2011年03月11日

カトマンズより その2

カトマンズの生活も、1ヶ月経って大分慣れました。道やローカル交通機関も覚え、行動範囲が広がり、街の見た目以外のところも見えてくるようになってきました。

写真も色々ありますが、ネット環境が思わしくなく、なかなかアップするようになりません。
ひとまず、カトマンズネタを以下の通り羅列します。(1Rp=約1.2円)

・3月14日から王様の顔が描かれた紙幣は廃止になる。

「日本人は天皇をとっても尊敬しているが、ワシらは国王を蹴りだしてやったんじゃ」と地元の方は笑っていました。この余波が、元国王の顔が記された紙幣の廃止。2006年の王政廃止以降、それまで紙幣に印刷されていた元国王の顔が、紙幣から消えました。それ以前の紙幣はもちろん流通していますが、これが使えなくなるとの事。廃貨です。

しかし、銀行で両替すると、後2週間で廃止になる紙幣が平気で出てくる。数枚紛れ込む程度ならまだしも、高額紙幣(といっても1000Rp)の全てに元国王の顔が現れていたりする。こちらが外国人で何も知らないと思っているのか。3月14日以降は銀行に持っていけば交換してくれるとのことだが。みなが銀行に詰め掛けるため、混乱が予想される。店やレストランで、片っ端から元国王顔の紙幣を消費していっても、おつりでまた元国王が帰ってくる。こうして皆さらに国王嫌いになっていきます。

・ネパールの電力会社NEA、電気料金は逆ザヤ。

電気料金よりもコストのほうが高いので、電気は売れば売るほど赤字になる構造。電気料金は国家マターで、電力会社が独自に決めることができない。消費者代表委員会で決められる。消費者は電気料金が安いほうがいいので、物価は上がっているのに電気料金は据え置きのまま。いつまでたっても物価に追従して電気料金を上げることができない。それなのに電力会社は独立採算を強いられている。だから、NEAの独自の電源開発も出来ない。売るほど不利益が重なるため、本気で計画停電も抑える気にならないだろう。自分の売り物の料金を自分で決められないのなら、民営化しても仕方が無い。倒産したくても出来ない。

・テンプーはバッテリー車

タイやラオスのトゥクトゥクやジャンボに相当するのが、テンプー。三輪車型の乗用車より小さいマイクロバスで、乗客は横向きにぎゅうぎゅうに詰めこみ、10名ぐらい乗る。距離に関わらず、1回10〜15Rp。庶民の足。
見かけはおんぼろだが、実は100%バッテリーで動くフルEV車だったりする。夜に充電して昼に走るモーター車。ネパールの電力は99%水力なので、環境負荷は小さい。これがなんと、30年以上前から走っている。これを実証するために、研究者が自らチベットの国境まで往復したとのこと。
しかし、現在、計画停電のため、夜に充電ができなくなってテンプーが走れなくなり、テンプーと住民がNEA本社へ抗議に押し寄せたこともあったとの由。

・ 乾期はこれから

まだ10時間の給電があるだけマシ。これから一気に、乾期の暑期がやってきます。着いた当時は非常に寒かったですが、今は日に日に暑くなっていっています。日差しが強い。シミが増えた。水はどんどん少なくなる。今は3日に1日の給水が、5日に1日に減らされる予定。そして、電気もさらに少なくなる。去年は1日20時間停電までいった。しかも、今年はもっと厳しくなるとの由。東京の真夏以上の暑さで、湿度90%以上、気温40℃以上になるとのこと。電気がないということは、クーラーも扇風機ももちろん無い。これから、かなりきつくなりそうです。

・街そのものが歴史

角を曲がる度に、寺や寺院やストゥーパやチョークや、何かしら現れる。普通に街の風景に混在していて、皆そこで煙草を吸ったり昼寝をしたりしている。道の名前や町内ごとに謂れ、伝説がある。祭りが多い。古い街なので道が非常に複雑。すぐに迷うが、迷いながら見る建造物が楽しい。ネワール式の緻密な彫刻が普通に門や欄干や窓枠に施されていて、つい見入ってしまう。

・宗教の坩堝

雑然としていろんな神様がいる。そんな印象。
シヴァやヴィシュヌが踊る横で菩薩様が鎮座している。カーマスートラのごとく男女のまぐわう像が並んでいるかと思えば、そのすぐ下に煩悩とは無縁の仏像がある。ヒンズーと仏教とチベット密教と土着の宗教が入り乱れていて、分けがわからない。さらにキリスト教徒もイスラム教徒も居る。この混沌こそがネパールかもしれない。

しかし考えてみれば、クリスマス(キリスト教)、除夜の鐘(仏教)、初日の出(神道)、お年玉(儒教)を1週間の内に行ったり、同じ町内に教会と神社と寺があっても誰も違和感を抱かない日本も、大して変わらないのか。さらに考えてみれば、世界中の神様を敵雑魚キャラとして経験値にしたり、仲間にして合体させたりしてゲームで遊んでいる日本人が、一番怖いかもしれない。

・紅茶・ハーブティ好きには天国

高山植物をふんだんに使ったものすごく美味しいブレンドのハーブティが、普通にスーパーで100g100円以下で売られている。信じられない。
紅茶は、インドのダージリンと国境を挟んでネパール側にイラムという名産地がある。このイラム産のお茶が、世界ではダージリンティーとして売られている。(淡路島産の淡路ビーフが全国的には神戸牛の名前で売られているのと同じか) よって、ダージリンティーが安くて美味しい。高級ホテルでしかお目にかかれない、日本で買うと100g4000-6000円もするファーストフラッシュのイラム茶が…以下略。
いずれにしても、取って置きのときに飲むレベルのお茶が、普通に日常的に、その辺で秤り売りされている。一度、ヤン・ウェンリーに来ていただきたい。

・教育のレベルが高い

もちろん人によるので一概には言えないだろうけれども、人間は真面目で勉強熱心。教育熱がすさまじい。英語教育も行われる私立と、普通の公立とのギャップが激しい。親は将来を子供に託すため、教育費に収入の相当な割合を注ぐ。Grade 10 (10年生、高校1年相当)でセンター試験のような全国共通国家試験があり、そこで大学入試資格を得るかどうか決まる。資格を得たらさらに大学前に2年間の専門教育を受ける。大卒の新任も、かなり勉強してきている印象。英文文章作成も普通にできる。PCもワード・エクセルは当たり前、CADのほか専門ソフトウェアまで学んできているので、少し教えるだけで結構な戦力になる。大学教育課程で、本当に仕事に必要なことも教えられている印象。
一方、授業料は高い。高校2,3年の大学予備課程で、年間10万ルピー以上かかる由。私立学校が完全にビジネスになってしまっている。

・政治が悪い

では、何が悪いのかというと、誰もが口を揃えて言う。「政治が悪い」と。

誰もが、この国の電力をどうにかするには水力開発しかないと分かっている。水力発電の調査報告書は何十案件もあって山積みになっている。ドナーも援助で調査はする。しかし水力の建設には巨額の資金が必要。ドナーの協調や官民連系を行うにも政治が絡む。そして政治が動かないから、資金も集まらず、建設もできない。ネパールもブータンやラオスのように水力を売って豊かになる道がしっかりあるのに、豊富でどこにでもある水力ポテンシャルが利用できない。

