。我々現代人の三倍ぐらいの語彙数と、それを的確に表現する力を持っているのではないだろうか。戦後、日本語はだいぶ簡略化され、その過程で失われた語彙も多いようですが、それでかなり現代人は感性を失ったのではないかと思います。中学、小学校卒の一兵士の文章力に、自分は敵わないと思う。

十代の少年の記録には、「〜しちゃったのであります」などの言葉が出てきて、なんともいえない気持ちになります。

さて、硫黄島は、東京より南1250kmに位置する。サイパン陥落により、アメリカは日本の本土空襲がB24などにより可能になった。しかしながら主力爆撃機B29は直接の到達距離にない。硫黄島は、サイパンと本土の中継点にあり、空港がある。米軍がここを捕れば、B29による爆撃を可能にし、他の爆撃機の爆弾搭載量を増やし、不時着の戦闘機を収容できる。日本にとっては、日本国土の最前線。そうした、重要な戦略拠点だった。

そこで日本兵は、「地獄の中の地獄」、「史上最悪の戦闘」と、米国海兵隊をして言わしめた戦闘を繰り広げた。日本兵二万一千に対して、米側上陸兵は六万一千、更に補給・火力担当が二十二万が詰める。鉄量差・火力差は三千倍とも五千倍とも云われた。圧倒的な物量差、兵力差で、日本兵にとっては、初めから全く勝ち目のない戦闘だった。彼らの命題は、「何日持ちこたえるか」だった。

すでに熟練兵は消耗していた。硫黄島に配備された日本兵は、多くが十代の新兵や、徴兵された三十代以上の応召兵だった。特に、妻や幼い子供達を残してきた者が多かった。

日本兵は、飢餓と渇きと栄養失調と下痢の中で戦闘を繰り広げた。飲み水は硫黄分と塩分の濃い生暖かい水。食べるものといったら硫黄を含む水で炊くせいか紫色になった米、乾燥した南瓜、高野豆腐程度。食欲もないまま陣地構築の重労働で、皆、骨と皮と黒い垢になる。下痢が酷く、1日10回厠に駆け込むぐらいならまだ健常者と見られる。多くは痩せ細って、厠に行く気力もなく汚物にまみれる。蝿が凄まじく、真っ黒になるまで病人と健康人といわずに集る。その環境で、地底数十メートルを掘って複郭陣地を構築する重労働に明け暮れ、米兵相手に何ヶ月も持続戦を行った。陣地の壕の中は、地熱で40℃以上の気温で、硫黄ガスが噴出す。熱く、腐臭と死臭が篭る、およそ人間が生きる環境ではなかった。昼間はひたすら艦砲射撃と火炎放射に打ちのめされながらその壕に篭り、夜にゲリラとして爆弾を背負い体当りの野戦攻撃を繰り広げた。

対する米兵は、決まった時間に「出勤」し、朝も昼も夜も三食しっかり採り、もちろん水もふんだんにあり、負傷したら仲間が回収してくれて医務船で手術を受けられる条件。その敵と、上陸から1ヶ月以上戦い続けた。

彼らが何を思って、痩せさらばえ、枯れ木のようになって、骨と皮だけになって、水もなしに飢え死に乾き死にの苦しみの中で戦い続けたのか。
それは、自分達が一日持ち答えれば、その分本土への空襲が一日伸び、家族が一日生活することができる。彼らの戦いを支えたのは、その想いだった。

上の書籍の内、特に文章が脳裏に焼きついて離れないのが、「十七歳の硫黄島」です。
十七歳という、ピュアな年代のイメージとのギャップを硫黄島に被せなくても、三十歳だろうが五十四歳だろうが、この記録の持つ凄惨さはまったく変わりません。
夜中4時頃に読み終わって、そのまま眠るとどうにも魘されそうだから、その後で「おおきく振りかぶって」を通して読んで頭にフィルターをかけてから、睡眠時間を足らなくして深く眠ったのだけれども、それでも夢に出てきた。

「硫黄島の星条旗」「硫黄島からの手紙」のハリウッド二本立ての映画がリリースされてから、硫黄島は注目を浴びた分野ではないかと思います。自分は未見ですが。硫黄島に観光に行きたい、どうしたらいいか、という質問が、ツアー会社に入ってくるようになったとか。

自分はまだ未見ですが、そういう、映画の世界はまだ全然お綺麗なものだ、といわんばかりのことが、この「十七歳の硫黄島」で語られている。
「玉砕という一言で終わらせられるのには耐えられない」という著者の言葉が重過ぎました。

内容をきちんとお伝えするには、その凄惨さと切なさとやり切れなさは、もうこれは読んでいただくしかないのですが。それで終わると何も伝えられないままなので、舌足らずの極みを承知でご紹介してみます。

著者は通信兵で、爆撃で通信線が断絶し、修復不可能になってからは、自ら弾雨の中を偵察して戦況を報告するという任務に就いていた。

米軍上陸後の、最大激戦地は、島南部の摺鉢山。平坦な地形の島では最も高地である摺鉢山が、防御拠点になっていた。著者はこの陣地攻防における国旗掲揚戦を、通信兵の目で記録している。
頂上を日米兵士が奪い合い、米軍は数千の死傷者を出して、とうとう頂上を占領した。