政治が違うだけでこうも変わるのかと、つくづく思いやります。


そんな感じで。最初は、悪臭と排ガスと停電と断水、体調が崩れたのもあって、ここで1年かと、正直心が折れそうにもなりました。今は開き直って居心地良くなっています。不便な中に工夫するのも楽しい。歴史のある街だから、建物にも街角にも人にも味があります。「電気と道路と水と空気さえ何とかなったら、とっても良い街なんだけどね〜」と仰った方の後半部を、今は実感として感じています。

ラベル:ネパール
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2011年02月24日

経口補水塩(ORS)


国を転々とする人間の職業病とでもいえる症状に、水あたりがあります。

水や食べ物が変わると、いったん体の中にあるものを空にしようとするように、腹痛、下痢と嘔吐感が一度に襲ってくることがある。人によって、2、3日でくる人もいれば、10日〜2週間で来る人もいる。また、場所が変わると必ずなる人もいれば、鈍感な人もいる。

これを過ぎれば、その後は不思議なことに、何を食べてもだいたい大丈夫になる。場所が変わった際の通過儀礼とでもいう感じです。

自分は鈍感なほうなのであまり苦しんだことはないのですが。油断してローカルフードを食べ歩いていたら、ここで来てしまいました。やっぱり苦しかったです。

下痢の時に行うべき処置法で、以下の内正しいものは何ぞや。

1)脱水症状にならないように水を多量に飲む
2)スポーツドリンクを意識して多く飲む
3)極力薄味にしたお粥など、水分の多いもので栄養補給する
4)速やかに下痢止めを飲む

答えは全部バツ。とまではいかないですが、全て、ベストアンサーではありません。

下痢で体がだるいのは、体力が落ちているというのもありますが、主に体内のナトリウムイオン、カリウムイオン、塩化物イオンなど電解質が失われるからです。下痢で脱水する水分の中に電解質が大量に含まれているので、体内の電解質の濃度が下がります。

途上国の子供が、下痢の脱水症状で亡くなるのは、多くの場合電解質の喪失によります。

ここで水分だけを補給すると、体内の電解質濃度がさらに低下し、体調は悪化します。

スポーツドリンクは、水よりはマシですが、糖分が多すぎ、一方電解質濃度は薄いです(必要量の1/3〜1/5というレベル)。やはりベストではありません。

下痢止めは、細菌性の下痢だった場合、毒素を出す細菌を体内に留めてしまうので、かえって悪化させます。細菌性でなくても、下痢は基本的に胃腸の中に入ってきた悪いものを体外に出そうという体の作用です。水当たりなど体が慣れないものを出そうとしている場合も好ましくありません。


それで、何が良いのかと言うと、水を飲みながら電解質を補充できるものです。

ORS (Oral Rehydration Salts、経口補水塩)というものがあります。

粉末のもので、所定量の水に溶かすと、体液とほぼ同じ電解質濃度の液体になります。
これにより、下痢の脱水により命を落としていた子供たちが助かり、死亡率の低下に大いに寄与しています。

(それが一因となって、人口が増えすぎて、都市に人があふれ、都市汚染を招き、職にあぶれた人々多数という現象を招いてはいますが。命は救われるべきものという大前提があります。人口が増えるならそれに応じてインフラを整備し、経済成長をして雇用を増やしつつ、家族計画で出生率を減らしていくべき、というのが総論です)

ORSは、ネパール語でジブンジョル、命の水というらしい。

そこで、試してみました。

P1000190.jpg


成分は以下の通り。

Sodium chloride (塩化ナトリウム)2.6g
Potassium chloride (塩化カリウム)1.5g
Sodium citrate (クエン酸ナトリウム)2.9g
Glucose anhydrous (グルコース)13.5g
excipients q.s.

グルコースが含まれているのは、ナトリウムイオンは糖分と一緒に吸収されるためです。
上のものはインド製ですが、ネパールでも、個人でも簡単に作れそうです。

上のものを、水1Lに溶かします。
乳児は体重30〜50ml/kg/日、幼児は300〜600ml/日、成人は500〜1,000ml/日を目安にすると良いとのこと。脱水の程度に合わせて増減します。

湯でなくても、水に簡単に溶けます。子供が飲むために糖分が結構入っていて、思ったほど塩辛くはない。濃くて粉っぽいスポーツ飲料、という感じの味です。こう言うと不謹慎ですが、以外においしいです。

ネットで見ればレシピもあります。
簡易的には、水1Lに、食塩2gと砂糖20〜40g(あるいは食塩を小さじ1杯、砂糖を小さじ8杯)を加えれば良いとのこと(なお、重症の脱水に対しては、適切ではないとのこと)。砂糖と塩で命の水になる。

途上国ではその辺の小さな薬局で普通に売られています。一袋が1リットル用。10ルピー(12円)です。これで助かる命が多いのですから、ありがたいものです。
よく、「100円で救える命がある」という、寄付のための宣伝文句があります。100円どころか30円でお釣りが来ます。

細菌性の下痢にかかると、もちろんこれだけではなく、抗生物質が必要になります。サルモネラ、病原性大腸菌、ブドウ球菌、赤痢、腸チフス、パラチフスなど、周辺環境には普通にいます。

地元の方が言うには、炭酸ガスのようなすっぱい感じのげっぷが出る場合は、薬を飲む必要があるのだそうです。自分で判別するのは難しいですが、水当たりだと普通熱はでないし、2、3日で何とかなります。それ以上続いたり高熱があったりするようだと、問答無用で病院へ、となります。そして、長引く感染症の下痢でこそORSが本領を発揮します。

ORSは、途上国にいる方なら常備しておいて損はないと思います。今は現地でどこでも買えます。日本のように衛生環境の整ったところでは、かえってお目にかかれません。
最近、大塚製薬からも、ペットボトルやゼリー状のものが発売されていました。飲んでもらえる味にするのに苦労したとか。命の水も、日本人にとっては嗜好品としても通用しなければならない。日本では死ぬほどの感染症の下痢というのはもはや希少であるゆえ、ということでしょうか。

なお、日本には昔から、毎日の食卓に脱水から命を救う構造がありました。味噌汁です。味噌汁の塩分濃度は、体内の電解質濃度とほぼ同じぐらいなのだそうです。そうした食文化を無意識に定着させていた我らの祖先に、驚嘆するところです。

ただ勿論、ORSも味噌汁と同様、高血圧などで塩分制限を受けている方は、普段から大量に口にするものでありません。


結局、水当たりはすぐに回復しました。幸いなことに、ORSは味見程度で終わってしまいました。目下の敵は、下痢よりも、排ガスと砂埃にまみれた空気です。常に喉がいがらっぽく、呼吸するたびに肺に黒い物が溜まっていく感じです。実際、ネパール人に気管支・肺疾患とアレルギーは激増中。下痢に対するORSのように、空気に対しても何ぞ抜本的なものが生まれてくれないものかと、つい思ってしまいます。

ラベル:ネパール
posted by 入潮 at 03:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 途上国開発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月22日

停電都市


夜です。今日は起きています。
夜はだいたい電気がありません。暗闇の中、ランランの光でポメラを打とうとし、そのままろくに作業せずに寝てしまう、という日が続いています。

今夜は珍しく夜中もカトマンズの町に電気が来ています。電気があるとこうして起きていますが。人間、暗いと寝る他ない生き物だと思います。

電気が来ているのは、おそらく、乾期に珍しく雨が降ったからでしょう。雨が降れば、流れ込み式の水力発電に水が流れ、電気が来る、という方式です。この時期、連日晴れでからっからに乾いていて、砂埃がすさまじい。すぐに咽喉をやられるぐらいです。ただ、誰も予期せず不意に雨が降ることがあります。これを「インド人も吃驚雨」と言うそうです。本当にネパール人はそう言っているらしい。

この雨で急激に気温が下がり、風邪引きが続出することになります。一週間前にもやはり一度大雨が降り、真冬に戻ったかのように凍える気温でした。道路は排水能力がなくてすぐに冠水します。

こうした例外がない限り、乾期の現在は1日14時間の停電中です。すなわち、電気があるのは1日10時間のみ。電気が足りないので、カトマンズの街を7つの区画に分け、同じ時間に電気を送る区画と送らない区画を設定しています。こうして電力の負荷が発電所の容量を超えないようにする。これをLoad Shedding、負荷分散と言っています。区画ごと、曜日ごとに電気のある時間が異なります。今日は何時から何時まで電気がくるのか、停電時間表を確認する事から1日が始まります。

今泊まっている宿は、ディーゼルの自家発電機を持っています。電気が来ていない時間でも、夜11時までは発電して電気を提供してくれます。発電用の油も高いので、発電機を動かせる時間も限られています。

よって、23時になると部屋は暗闇で、強制的に寝るか、貴重な電池を消耗しながらランタンの光でせせこましく作業するより他はなくなります。夜は暗いということを思い出します。外は街灯もないので、道が見えない。舗装が剥げて穴ぼこだらけになった道を歩くのには神経を使います。月が出ているととてもありがたい。満月だとまぶしいぐらいです。暗さを恐れ、月や星の明かりをありがたいと思う。インフラが整った国から出てはじめて、こういう感覚を思い出します。

ほとんどの普通の家庭はもちろん自家発電機など持っていません。せいぜい、インバーターとバッテリーを入れ、電気を溜めておくぐらいです。バッテリーを充電するためのソーラーパネルも普及しています。なお、インバーターは、交流の電源から直流のバッテリーを充電するために直流と交流を変換するためのもの。巨大なACアダプタに制御と保護機能をつけたようなものです。バッテリーの電力を使う場合は、再びインバーターが直流から交流に変換します。

このため、街にはソーラー屋やバッテリー屋が溢れています。多くはインド製。価格は日本の半分以下。バッテリーは容量あたり半分〜1/5ぐらい。

それでも、バッテリーの容量でカバーできるのはせいぜい照明、パソコン、携帯のチャージぐらいで、大型の家電まではまかなえません。特に加熱するものは容量を大きく食うので、まず無理です。エアコン、テレビ、冷蔵庫、湯沸かしポットやヒーター、ドライヤーなんてもってのほかです。

また、電気を貯められる形にするインバータの効率は悪く、余計に電気を消費することになります。ある家庭では、雨期は電気料金が1000ルピーぐらいですが、乾期には電気を貯めるためにこれが2000ルピー以上に跳ね上がるとのこと。(1ルピー=1.2円) 電気を余計に使っているわけではないので、理不尽と感じるでしょう。

オフィスでは仕事のために850kVAのインバーターと150Ahの鉛蓄電池バッテリーを、電気の達人の方に入れてもらっていますが。それでも1日で使えるのは、数台のPCとプリンタとルーターと、20Wの蛍光灯二本ぐらいになります。湯を沸かしてお茶を飲みたければ、電気が来るのを待つか、ガスコンロを買うしかない。

バッテリーは、その溜めた電気をその容量に対して使うほど寿命が短くなります。たとえば、ノートPCや携帯のリチウムイオンバッテリーを、しょっちゅうぎりぎりまで使いきっていると、すぐに持ちが悪くなって使える時間が短くなっていきます。少しずつ、浅く使う方が電池の寿命は長くなる。(なお、これは鉛蓄電池やリチウムイオン電池の場合。ニッケル水素電池などは、浅いところでばかり使っているとそれ以上深く使えなくなる現象(メモリ効果)があるから、時々使いきるほうがいいものもある。一方、ニッケル水素電池でもメモリ効果のないエネループのようなものもある)

バッテリーは、重いし(前述のもので60kgぐらいもある)高いし、処理に困る。そう再々、交換できるものではありません。電気のないところにあるソーラーパネルを用いた設備で、いつも問題になるのは、バッテリーの交換です。バッテリーの寿命がすぐに来てしまって、一方で新しいバッテリーが買えないまま、結局放置されてしまう、ということがよくあります。

よって、電気の無いときは、電気に素人でも、常に今何ワット、何アンペアの機器を使用し、バッテリーへの負荷がどれぐらいかかっているのかを、日常的に意識することになります。

エコだの地球の優しいだのわざわざ言わなくても、ものすごい省エネ志向になれます。

普段電線から来ている電気がいかに貴重なものか。それを自分で何とかしようとしたらとんでもない手間がかかるものだということを実感します。

日本は、1年間に数秒の停電も許さないほどに、がっちりと電力系統が作られています。だから誰も電気のありがたさを感じることができない。電気がないということが想像できなくなってしまっている。電圧、電流、電力といったものを全く意識せずに、家電に囲まれた日々の生活が営めてしまう。気にするのは電気料金に直結する電力量(kWh)ぐらい。無意識こそが贅沢であると言えるかもしれません。

日本も、週に一度、停電デーを作ってみたら、CO2削減もうまくいくし、エネルギーをありがたいと感じることが出来るようになっていいのではないかと、乱暴なことを思ったりします。
こちらの日々停電の腹いせではありません。多分。

早く1日中電気のある雨期が来ないかなと、つい思ってしまいます。雨期は雨期でさらに大変なのだ、ということは分かってはいつつ。


ラベル:ネパール
posted by 入潮 at 04:30| Comment(3) | TrackBack(0) | 途上国開発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月13日

カトマンズより

今月はじめから、ネパールはカトマンズに来ています。

ネパールといえば、エベレストにヒマラヤ、山の国ですが。
そのような爽快なイメージとはかけ離れ、首都カトマンズは、途上国の都市の宿業を一身に背負ったような状況でした。

人口過多による過密と環境悪化。行った人々皆から、停電と渋滞の激しさ、川の酷さを耳にしていたのですが。聞きしに勝るとはこのことか、という感じです。
電気が来ない。車は動かない。昼は電子も車も止まっている。