この星条旗掲揚の瞬間を撮った従軍報道カメラマンのAP社のジョー・ローゼンタールは、ピューリッツア賞を受賞。さらにこの国旗掲揚は、この写真を基にして、米国立アーリントン墓地の正面に巨大なブロンズ像が作られたという「歴史的瞬間」になった。

しかしながら、この星条旗は、実は、翌日にはまた日の丸に変えられた。摺鉢山の頂上は、日本兵の夜襲により奪っては奪い返されの繰り返しだった。

まず、最初の摺鉢山の星条旗を見た著者。

「残念だがついに摺鉢山は奪われた。摺鉢山守備隊の皆さん、ご苦労様でした、と思うと、涙が溢れてきた。西空に移されるシルエットの旗の下の人影が、二人、一人と少なくなった」

しかしながら次の日。

「二月二十四日早朝。米軍は八時出勤だから、それまでには現状保持の状態にまでつくろっておかなくてはならない。すっかり明るくなった摺鉢山を望んだ。するとそこには星条旗ではない、まさしく日章旗が翻っていた。よくやった。日本軍は頑張っているのだ。この島のどこよりも攻撃の的になっている場所なんい。ご苦労さん、と自然に涙が出た。懸命に摺鉢山を死守している勇士がいる。故郷の人に見せてやりたい。…(略)何がなくて水があれば生きられるという。しかしその水を天が恵んでくれない。しかし死ぬわけにはいかないと、自分に暗示をかけていた。同じ境遇の人が、摺鉢山では夜を日についで眼前の敵と悲惨な激戦を展開し、ついに日の丸を掲げた。涙なくして見られぬ光景であった」

島から見渡せる摺鉢山の頂上。とうとう奪われたかと思ったら、また日の丸が海風にはためいていた。米兵は夜は攻めてこないので、夜戦は日本軍のお株だった。日本軍は健在と報じているようで、軍の士気は高まった。
けれども、この日朝の米軍の攻撃が開始されるとすぐに、摺鉢山の頂上は奪い返された。再び、頂上に星条旗が翻った。
もはや摺鉢山の守備隊は全滅したかと思われた。

二十四日が暮れた。
次の日の朝。摺鉢山には、再び、日の丸があった。

「二十五日早朝。摺鉢山にはまたもや日の丸の旗が朝日を浴びて泳いでいた。まぶしいほど綺麗な懐かしい旗だ。これは、いまだ頑張っている守備隊員がいるあかしである。あれほどの攻撃を受けたのに、よく頑張っているな。しばらく見入っていた。あの旗はどこにあったのだろう。不思議な思いだ。それに、あの旗は昨日とは違う。昨日の日章旗より、少し小さい四角だ。もしかするt、急遽作製した血染めの日章旗かもしれない。日の丸が茶色く見える。影を見ると泣いていた。拝む思いで眺めていた」

この日の日章旗は、昨日と異なり、日が上がってから二時間以上も頂上にはためいていた。そして米戦車群の攻撃が始まり、日章旗が抜き取られた。

「あの日の丸は、最後の鮮血としか考えられない」

二月二十六日朝、摺鉢山に日の丸はなかった。星条旗が、夜を徹して立っていた。


もうこの章は、滂沱の涙無しでは読めませんでした。
旗を、日の丸を、「まぶしいほど綺麗で懐かしい」と感じる想い。拝む思いで眺める。国を故郷を守る戦いが、一箇所の丘を巡る戦いに集約されている。こんなに純粋に国のことを思った人たちがいたのかと愕然とする思いでした。

国を守ると言うのは、国に生きる人を守るということ。故郷を守るということ。 その思いが国旗に込められ、それを果たそうとする者、果たせず死に行くもの者たちの思いの壮絶さが、鮮血の日の丸として、脳裏に焼きつきました。


その後、著者の居た送信所は破壊され、著者は火炎放射器で焼かれ、さらに砲撃の中で負傷します。

「言語につくせぬ火炎放射を全身に浴びせられ、癒す間もなく、次の任務のために征途についた。俺のどこにこの潜在的原動力があるのか不思議に思えた。自分を疑いながらも同時に、こんなところで死んでたまるかという根性が蘇生していた。影、待っていろよ、と心で叫びながら進んだ。髪は焼け焦げ、腕は腫れ上がり、衣服も借り物だ。あらゆる部位が麻痺している。けれど誰もが同じ状況下にある。五体満足なヤツなんか独りもいないんだ、と自分を叱る」

「影」というのは、著者秋草氏とずっと共にいた親友です。
火炎放射器の炎を全身に浴び、砲撃で吹っ飛ばされた。腕はあるがその先の指がない。

そして負傷兵として壕に入り、ドラム缶の上に転がされる。汚泥と排泄物と死臭の強烈な臭気の篭った中で、飲まず食わずに過ごす。
この壕の中の水不足、食糧不足の描写が、苦しくて仕方がない。他の重傷の血を吸って渇きを癒した兵士までが描写されている。