さらに町中の河川は汚物が充満していて、底は完全にヘドロ化。特に乾期は流れる水が少なく、川が汚水溜めか下水のようになってしまっている。悪臭が酷く、橋を渡るのも一苦労です。流れているのは水ではなく毒だと言う人もいる。

水の量自体も足りない。一般の民家は1トン〜2トンの水タンクを買って水をためていますが、乾期にはそれでも足らずに別途水を購入しなければならないとのこと。それも数千円する。給料の水準が日本の1/5〜1/10ぐらいなので、かなりな家計の負担です。

空気も酷いです。乾燥している上に、舗装が剥げている、砂質がラテライトの泥で非常に細かい、排気ガスが充満している、などの条件が揃って、埃っぽいというレベルではない。塵の中にいる、という感じです。
案の定、肺疾患が増えているとのこと。さらには、山林の斜面保護のために援助機関が杉を植林で持ち込んだから、花粉症が激増しているのだそうな。

どれも、既存のインフラに対して、急激に人が増えすぎた事によります。

この国の電線の電気は、ほぼすべてが水力発電によります。石炭も石油も天然ガスも採れないので、化石燃料はすべて輸入です。外貨は貴重で、文字通り湯水のように燃料を使わねばならない火力発電は大型のものは導入できない。輸出できる産業があまりないので、わが国のように「エネルギー?無ければ買えばいいじゃない」というわけにもいかない。自前の水力でまかなうしかない。一方、この国ように雨期と乾期がはっきり分かれていれば、乾期は水力発電のための水がない。雨期の水を1年中ためておける貯水池式なら乾期もまかなえますが、これには巨大なダムの建設が必要。貯水池式が切望されています。日本も援助で水力発電の調査設計していましたが、環境や資金やさまざまな問題で進んでいません。

道路は、日本の援助ででも拡幅して、少しでも渋滞を緩和させようとしています。ただ、抜本的に行おうとすると無償ではなく借款が必要。しかし、この国は返済能力が疑問視されて、借款はなかなか通らない。一方、返さなくてもいい無償は、生きる最低限の医療や水などの人道援助に限られ、都市の環境改善の大規模なインフラには適用されない。

周りはこの情況を何とかしたくてやきもきしているのに、環境といい、援助方針といい、自分で作ったルールに縛られてなかなか抜本的に動けない、という感じです。

アフリカの首都や中国の省都レベルの都市はみんなこんな感じだろうし、カルカッタや冬のウランバートルや東北区などに比べればまだマシだとは思うのですが。やはり、人による汚染にはうんざりするものがあります。

もちろん、良い面もあります。

良くも悪くも、欧米人や日本人のツーリストがかなり多いので、宿や食堂は供給過多ぎみに充実している。カフェは多くてパンがおいしい。マッサージ屋も多い。

ネパールの民間人も頑張っている印象です。ラオスなどはちょっと大きなカフェやレストランはだいたいタイ、中国、ベトナムの資本が入っていますが、ネパールは自前で行っているところが多い。あるカフェのチェーンは、視聴覚に障害のある方を従業員として一定数雇用し、社会貢献を行いつつ、それ自体を集客力としている。そのカフェでお茶を飲めば自分も社会貢献しているという意識を客に与えられる、それで多くの店舗を有している。

また、太陽光利用が非常に進んでいます。太陽熱の給水は昔から行われ、太陽光発電用のパネルは町のあちこちで売られている。導入には半額の政府補助が出る。そもそも系統の電気がないから、電気が欲しければ自分で何とかしなければならないからなのですが。住民は工夫して、決して安くはない金額をはたいている。
日本も太陽光に補助金を入れて一生懸命普及させようとしていますが。再生可能エネルギーを普及させる一番の方法は、電線の電気を止めることだという皮肉さを実感しました。

少数民族保護の意識も高い。すべての民族から議員を、という仕組みから、議員の数が600をオーバーしてしまい、議員が国会議事堂に入りきらなくなった。急遽別の建物を使用しているとのこと。なお、議員の1/3以上は女性とすべしという決まりがあるそうです。

観念的には進んでいると感心することが多い。
ソフトの進み方にハードインフラが追いついていないという感じです。

日本人ながらこちらに住まれて20年以上の主婦の方曰く。

「電気と道路と水と空気さえ何とかなったら、とっても良い街なんだけどね〜」

彼女の挙げられた四つは、どれ一つが欠けても徹底的にライフラインに関わってくる要素ではないかと思うのですが。確かに、そういう生活の利便の必須要素を別としてもなお、魅力的に感じられる要素は、この街にあります・・・と思わねば、生きていけない。

先週は事務所の設営に明け暮れ、まともな仕事になりませんでした。オフィスは例の川の畔です。悪臭に苛まれる日々。これから乾期になるにつれてさらに匂いは酷くなる由。数ヶ月塵の中に放置されダニの巣窟になっており、掃除も大変。

まず電気とインターネットが無ければ仕事になりません。プロバイダを探し、インバータとバッテリーを調達、配線して、掃除して、1日が終わります。それも結局人様に頼りきりで、己の力なさが身に染みます。

今回の仕事は、再生可能エネルギーの導入です。しかし今更数百kWぐらいのクリーンエネルギーを入れたところでこの都市の電力不足はどうにもならぬとは思いつつ。

こういうところで、少しでも居心地良く生活するために工夫するのも、楽しくなってきました。

これから1年間余りの駐在になります。
5月には一度帰る所存です、何とか。

ラベル:ネパール
posted by 入潮 at 12:54| Comment(2) | TrackBack(1) | 途上国開発 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月25日

歴史コンサルティングとな。


「幕末ペン 大鳥圭介」

大鳥さんもこういう商品に登場するようになったのですか。
しかも、「在庫不足のため購入ができません。」との由。品切れになるまで、売れたのですか。

紹介文に「学者・軍人・官僚・工学者・・・ 稀有な才能に恵まれた、幕末の豪傑」とあります。
こういう業界にも、「工学者」の実績が認知されるようになったのは、目出度いことです。

榎本さんバージョンもあります。

「いまでも横須賀あたりでは、彼の身なりを真似た輩をたまに見かける」

と、人物説明にあります。「真似た輩」をぜひ拝んでみたいのですが、横須賀のどのあたりなのでしょうか。実はこの紹介文の著者こそが、「真似た輩」だったりすると楽しいのですが。

家紋の色が、榎本さんが海の青、大鳥さんが空の青、なのだそうです。見て区別はつきませんでした。白鳥は、悲しからずや。


上サイトにあるようなグッズ販売がビジネスとして成り立って、次々に商品開発されているところを見ると、歴史エンターテイメントブームはまだもう少し長続きしそうです。というか、業界が続かせようとしている気配です。

自分の発明や機能の工夫によるものではなく、他人の知名度に寄りかかったこうした商売は、昔から多々あります。アイドルのブロマイド売りとか。そういうものを応援したい気は、特には無いのですが。

上商品を販売する会社が、「歴史コンサルタント」なる業を営んでいるということに、さらに吃驚しました。WPによると、歴史イベントの実施、戦国ミステリーツアーなどの企画、全国催事への歴史グッズの卸や出店、さらには歴史出版物・商品開発の助言、情報提供、専門知識や素材の提供、などが業務内容に挙げられています。

こうした業務がコンサルタント業として成り立つようになった。歴史を収益性のある娯楽エンターテイメントに変換するためのノウハウそのものが、事業の糧になる。アイドルのブロマイドの作り方、売り方、場所や機会の作り方を教えること自体が商売になる。

歴女に代表されるような娯楽歴史のブームの存続そのものが、会社の存続を左右するわけで。彼らは自社の収益のために、ニーズそのものを作り出し続けねばならない。

歴史で町おこししたい地方の事業者、公共団体などはこうしたサービスの主要なお客様になるでしょう。ただ収益のためのエンターテイメント化の手法に多様性はそんなにない気はします。すると、場所と対象人物の名前とキャラが違うだけで、やっていることは同じ、ということになりかねない。ただ、それが違えば消費者には十分なのでしょう。そして消費者に受け、企画品が売れれば、事業者としては満足なのでしょう。

ドラマなど大衆メディアで光が当てられたからハコモノを作って地元へ人を呼び、イベントや企画で盛り上がるのは良いでしょう。

しかし、それは5年後、10年後と続いて行きうるものなのだろうか。却って地方の停滞を招かないかと思ったりもします。その時だけで盛り上り、その後は消沈して終わる、資料館など作ったは良いが、集客力が続かず、維持管理費ばかりかかって赤字が地方の負担になる、などということにならないのかろうか。その時その年は良くても、旬な人物が移り行けば人が他所へ流れてそれで終わり、となりかねないように思います。

コンサルタント会社には顧客は多いほうが良いのだろうけれども、持続性まで考慮して企画立案して下さるのだろうか。

と、余計なお世話なことを思ってしまいました。

歴史はそれ自体、産業ではありません。歴史は地方の一要素にすぎず、本当に重要なのは、現在何の実質的な産業が地元にあるかということです。温泉でも、酒でも、企業の工場でも、職人の技術でも。それ自体が民間活動で収益をもたらしうるもの、地方の特色を持って他の地方との競争に勝てるもの、そしてそれが持続するものであることが、地方にとって一番大切なものでしょう。

歴史は、人が地元に愛着を抱く土台かと思います。この大好きな地元のために働きたい、地場産業に競争力をつけたい、故郷のために税金を払ってもいい、と人々に思ってもらうための、人づくりの要素としてにこそ、本当の価値があるのではないかと感じます

歴史により、流行に乗り目先の短期間の収益を目指すのもよいですが。長い目で見た歴史の活用にこそ、主眼を当てれば良いのではないかと思います。
そういう意味で、町の歴史の主役は、他所から来る歴女さんではなく、そこに住む人々でしょう。歴史で町おこしするなら、自分の町にいる歴女さんたちに、他所で消費してくるだけではなく、自分の町に愛着を持ち自分の町を発展させようという気概と能力を持っていただくような取り組みが必要なのではないかと思います。


さて、まったく話は変わりまして。

中国で、現代日本を紹介するムック誌が発刊されたそうです。その名も「知日」。北方婦女児童出版社より。こちらの記事によると、「在日作家の毛丹青を主筆に迎え、編集長以下ほとんどの作り手が、現代の日本文化に関心が深い“80后”世代。“it is Japan”をキャッチコピーに掲げ、中国人の若者が、中国人の目線に立ち、中国人のために作る日本専門誌」 だそうです。

中国も韓国も、歪な歴史認識とは別腹で、若者は日本のサブカルチャーに多大な関心と、ある意味畏敬の念を抱いています。日本のお家芸の技術が中国でコモディティ化されてしまって世界で競争力を奪い、家電や車は中国製品、韓国製品に席巻され、日本製品が世界の中で存在感を失いつつある。それは、経済誌で日々特集されている通りです。明日の日本はどうなるのだろうという不安の中で、日本の文化やアートは、われわれが今後生き残るための重要なソフトウェア産業の一つとなりうるものではないかと思います。

そうした中で、「知日」のような雑誌の発刊は喜ばしいことと思います。
が。
そのサンプルページを見て、目を疑いました。赤いバックグラウンドに、でかでかと。

「歴女」

とある。
そんなもの紹介してくれるな。
そうつい思ってしまったのは、咎められることではありますまい。

中身の記述ですが。「日本女性喜愛追逐偶像的名声」とか、よくわかっていらっしゃる。東京神田小川町の歴史書店では、2006年までは中年男性の顧客ばかりだったのに、今は女性が40%占めているとか。その消費者規模層の大きさが700億円(多分。単位が書かれていない)とか。

歴女もとうとう、日本文化として他国に紹介されるほどになりました。
いっそ中国に歴女ブームを輸出したら、それはそれで楽しいのではないかと思います。三国志マニアの歴女の交流とか、いいんじゃないですか。歴史コンサルタントの方にも、良い市場になるのではないかと思います。投げやり的にそう思いました。


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2011年01月05日

マツノ書店の同方会誌復刻


マツノ書店さんの今年の復刻予定を見て、仰天された方も多いのではないかと思います。
私は畏怖しました。

三・四月:
「維新史料編纂会公演速記録 全三巻」、及び
石橋絢彦著「回天艦長 甲賀源吾傳」

今年中:
「同方会誌 全十巻」

どこまで、幕末明治ファンの懐を寒からしめれば気がお済みになるのだろうと、空恐ろしくなりました。ファン垂涎でありながら、採算を取ろうとは考えてないのではないだろうかと疑ってしまうようなラインアップです。大衆に受ければそれで良しなマスメディアとはベクトルを全く異にし、歴史という学術分野で実質的に貢献する姿勢を貫いておられます。「売れる本に良い本は無い」と、とある教授がおっしゃっていました。自分の本が売れない言い訳だと笑い話にしておられましたが、真実だと思います。その意味で、マツノ書店さんは真に「良い本」を追求しておられると思います。

前二つももちろん、ファンや研究者は喉から手が出るほど欲しいものでしょう。同様の旧幕臣の雑誌である「旧幕府」などは、ある意味メジャーです。様々な文献で引用されているので、その名を目にする機会は多いです。図書館にも県立などの大きな図書館ならお目にかかれます。


しかし、「同方会誌 全十巻」これは、所蔵している図書館を探すだけで一苦労です。東京では千代田区、港区の区立図書館、都立図書館にありますが、多くの場合、禁帯出です。

「同方会誌」は、幕臣の社交会である会の機関紙のような存在かと思います。「同方会要旨」として、明治三十年三月号には以下の通り説明があります。


本会は旧幕臣の子孫を以て組織し、十六年以上の者は業務の如何を問わず入会を許す。現に博士学生軍人官吏実業家操觚者ありて完誉なる一の社交倶楽部なり。本会は交互知徳を研磨し友誼の親密を謀り、兼て吾人の風気を発揚するを目的とす。故に年二回宴を開き、三回茶話会を催し、且、数回報告を発刊して諸君に頒つべし。本会員は在京地方の二種に分かち、会費として在京会員は毎月7銭、地方会員は半箇年分二十四銭を前納せらるべし。但、宴会費用は出生記者より徴敗す。本会は旧幕臣若くは旧幕に特別の縁故ある者は幹事会の決議を以て賛成員とす。但別に会費を要せず。本会は明治二十八年の設立に係り、榎本子爵を会長に推戴し、現今賛成員四十三名、会員殆ど二百名を有す。