日時感覚もなく、昼夜の区別も就かない。
その後、米軍から毒ガス攻めに遭う。小指ほどの見張り穴に唇を押し当てて空気を求める。
水攻めに遭う。死体や排泄物が混ざって壕の中は肥溜めのようになる。
そして、火攻め。流し込まれた水にガソリンが注入され、手榴弾など火種が放り込まれる。水面に気化したガソリンは一瞬で引火爆発。阿鼻叫喚。

「彼らの顔や手、胸、腹など衣服のないところは上部の皮膚を少し残すのみで、ほとんどの皮膚が剥けて下方にぶら下がった。それが身体の上半身を取り巻いている。その火の海を望む場所から『お国のためだ、静かにしろっていうのがわからねえか』と覆いかぶさる者がいる。『わからねえっ、この痛さに黙っていられるか』と応酬があった後、お国のためだ、静かにしてやるよ、と言うが早いが銃声が響いた」

さらに、意識が混濁し朦朧とする中で、著者は壕の中をさ迷う。霊安室(という名の屍体置き場)に来る。

「足元にあるのはかつて人の体だったものであろう。足が触れると、腐った甘藷や南瓜を踏んだときのような感触が伝わってくる。中心の骨だけが固く、まわりのものはズルッと削げて骨が裸になる。俺の足を捉えて踏み越させない。とうていまともに歩けない。もう歩く元気もない。燐が飛び出すのをかろうじてへばりついた肉片が抑えているような死体があった。その泥んこのような肉片がずり落ちたら、物凄い数の燐が噴出しそうだとわかる。いつのまにか俺の方や指先からも、水芸のように、青白い燐が光っては消えている。肩から発する燐は、首筋を渡って頬や耳を掠めていく。このままではいけない。完全に虜になってしまう。今が正念場だ。冷静になろうと目を瞑った」

もはや生きているのか死んでいるのかすらもわからないような状態で、霊に引き込まれそうになる。

もうひとりの親友の熊倉。せっかく生き残ったのに、捕虜になる事を拒否して、手榴弾で散華した。二十歳だった。

「『また一人 我を知る人 失せにけり 飢えたるこの身 ひとり残して』
これを何かに残して辞世としようか。やめよう。故郷の誰にも伝える事のできない辞世というのは、ひどく空しい」


あまりに凄惨で、遺すこともできない辞世の句。

そうした中、いよいよ飢えと乾きは壮絶になる。夢遊病者のように食べ物を求めてうろうろする。
自分の傷口に沸いた蚤や虱、蛆を「俺を生かした唯一の食べ物だ」として食う。
ドラム缶を見つけては、中の液体を飲もうとする。重油、ガソリンまで口にして、悶え苦しむ。
米兵の残したサイダーの瓶を見つけて口にする。五臓六腑に沁みた。

炭を見つけた。時間が経つと炭は灰になる。「炭で残るのもまた希少価値なのだ」として、口にしようとする。

「大丈夫だ。焼き芋でも食べているつもりで食べた。味や栄養など関係ない。からだの入り口から出口まで、その通り道が癒着しないよう通らせるだけで十分だ。好きで食べるんじゃない。人間を離れて、畜生界に列する洗礼みたいなもんだ」

著者は、炭の元になった有機物が何なのかには触れていないけれども、それがかつては仲間だったものだったのだろうということは察してあまりある。

秋草氏は、この後、栄養失調と酸欠で意識をなくし、米兵の犬に見つけられて搬送され、捕虜となった。
その際、夢を見ているが、これがどうみても臨死体験にしか見えない。


当時の日本の普通の若者、普通の親父だった彼らが、戦いの中で、皆考えていたのは、本土の家族のこと。
日本を守る、イコール、家族を守る。
自分達が地獄としか言いようのない地で、飢えと乾きと疫病の中で、自分達が修羅道と餓鬼道と畜生道の坩堝の中で、戦い続けたのは、それが本土の家族を守る事だと信じていたため。

そういう彼らに守ってもらった国に、今、自分達は安穏と住んでいる。
彼らが鬼神をも慟哭させる戦いを繰り広げてくれたからこそ、今、アメリカでもなく、中国でもなく、日本という主権ある国体のもとで、日本の文化と精神性のもとに、我々が生活できている。

実際は、彼らの思いも空しく、本土空襲は彼らが死闘を繰り広げている最中から始まった。しかも痛恨である事に、硫黄島や沖縄決戦の米国の被害の大きさが、長崎と広島の原爆投下への意思決定を促した。

一方で、ポツダム宣言に於いて、国としては無条件ではなく「有条件」の降伏用件を引き出した。

「日本国ノ主権ハ、本州、北海道、九州、四国、及吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」(第8条)
「日本国ハ其ノ経済ヲ支持シ且公正ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルガ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルベシ(略)日本国ハ、将来、世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルベシ」(第11条)
「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ」(第12条)

これは、日本が主権を有する国体を維持した上での降伏、という「条件」付けたものだ。
これらは、無条件降伏ではとても日本の降伏を促せず、日本軍の戦闘の凄まじさにより、戦闘継続の被害を憂えたものから付け加えられた。つまりは、南方、沖縄、硫黄島などにおける彼らの死闘が、日本が日本としてあることを可能にしたという論がある。些かこじつけだという気もしないでもないが、私はそれを支持したい。

こういうのを見ていると、どうもつらつら、今の自分、今の国について考えなければいけないような気になってしまう。

他国の人と一緒に仕事をするたびに、自分は自分が日本人であってよかったと思う。日本円の通過の強さとか、援助を供与できる立場とか、勤勉さとか、日本人としての仕事の品質の評価のされ方とか、顧客満足の求め方とか、安全衛生のレベルとか、あらゆる面で、日本人の一員であってよかったと思う。そのせいでえらくしんどい思いをすることはあるけれども。日本という枠組みにあってよかったと思う。

国という枠があって、その枠のなかにたくさんの富がある国と、そうでない国がある。
枠があり、その枠の礎となった人がいるから、枠の中で、世界の平均以上の生活を営める。

世界の7割は字が読めず、5割は栄養失調で、3割は電気がなく、世界の1%だけが大学教育を受けることができて、同じく1%だけがコンピュータを所持している…というような話は誰もが聞いたことがあるかと思う。(数字は"IEA World Energy Factbook 2006" と「もし世界が100人の村だったら」より)

たまたま、自分は彼らが守った日本に生まれることが出来たから、教育を受けられて、字を読め、仕事を得られて、パソコンを触れられて、他人を不当に踏みつける必要もなく、生きるのに苦しまなくともすむ、それなりの生活を送ることが出来る。それは、別に自分が特別な苦労や努力を経て能力があったからではない。単にたまたま日本に生まれたのが幸運だっただけだ。たとえば自分が他のアジアの国に生まれていたら、今の半分の消費生活を送ろうとしても、無理だっただろうと思う。自分の才覚では、ミャンマーに生まれていたら電気のない村から一生出ることはなかっただろうし、北朝鮮に生まれていたら飢え死にしていただろう。

先人が守り作ってきた日本に生まれたから、今の自分がある。
故郷と故郷の人々を守りたいという一心を徹された方々によって、守られた地で生まれ育った、という事実は、何を持ってしても変えることはできない。

特攻隊で逝かれた方の整備士をしていた祖父を持つ人が云っていた。特攻隊の方の出征の際の言葉。「国のため故郷のために喜んで若い命を散らせる者が居る、その事実は、たとえ国が今戦争に敗れても、千年、五千年後も日本人が日本人として生きる誇りになる」

彼らが無駄死にだったなどと言うこと自体が、彼らの死を無駄にしている、とてつもなく恥知らずで恩知らずなことだと思った。
軍部の暴走や大本営の作戦をあげつらって、だから日本は悪いのだと結論付けても、今更、なんら示唆されるものは無い。

当たり前だが、戦争には相手が要る。自分が攻めるか、相手が攻めてくるかでないと、戦争にはなりようがない。
しかしながら、戦後の平和主義は、「自分が攻める」ということだけを拒否するのに一生懸命だ。「相手が攻めてくる」ということには全然思い至っていないように思う。

自分が攻めなければ相手は攻めてこないとでもいうのか。誰もそんなことは保障できないだろう。

今の日本に「自分たちから他国を侵略しよう」などという思想がどこにあるのだろうか。すでに灰になって消え去った考えが、さも未だに蔓延っているかのように見せかけて、最も大事な事項から目を逸らそうとしている何かの恣意があるようにしか思えない。

今本当に必要なのは、「どうすれば相手から攻められないですむか」という思考と、方策の具体的実現ではないかと思う。

「あの国を攻めても絶対に勝てない。こちらが不利益と被害を蒙るだけだ」ということを、中国、韓国、北朝鮮、ロシアなどのほうぼうの国々に思わせること。それをどう実現させるかが、目の前の課題ではないかと思う。それに比べれば、防衛省の汚職だとか、企業の不祥事だとか、正直、どうでもいい問題のように思える。

お隣の現状については、見るべきことがありすぎる。

まず中国。自分の国のメディアが不当に日本の漫画アニメを安く買い叩いて輸入し、著作権を無視して繰り返し放映した。そして中国自身の若者たちが自ら選びとって普及していったサブカルチャーを、他国(日本)からの不当なダンピングによる文化侵略であるなどと断定。そして毎年二桁パーセンテージで軍事拡張をしている。

それから韓国。次代の子を賢く育てるはずの我国のおばさんたちは、韓流と浮かれて当地からの輸入ドラマに現をぬかしていたが、当の韓国の軍事の仮想敵国はわが国で、そのミサイルの標準は自分たちの頭の上だ。また、車、電化製品をはじめとした日本の収入源は、そのお株を安くて手軽な韓国製品にどんどん奪われ始めている。

ロシア。資源のない我が日本の、次世代の資源確保突破口だったはずのサハリン-2は、1兆円近い投資をわが国民間会社が行ったにも関わらず、環境問題を槍玉に挙げて、ロシア国営会社であるガスプロムがプロジェクトの権益を政治的に奪っていった。