要するに、明治28年設立の旧幕臣の子孫の社交クラブとのこと。いかに名声が高くても旧幕臣、あるいは旧幕に「特別の縁故」がなければ仲間には入れない。
なお、設立時の誌名は「同報会報告」であり、後に「同報会誌」と改名されました。ここでは「同方会誌」でまとめて呼びます。

2008年に新書で出版された「幕臣たちの明治維新」で、同方会は「薩長偏重の歴史叙述への反発」「従来の制度・文字・風俗・美術の多くが破壊された、その風潮を作り出した明治政府を暗に批判」「時勢に対してのささやかな抵抗の意思を表明」したとされ、江戸会、旧幕府、旧交会など一連の幕臣の互助会の一つとみなされていました。

一方、そんな後ろ向きな恨みがましい記事は、同方会誌にも旧幕府にも無いように思います。旧幕臣たちの明治・大正社会における成果、江戸時代で後世に伝えるべき文化、幕府の行政で現在においても有用なもの、混乱期・戦中における記録など、現代から見ても史料価値の高い記事が多数収録されています。各記事からは、当時の旧幕臣の方々の素養の高さ、社会的責任感の高さ、そして現在を前を向いて生きていく姿勢の正しさを感じます。同方会誌は、現在になって旧幕臣を負け組扱いするような歴史観への格好の反論材料ではないかと思います。

そうした点を脇に置いても、一つ一つの記事の情報量はすばらしいです。
会員の方が亡くなると、追憶記事ということでその方の小伝が語られます。ちょっとした伝記です。マイナーな方なら武鑑や旗本事典など様々な資料を重ね合わせないと見えてこない経歴が、一括でまとめられていたりします。
幕臣を一人一人丹念に追いたい方には、まさにバイブルと言うべきでしょう。

幕臣研究では右に出る者がないとされる樋口雄彦氏の論文の出典にも、必ずこの「同方会誌」が現れます。
この「同方会誌」に続くとしたら、「江戸会誌」そして現在も続いている「柳営」ぐらいでしょうか。

同方会誌の「異動」欄も、重宝します。会員の転居や入会・脱会・改名、そして死亡について、住所つきで、毎回収録されています。よって、旧幕臣の会員の行方については、これにより判明するものが結構ある。
この件についてはこちらの記事でも紹介させていただきました。

手元にあるものから、記事の項目をピックアップしてみます。年代順なのでカテゴリはバラバラです。また、旧字を現代文字に置き換えています。単に入力に楽だからというのもありますが、検索の引っかかりやすさも意図していたりします。


丸毛利恒氏彰義隊戦争実歴談抄
本山漸氏佛教の所感
故小菅智淵君小傳
幕府軍艦開陽丸の始末
開陽丸に於ける勝安房と榎本和泉守
故沢太郎左衛門氏の略歴
本多静六氏もりそん探検談
氷川翁書生談
佐久間貞一君を悼む
故外山正一君小傳
故沼間守一氏
林(董)公使の清国談
旧幕の仏蘭西語学校
武田成章氏の三浦見聞誌
維新前の大阪城の結構
合衆国政府の遣日使節記録
彼理渡来当時の実歴談
巴里万国博覧会に就て
大鳥圭介翁と写真術
島田三郎 徳川慶喜公
本多晋 維新前後の経歴段
旗本論
石炭の経済に就て
幕府の軍事教育
江原(素六)先生を訪う
欧航徒然草
芥舟木村先生文
加藤(弘之)文学博士蘭学談
軍事郵便物差出方
伊庭想太郎氏の近状
故法学博士田口卯吉君履歴
戊辰上野戦争の日
福地源一郎氏の略伝及逸話
碧血碑の祭典と榎本武揚
日本倶楽部の林董大使招聘会
明治二年俘虜となりし林董子
榎本子爵懐旧の涙
木村駿吉氏の無線電信
戊辰伏見戦争談
蒸気タービンの話 工学博士富永敏磨
幕末の人傑 岩瀬肥後守と水野筑後守
略譜 赤松則良、赤松喬二、天野可春
故松本順男の寛量
伊庭想太郎氏逝
在監中の伊庭氏
如楓家訓 男爵大鳥圭介
戊辰伏見戦争談に就て
豆州途上懐故江川坦庵
大鳥如楓男の別墅(別荘)
噫会長榎本子爵薨
榎本子爵令姉の逝去
昔を偲ぶ彰義会
井伊直弼の銅像に就て
前将軍の御幼時
島田三郎氏と東京毎日新聞
故外山博士記念講演会
妻木式コルバルワニス
松平太郎逝
故榎本子追弔建碑式
三好博士祝賀会
渋沢男退隠
荒井郁之助翁述懐
故榎本子爵一周忌
中島三郎助君肖像及筆跡
傑士中島三郎助君
中島三郎助君招魂碑
故榎本子爵銅像
箱館戦争の軍資
荒井郁之助君墓碑銘
「大鳥圭介傳」成る
沼津兵学校沿革
故榎本子爵の談話に就いて



…という感じで。これでまだ半分に及んでいません。

抽出が戊辰・箱館戦争関係者に偏っているのは私の趣味だからですが。他の幕臣の方々も、もちろん多く語られています。
榎本さんは特に会長だけあって、事あるごとに記事に出てきます。ファンの方は必見だと思います。

一次史料とされる記録も多く、後に別の形で復刻されているものも多々あります。同方会誌から旧幕府に転載された記事も結構みられます。根拠を同方会誌に拠れば、ひとまず信頼性は担保されるでしょう。一方、小さな記事などはこの同方会誌でしか確認されないものも多いです。会員の方の詩文や異動記録などもそれです。また、復刻の過程でそぎ落とされてしまった貴重な記録も多々あります。大鳥圭介獄中日記の登場人物のその後を注釈として記した丸毛利恒補注などは、その最たるものでしょう。丸毛のおかげで明治の動向が判った箱館戦争参加幕臣も多いです。そして、こちらに修められていなかったら、中盤以降の獄中日記そのものも現在日の目を見ることはなかったでしょう。
この雑誌自体が、歴史の証人と言えるかもしれません。

その同方会誌を全十冊、復刻に踏み切ってくださった。西の地を拝む思いです。

同方会誌復刻予告の御葉書には、マツノ節が炸裂されていました。

「稀覯本の復刻を始めて三十七年。ついにオンリーワンかと見渡せば、周りには猫の子一匹おらず、さてはロンリーワン?」

もはや、偉大すぎるお背中に、とても後続する者が現れられないのではないかと思います。


ラベル:同方会誌
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2011年01月04日

新年銭湯


新年の吉祥をお慶び申し上げます。
皆様とご家族の方々の、御多福をお祈り申し上げます。
今年も何卒よろしくお願いいたします。


年賀状を書こうとし、語彙がないお粗末な頭ゆえに、適当に気の利いた文言を拝借しようと書簡集を眺め、そのまま1日過ごしてしまう。それが近年の行動パターンとなっています。