そんな中で「平和主義」を口ずさまれると、一体、誰にとっての平和を言っているのだろうかと、怖くなる。
世界にとっての平和、というのはよく口にされるけれども。たとえば日本と韓国と中国と北朝鮮の富を、人口で平等に配分するとどうなるのか、それを日本人だれもが望むのだろうかと、少し想像力を働かせると、いかにも世界平和というのは実現不可能な偽善のように思える。富の偏りがそもそもの戦争の原因である限り、日本人が世界の平均よりも豊かな生活をしているというだけで、本質的に、それは平和への裏切りだ。

平和という言葉が好きな日本人にも、自分の生活レベルを落としてインフラとエネルギーを放棄してまで平和を求める姿を具現している人は、いない。

完全な無抵抗主義は、もう一つの手段だろうとは思うけれども、自分と自分の大事な人の財産も命も生活も奪われて、飢えようが殺されようが拷問されようが強姦されようが、何が何でも無抵抗を徹するという、非人道的なすさまじい覚悟を、国全員が持たねばならなくなる。

その覚悟がないのなら、武力放棄は、自分が善人でありたいという善意に基づいた思考停止にすぎない。憲法問題にしても、北朝鮮の脅威に対する方法が、「アメリカさんお出で下さい」と頼むしかない。それで平和を標榜するのは、彼らが死ぬ思いで死にながら守った主権のある国としては、お粗末な他力本願ではないか。平和、平和と口だけで言って、いいことをしたという気に浸っているのでは、日本を守るために戦い亡くなった方々に示しがつかない。

そうすると、一見、憲法九条と自衛隊問題に帰結する。それに対して意見を持つのは重要なことだけれども、意見を出して終わるのもまた、ともすれば、国の政治家への責任転嫁という、一つの思考停止の形になってしまいかねないと思う。

平和は、それを願うと口で言えば自動的に叶うものでは決してない。誰もが真剣に知恵と金と労力を投入して、はじめて得られるものではないかと思う。日本が60年戦争をせずにすんできたのは、闘った彼らの遺産だ。そして、周辺国を見る限り、これからの60年の平和のために、苦労しなければならないのは自分たちの世代だ。

軍事以外でも、我々が日々の仕事のなかでやることはたくさんある。一人一人の行いとして、「日本は侮れない」と周囲に思わせることの積み重ねが大事なのではないかと思う。専門性なり、子育てなり、勤勉さなり、丁寧さなり、意欲なり、マニアックさなりで、「日本人は違うぞ」というメッセージを、それぞれが自分にできる形で自分なりに発して、行動していくことが大事なのではないかと思う。

考え及ぶ限りの地獄を見ながら日本を守ろうとした方々に報いるのは、生半可なことではないけれども、せめて、彼らが守ったものを次世代に継承できるように、賢く強くありたいと思う。

そして、彼らの想いに、ほんの少しでも報いようとする確実な方法があるなら。
自分の周りの人を幸せにすること。
これに尽きるのではないかと思う。

…というあたりを新年に際して考えたこととして、纏めたかったのだけれども。
ぜんぜん考えが収束しませんでした。飲んでいるのが悪いのですが。
こういう話は、夏のほうが良いのかもしれません。

さて、荷造りをせねば。
美味い日本食とも、またしばらくの間おさらばです。
posted by 入潮 at 03:09| Comment(2) | TrackBack(1) | 太平洋戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月12日

名誉とは

現場と報告書に追われていて、間が開きました。
今回、ちょっといがらっぽいポストになってしまいます。しかも世間様から約一ヶ月遅れで、すでに様々な方が詳細に議論されている話題なので、いまさらという感じではあるのですが。
ただ、幕末明治に接する上でも、前から触れておきたかったテーマでした。

ノーベル賞文学者、大江健三郎氏の著書「沖縄ノート」と出版社の岩波書店の訴訟。沖縄集団自決冤罪訴訟ということで、ネット上でも大きな関心を集めています。

学生時代から購読しているメルマガに「沖縄戦『住民自決命令』の神話」として紹介されていたのを読んで以来、どうなるのだろうとソワソワしていました。

(こちらのメルマガ、 国際派日本人養成講座というバタくさいお名前がついているのですが、中身は史料に基づいた日本の歴史講話集です。江戸時代、幕末、近代を紐解き、日本人が日本を誇りに思え、それ以上にこのご先祖様に恥ずかしくない生き方をせねばと奮起させてくれる、とてもに実直なレポート集です。「あなたは自分の言葉で日本を語れますか」と読者一人一人に問いかける。人間としてまず自分の根を知ることの重要さを訴えかけて下さいます)


沖縄で、日本軍が住民に集団自決を迫ったという「説」。教科書にも掲載された記述です。これについて、当時の日本軍の守備隊長のご本人とご遺族の方が、その説を流布してきた作家と出版社に対して、出版停止と謝罪、慰謝料を求めて裁判を起こされました。

原告の方はお二方。座間味島の守備隊長だった元少佐の梅澤裕氏ご本人と、渡嘉敷村の守備隊長だった故人の赤松嘉次元大尉の弟さんの、赤松秀一氏。

彼らは、日本軍として住民に自決を迫るどころか、実際は赤松氏も梅澤氏も「自決するなど、とんでもない」と制止していた。「村民はとにかく生き延びてくれ」と言った。

そして、被告は、『沖縄ノート』でこの説を流布してきた大江健三郎氏、『太平洋戦争』を記した家永三郎氏、そして『沖縄ノート』の出版を続ける岩波書店です。(家永氏は故人であるので裁判の当事者ではなくなっている)

起訴の理由は、名誉毀損と、故人の人格を冒涜し尽くす故なき誹謗表現により「実兄に対して抱いていた人間的な敬愛追慕の情を著しく侵害された」ことによります。

名誉毀損と故人への「敬愛追慕の情を侵害」することが、起訴立件に繋がるのだという事実。これを、自分たちに都合の良い解釈と捏造ばかりで故人を貶めている幕末ファンの歴史ライター・作家の方々には噛み締めていただきたいものです、と。いつもの文句を垂れて終わろうかと思ったのですが。

そういうレベルでは終えられない問題の広範さと深さが、この裁判にはあります。
まず、「沖縄集団自決は軍の強要であった」とする教科書の記述を変更する歴史問題にまで至っているのは、連日報道されていた通り。
そして、この裁判は、右翼と左翼、反日自虐史観と自由主義史観の代理戦争のような様相を帯びてきているように感じます。

もともと、集団自決を、軍による自決命令として最初に世に広めたのは、昭和25年に沖縄タイムス編として朝日新聞社から出版された「鉄の暴風」であり、大江氏はこれらの記述と執筆者の話から、孫引きの情報をもとに自分の情緒的解釈を加えて「沖縄ノート」を記した。(なお、梅沢隊長の座間味のことは「沖縄ノート」には記されていない)

そして、「沖縄ノート」を読まれた曽野綾子氏が、渡嘉敷島に赴き、当時の状況を直接見聞した人たちの証言を聞いて回ったが、集団自決の命令がされた事実は見られなかったと「集団自決の真相」(WAC社)に記した。こちらで曽野氏が述べておられる「『ない』ことを証明する困難さ」「曖昧な現実に耐えねばならない」という言葉は、何が真実かを真剣に探しまわり、自費で労力をかけて現場を丹念に調べて回った調査者ならではの実感が込められていると思う。その上で曽野氏は、「赤松が自決命令を出したという証拠がなかった」と結論付けた。

それでとうとう、11月9日に、に大江氏が証人喚問として裁判に現れました。そして、大江氏がどのような返答を行うのか、目を見張っていました。
自分は、実は、大江氏が、自分の足で取材しておらず、他の著書の記述を真に受けた孫引きから人を断罪したことを認めるのではないかと期待していたのです。それで、さすがノーベル賞受賞者の貫禄は違う、と唸らせてもらえるかと思ったのですけれども。

経緯や裁判の結果はこちらがわかりやすい。裁判記録は沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会さんにて参照可。

大江氏の発言を要約すると。
「ひとりの隊長の選択で行われたものではなく、軍隊の行ったことである」「『命令』とは第一義的には、日本軍の『タテの構造』総体による積み重ねによるものである」として、問題となっている「個人への名誉毀損」ではない、名誉を侵害していない、と主張。

また、原告の方々が問題にし、曽野女史の取材の動機になった「罪の巨塊」という沖縄ノートの語については、「死体の意味だった」と自分で作った造語だったという、著作を読んだ人が誰も理解できなかっただろう説明をしています。

これに対しての関連サイトやブログの反応ですが。
『沖縄ノート』で渡嘉敷島の守備隊長を「ペテン」「屠殺者」「戦争犯罪人」呼ばわりしておいて白々しい、作家が自分の作品について、自己弁護するのは見苦しいと、多くの方が感じたようです。「ノーベル賞も地に落ちた」「日本の恥」、「大江健三郎という『嘘の巨塊』」、など、散々な言われようをしています。「自分が裁判で勝訴するという私益のために民族語を破壊するなど、最も文学者のやってはいけない行為である」とまで言われています。

一方、かなり異なる見方もあります。共産党のサイトでは、。「元隊長が『沖縄ノート』を読まずに提訴した」とか、「赤松秀一氏は、兄に事実の確認をしたことはないと証言」したとか「梅沢裕氏は、自決命令は出していないと主張。自分には『責任はない』とのべました」など、平易な記述。これは、日本の歴史の暗部を当事者たちが覆い隠そうとした裁判であるという印象を植え付けるような書き方です。裁判を、日本軍の汚点を強調する方向へ誘導する表し方に見えます。何を強調するかで、受ける印象がまったく異なる、良い例だと思いました。

原告の方が裁判前に「沖縄ノート」を読んでいないとか、曽野氏が「巨塊」と「巨魁」を誤読したのだとかいうことで、問題がはぐらかされようとしていますが。本質はそこではないでしょう。
問題は、流言、妄言の類に基づいて、ノーベル賞作家という大衆のオピニオンリーダーともなりうる影響力のある人間が個人の名を傷つけ、その著書が版を重ねて売られているということだと思います。