後年の手間を省くため、もとい、そのうち使わせていただこうと思っているのは、以下の通り。すでに用いたものもありますが。


奉恭賀候
御多福奉恐賀候
清祥恭賀
新年拝賀
新年之吉祥 千里同風
新春之吉慶申納候
貴家皆々御無異御加寿之由、恭賀
御多祥芽出度存候
恭賀新正
新禧
敬賀新正


近年では、「あけましておめでとうございます」「年賀」「賀正」「謹賀新年」などが定型化しています。けれどもこうして並べてみると、新年の慶び方にも無数のバリエーションがあったことが伺えます。大鳥さん一人でもこれだけの言葉を使い分けている。なお、「恭賀」は新年のみならず、おめでたいことがあれば通年通して用いられていたようです。

こうしたおめでたい文言は、主に家族の間、知人の間に用いられているものにみられました。一方で、一月一日から、賀の一言も無くいきなり仕事の話に突入し、問題に終始して対応を迫っている書簡もありました。こちとら新年祝っている閑なんざねぇ、と言わんばかりです。現在のビジネスメールでも、今年もよろしくお願い申し上げます、ぐらいは定型文句で入れますのに。手前の如きぐうたら現代人とは気迫が異なりました。

そんな明治人のご苦労を他所に、手前は正月、徹夜で年賀状を書いて、明けて銭湯朝風呂の柚子の湯に漬かり、熱い黒湯を堪能してきました。極楽。おなじみになった御姉さんたちにも裸で新年のご挨拶です。日本ってなんて素晴らしいのだろう。

最近は銭湯でもエコを標榜し、二酸化炭素排出量の少なさを表すポスターをみかけるようになりました。「あなたが銭湯に来ると、地球はちょっとうれしい」そうです。環境大好き日本人の心を擽る、なかなかの名文句です。自宅でのシャワーより、銭湯に行くほうが個人の二酸化炭素排出量は低いらしい。確かに、一人一人で約180Lの湯を張り替えるよりも大勢ででっかい風呂をシェアしたほうが湯の量は少なくてすむ。そして、流しっぱなしのシャワーより、カランで洗面器にその都度汲む湯の使い方のほうが使用量は少ない。また、家庭用の温水器より、大量に焚ける風呂屋の業務用ボイラーのほうが効率も良い。

数値的にどれ程のものかと思って、試算してみました。
一人入浴一回あたりのCO2排出量。




家庭用では一人当たりの風呂一回当たり2.36kgのCO2排出。一方、銭湯では0.57kg-CO2。つまり、家庭では銭湯の4倍、二酸化炭素を排出していることになります。

もちろん、前提条件によります。上は結構乱暴な想定を行っています。4人が1回の風呂を共有すれば家庭用はもっと少なくなります。一方、時間がたてば風呂は冷めますので、追い炊き無しで入れる人数は限界があるでしょう。ひとまず上では平均2人としました。

家庭用でも温水器効率が0.95というエコキュートなどもありますが、電気はもともと効率が悪いエネルギーです。それにCO2排出については、電気は発電の燃料として何を用いるかに大きく拠る。東京電力は原発の割合が高いので、排出係数はやや低く0.42kg-CO2/kWhぐらいですが、火力発電の割合が高い沖縄電力は0.9kg-CO2/kWhを超えていたりする。この場合、一人当たり排出量は二倍以上になる。

一方、銭湯は、入る人数にも大きく拠る。客が来なくても使うエネルギーさほど変わらないので、集客数の少ない銭湯は排出量は大きいでしょう。また、燃料にも寄る。単に手前がよく行く銭湯はガス焚きだったので上ではLNGで試算しましたが。薪を使用した銭湯もある。墨田区の泉湯や世田谷区の代沢湯、大田区の宝湯など。意外な銭湯が建築廃材を燃やす薪ボイラーを使用していたりします(銭湯に廃材を売ると、有価物扱いとなって、廃棄物の処理コストがかからない)。そうすると、排出係数はほぼゼロで、したがって排出量もほぼゼロになります。逆に重油焚きボイラーなどではもう少し排出量は多いでしょう。

あと銭湯は自前の井戸を持っていることが多い。浄水場からの水のポンプアップにかけるエネルギーを考えれば、その点でも銭湯のエネルギー消費量は少ないはず。

ということで、上表の値は想定条件によって思いっきり異なりうることも付記させてください。

いずれにしても、一家に風呂は最低限の標準装備で、賃貸でも風呂が無いなど考えられない、という方も多いです。しかし、エコとかロハスとかいう、それを口にしたらなんとなく善人になった気がする安易な言葉は好きなのに、自分の便利と快適は手放したくない方も多い。そういう方々にこそ、銭湯をお進めしたいです。

なお、「平成20年環境白書・循環型社会白書」によると、日本の一般家庭で消費されるエネルギーの内、給湯用31.2%、冷暖房用25.9%とのことです。4回に1回を銭湯にすれば、一っ風呂あたりの排出量は約8割になります。これに給湯の割合をかければ、排出量は6%の削減になります。つまり、4回に1回を銭湯にするだけで、京都議定書の目標マイナス6%が、家庭レベルでは達成されます。全部を銭湯に切り替えれば、24%の削減になります。少なくともエコバッグなどよりは余程寄与することでしょう。

というわけで、週に1度ぐらいは、銭湯などいかがでしょうか。家族の絆も深まりますし、集団生活の衛生観念や社会性も学べます。カップルで神田川ごっこなんぞも乙なものでしょう。そして孤独な独り暮らしの方こそ、銭湯でのご近所様との肌のふれあいは、体だけではなく心も温まるものです。そして、風呂上りの火照った体で、夜空を見上げながら食すアイスや飲むビールは最高です。

悲しいことに、近頃廃止される銭湯の話もよく聞きます。銭湯文化ももっと見直しされたら良いと思います。

銭湯も生き残りのために切磋琢磨しておられます。東京ローカルで申し訳ないですが、自分のお勧めは、台東区の寿湯です。露天風呂やサウナ、インターネットなど設備面もさることながら、風呂場にラミ加工のご主人エッセイを毎月掲載したり、シャンプー・化粧水やドライヤーが無料だったり駄菓子が売られていたりする、飽く無きサービスの向上が、素晴らしい。ミストサウナがある墨田区押上のさくら湯、湯質が絶品で森林浴もできる向島の寺島浴場もよく足を運びます。
東京都浴場組合に、都内の全組合銭湯が掲載されています。銭湯めぐりも趣味として良いものと思います。