といいつつ、恥ずかしながら、自分は「沖縄ノート」は拾い読みぐらいしかしていません。大学生のころか、ちょうどノーベル文学賞の波に乗って、ヒロシマノートか沖縄ノートを読もうとしたことがあったのですが。数行にわたる長く叙情と比喩に溢れた文章に、どうにもついていくことができませんでした。ああ、私には文学的感性は皆無なんだなと、早々に撤退してしまった思い出が、ほんのかすかにあります。今も、自分と自分を理解する者が読めばいい、という文章は、全く苦手です。文は一行で区切るぐらいでいいと思います。教養のない自分は、三行四行も一文が続く文が連なっていると、どんな名文でも読む気が枯渇します。閑話休題。


私が心打たれたのは、島の人々のために汚名をかぶった、守備隊長の覚悟です。

彼らの冤罪を晴らす、様々な当事者の証言がありますが。中でも、照屋昇雄氏の証言は胸を打ちます。

http://www.ch-sakura.jp/mailmagazine/224.html
http://www.ch-sakura.jp/mailmagazine/225.html

読んでいて、涙がぼたぼた落ちました。
こんなに自己の名を犠牲にする事を厭わない強靭な精神の方が居たのだと、愕然としました。

自決は、村の役場の主導で行われた。そもそも、住民には、戦闘になったら敵に捕まる前に死を選ぶべしという価値観が、もともとあった。

両隊長が、自決命令を発したと冤罪を被ったのは、保護を受けたい島の遺族のためだった。

「戦傷病者戦没者遺族等援護法」という法律が戦後当時あった。通称「援護法」。これは、戦没者や戦傷者の遺族が年金をもらえるという法律ですが。自決、つまり自分で死んだ人の遺族は、援護法により、年金はもらえない。一方、戦後、島は赤貧の極みにある。配給が止まって飢えて蘇鉄を食って死んだ人までいる。島民は、何度も援護法が適用できないか東京の厚生省に掛け合った。日本中にあちこち同様の人がいるから駄目だと断られた。けれども、軍の命令で自決した、ということならば、(軍の命令を受けた=準軍属扱いとなるので)援護法の対象として年金がもらえると教えられた。

「とにかく、自決命令を出したと言ってくれ、そうすれば(政府から)お金が出るからと言ってね、しかし、誰もならない、馬鹿じゃない限り、あんた、自分で自分を、縄で首しめる隊長はいないですよ」

それで渡嘉敷の島民は、赤松隊長に頼み込んだ。赤松氏は「村を助けるために十字架を背負います」と言った。渡嘉敷の村長は「軍の自決命令書」を作って、赤松氏の関西の自宅へ行った。赤松氏は命令書にサインした。赤松氏は、沖縄病といわれるくらい沖縄に関わっている人で、何とか沖縄を救えないかと模索している方だった。

そしてめでたく島の住民に年金が下りた。

「自決は軍の命令だったと嘘言って、文章書いて、書類作って、援護金もらった」

この結果、集団自決した遺族の方々に一人当たり約1億円もの年金が支払われてきた。
年金を受け取った方は、同じく島の受給者のことを考えると、とても真実をいえるものではなかった。本当のことを言って補償が止まったら弁償しろと、同じ島の人に脅されたという証言もある。

これは、こういってしまうと憚られる気持ちは大きいのですが。…島ぐるみの国に対する詐欺であるといえるでしょう。この年金が税金から支払われたものである以上、返還せよという声が起こってもおかしくは無い。
だから、島の住民は、決して真実を公言できない。

このことにより、集団自決は「軍の命令」となり、命令書にサインした隊長は、戦争犯罪人、屠殺者と、メディアに罵られた。

そしてようやく、勇気ある方々によって、重い口が開かれるようになった。


なぜ、梅沢氏、赤松氏らが、今になって裁判を起こしたのか。
なぜ、彼らは、島の住民のことを思い、墓場まで秘密を持っていかなかったのか。
それは、起訴の動機に明らかかと思います。

即ち、「日本国と日本軍の名誉のため」。

当時の武士道を叩き込まれた日本軍兵士にとって、名と名誉は何よりも守りたいもの。それを、沖縄の人々のために、泥にまみれるどころか、この上なく醜悪な人間として後ろ指指される覚悟すら負った。けれども、ただ自分の名前が汚れるだけだったら、彼らは、そのまま墓場まで黙して秘密を持っていかれたことだと思います。

それ以上に、日本の名前と、日本軍の名前が汚され続けていたからこそ、彼らはそれを正したかったのではないか。
虚偽をそのまま放置できないという義憤のため、それ以上に、国際社会から言われも無い非難を招いている祖国日本に、名誉を取り戻したかったからなのではないか。

自分たちの十字架が、反日の攻撃材料、自虐史観、若者たちが国に誇りを持てない由々しき事態にまで及んでいる。それを正したかったのではないか。

「戦争を知らない人たちが真実をゆがめ続けている。この裁判に勝たなければ私自身の終戦はない」

と梅沢氏の言。重い言葉です。

こうした思いが、「日本の名誉のため」という言葉に凝縮されていると思うのです。

であるので、島の人々のために汚名を着て、しかも今、ご老体に鞭打って日本の名のために事を起こした両氏の、勇気と高潔さには、打たれずにはいられません。

この裁判を起こされた事自体が、御二方の名誉だと思います。

そして、そうした魂を持っておられた方が、戦中の日本には普通に居た。そうした方々に、日本を守ってもらっていた。その事実は、平和教育とは別の次元で、確りと認識していたいと思います。


沖縄集団自決の冤罪問題は、特定個人・組織・地域の利益が、歴史を捻じ曲げるのだという、もっとも顕著な例ではないかと思いました。特定の住民がいわば不正に便益を望んだ。それが高潔な魂を持った方々が60年に渡り冷血悪魔呼ばわりされ、ありもしない日本の汚点が作り上げられた元凶となったということは、事実でしょう。

無論、ぬくぬく育った現在人の私には想像の及びもつかないだろう凄惨な沖縄戦を経た方々、生き残られた方々を、責める気はありません。住民の方々、戦争の被害者には、やるせない想いこそあれ、その後のご遺族の身のいたし方を云々する気などはまったくありません。軍の命令であろうとなかろうと、集団自決は確かにあった。生きて虜囚の辱めを受けずという教えが民間に浸透して、その通り毅然と自らを殺めた方々がいた。その方々のご遺族を責めることなど、できるはずがありません。

両隊長の不名誉な冤罪も、その原因となった集団自決も、戦後の自虐と国民の誇りの喪失も、そもそもの元凶は、マスコミなのではないかと思います。

鬼畜米英の残虐さを広め、玉砕を美徳とし、生よりも死を願うように洗脳まがいに民をけしかけ続けたのは、当時のマスコミだったではないか。メディアが大衆を煽り、メディアが軍を戦争から退けなくし、メディアが民間人の自殺に追いやった。
そして同じメディアが、戦争を断罪し、日本人から自国の歴史への誇りを奪い、人の尊厳を破壊している。

そして、マスコミは、正義の代弁者として、今も声をあげ胸を張って君臨し、世論を作り続けている。

いったいマスコミとは何者なのだろうと思います。

もちろん、マスコミも妙な連中ばかりではないですし、真実と客観に信念を掛けている報道者も多いと思う(思いたい)のですけれども。

一方で、「可哀想な被害者たちと極悪な日本軍」という二元構造にすれば、著書が売れ出版社の利益になる。戦争はもうこりごりという大衆に受け入れられやすい、日本軍=悪として大衆の心情を補償するストーリーを垂れ流すことにより、新聞雑誌は売れる。そうしてこれ幸いと事実を歪めるマスコミこそが、責められるべき存在ではないかと思います。

本や雑誌の売れ行きや、視聴率によって、歴史が作り変えられる。マスコミの影響力によって最も知れた事項が、事実になる。著名人の言が乗せられる雑誌や、全国ネットのテレビ放映により、著名人や番組制作者の認識が、そのまま一般の認識に繋がってしまう。そして一旦形成された認識を変えるのは、容易なことではない。

特定の人間、特定の地域、特定の出版社の利益のために、歴史も、人物像も、簡単に歪められ広められてしまうのだということを、この裁判により、強く認識したのでした。

日本人は素直なので、メディアや肩書きの権威に弱く、すぐに影響されてしまう。
こと日本の歴史事項については、メディアの言うことにははなから疑ってかかり、いちいち自分で資料で検証するぐらいでないと、危なっかしいように感じます。

言ってみれば大江氏も一種のスケープゴードなのかもしれません。大江氏は、誰もがやるように、メディアの記事を基にして自分の解釈を加えて「沖縄ノート」を執筆しただけなので。歴史事項でろくな調査もせず故人について言われのない中傷誹謗している例は、数え切れないほど目にする。ノーベル賞受賞者という肩書きを背負ったがために、大江氏はていのいい槍玉に挙げられてしまったなぁ、という感は確かにあります。それで、大江氏は晩節を汚してしまった。ある意味メディアの犠牲者と言えなくもないです。

モノ書きたるもの、人の名誉を傷つけるような記述をする際は、その根拠は慎重に慎重を期して事実を確認するものだろうと思うのだけれども。こと歴史に関すると、ご親族の心情や、そもそも事実がどうであるかということがほとんど省みられないままに、既存の有名小説や虚構を元に虚像が拡大再生産されていることが多いように思います。今度再放送される新選組の大河ドラマ続編しかり。

そこには、歴史を歪めることで得をする人たちの存在が垣間見えます。出版物の収益、視聴率、観光収入などが絡むと、ろくなことになりません。

(さらに、日本の歴史イメージが損なわれることにより外交上の発言力が増し国の利益になるという、日本の隣国の方々の思惑も大きいと思いますが、それはネット上でも様々な方が論じておられるので、ここでは置いておきます。)

ただ、幸い今は、ネットを徘徊すれば必要な情報や資料の存在もつかめます。
個人がサイトやブログでつぶやく分の影響力としては、マスメディアに比べればたかが知れているのですけれども。玉石混合の情報の渦の中でも、やはり根拠のある確たる事実というのは、力強く残されていくと思います。

何が真実かを見る目は、意識していたいと思います。

…といいつつ、自分も人物を扱う際、つい自分の都合や、調子に乗りすぎを自覚しないままに、貶めてしまうことがあります。その際は、どうか容赦なく、ご指摘、御誹謗、ご断罪下さい…。
posted by 入潮 at 05:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 太平洋戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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