どうでもいいのですが、これまで熟成してきた辞書が、「銭湯」を必ず「戦闘」と変換してくれます。戦闘のススメとか、戦闘最高とか。どこのサイヤ人ですかという感じです。一方、銭湯ではよく隣国の方が垢すりをしています。その垢が他人にとっては不快なものであるという意識があまりない方が多い模様。しかも彼らはなぜか上流(排水溝より遠い席)が好き。よって垢が大量に下流のこちらに流されてくる。一言何か言いたくなります。ちなみに、垢すりは、肌のバリアである角質をこそぎ取り、肌理を破壊して肌の老化を早めたり、炎症状態になって黒ずみ・色素沈着の原因になったりする。肌にとって良くない行為であるという認識が、現在美容医学の常識であるそうです。今度垢すりを見かけたら、論じてみようか。しかしそうすると多分かの国の方の文化行為について物申すことになり、口論、そして戦闘になりそう。ぬぅ、風呂でまで戦いたくはない。平和と健康と美容のためにも、垢すり禁止の銭湯が出現してほしいものです。

なお、いい気分で茹だったまま道路横断し、車に撥ねられて腰と肋骨を折り、その記憶がないまま入院した馬鹿者も昨年おりました。銭湯からお帰りの交通にはどうかお気をつけ下さい。

えぇと今年一年、怪我病気で人様にご迷惑おかけすることの無いよう、肝に銘じて慎重に生きたいと思います。今年の抱負は、もうこれだけ。


ラベル:銭湯
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2010年12月12日

ヤンゴンとネピド


ミャンマーに来ています。ヤンゴンから新首都Nay Phy Daw ネピドに行ってました。

ミャンマーは約7年ぶり。初めて仕事で出張した国で思い入れがあるというのもありますが、とてもいい国です。人は素朴で親切で真面目で信心深い。仏教を軸にローカル社会はゆったり住み良く動いている。マスコミで見るのと全く違う姿に、一度来るとミャンマーにはまってしまう方は多いです。ラオスやミャンマーを気に入ってしまい、採算度外視で仕事をしてしまう方、中には私財を擲っても尽くしてしまう技術者もいます。それぞれラオ吉、ミャン吉(キチ=好き)と呼ばれ、ある意味、経営的には問題です。

ミャンマーは、7年たってもほとんど変わっていない印象です。ラオスは伝統スカートのシンを着る人も減り、タイの不良のような格好の人も増えたりしましたが。ヤンゴンは男女皆ロンジー(巻きスカート)のままで、街中も素朴な風情です。

一方、首都ネピドは、軍事政権が遷都した、外国人は入れない政治的首都です。そういう偏見から、監獄のような場所を想像していました。

これが、あにはからんや。
道路は片側三〜五車線の道路で広々と大陸的な直線仕様。ナイター付きのスタジアムあり、ゴルフコースは4,5箇所もあり、宝石ミュージアムがあり、大きなショッピングモールがあり、高級ホテルが十数も軒を連ね、それらがきらびやかな電飾で覆われている。

あたかも高級リゾート地のようでした。
ヤンゴンの高官や将軍の家でさえ24時間電気は無いというのに、それはどうかと思ってしまうほど、電気もふんだんに使っています。

ヤンゴンからネピドを結ぶ高速道路も建設され、400km程もある距離が、車で4,5時間で到達できます。通常、LDCでこれだけの規模の道路は、援助機関の資金でなければなかなか建設されないのですが。ミャンマーは自国資金で作ってしまった模様です。舗装はアスファルトではなくコンクリート。通常コンクリートのほうが高価ですが。石油は出ず製油所もないので、タールがなくアスファルトは輸入になる。一方、石灰岩はふんだんにあるので、セメントやコンクリートは自国内で製造可能、という理由かと思います。

いずれにせよ、いくら内貨とはいえ、何処にそんなお金があるのかと不思議でした。貧しい人々から搾取して、絢爛な首都を建築した軍事政権、というストーリーを描きたい方は多いかもしれません。自分も国民の負担はどれほどのものかと思いましたが。上で述べたように、民衆の生活は見た感じは相変わらずな感じです。物乞いもいるにはいますが、そんなに増えたという印象ではない。

一方、沿岸部ガス田からの天然ガスの輸出で、かなりの政府収入がある模様です。まだ統計は見ていないのですが、国庫収入は伸びているのでしょう。
モザンビークやアンゴラなどアフリカもそうですが。やはり資源のある国は一度開発が入ると一気にガラリと変わります。中国資本はここも例に漏れず。むしろ日本含む西側が軍事政権を嫌がるアメリカの顔色を伺って投資を遠慮している間に、中国が相当強く入り込んで、綿密に資源確保の網で囲い込んでいる印象です。日本人としては焦りを感じます。

ホテルやリゾート施設は民間投資によるそうです。ミャンマーにもそれだけの資本を担える投資家が増えてきたということでしょう。ヤンゴンの街中にもショッピングセンターやレストラン、スターバックスタイプのコーヒーショップも増えました。車は相変わらず中古車ばかりで、他国のように新車で溢れかえるというほどではないですが。市民の所得は確実に上がっている印象です。外から見ていると軍政で隔絶された国であり、一方で古き良き風情を色濃く残している面もありますが。悠久の国も、確かに周辺国の変化と共にあります。

インターネットは、以前よりは改善されました。なぜかne.jpドメインにアクセスできなかったり、POP3のメールが取れなかったりする。やはり政府の制限はかかっています。co.jpドメインは問題なし。MSNはサイトはOKなのにメールはなぜか駄目だったり。ミャンマーに来る前に、co.jpのフリーメールを取っておけばよかった。以前は11kbpsの電話回線でようやく繋ぎ、テキストメールしか受け取りできなかったりしました。それよりは格段に改善されたとえ言えます。なおも遅いですし、しょっちゅう不通になりますが、ネットカフェか、ホテルにWifiがあれば何とか、という感じです。通じているだけでも素晴らしい。

一方、ミャンマーの電力不足は深刻です。ヤンゴンでも計画停電していて、停電区画がある。そして日常的な停電もしょっちゅう。オフィスでもUPS(無停電電源装置)の音がピーピー鳴り響いています。

電力は、日本が戦後賠償で作ったバルーチャン発電所が、1980年代には国の8割の電力を担っていたということもありました。この発電所のポテンシャルを発見して調査し、ミャンマー政府に開発を進めたのは、政府ではなく、日本の一民間人の技術者、久保田豊氏でした。バルーチャンは川の名前ですが、地名であるロピタの名前でこの発電所を知らない人はいません。

この国の電力開発を担ってきて、今は政府顧問的な立場の爺様は、バルーチャン発電所の計画設計建設を通じて電力事業を学んだと仰っていました。日本人技術者が作ったバルーチャンの設計書や報告書は数十センチの分厚さに及ぶ。それが我々の先生だ、と爺様は仰いました。

我々日本人に対するリップサービスもあると思いますが。発電所そのものだけではなく、日本が作った発電所建設を通じて育った技術者達が、その後の国の開発を担っているという姿は、もう少し知られれば良いなと思います。

この国の方々は、技術に感謝し、それを自分のものとして学び取り込み、次の世代で自分たちで作れるようにする。その姿勢を有しています。技術移転の受け入れ側として理想的といえるでしょう。明治の技術者達の姿を彷彿とさせます。謙虚であり感謝する国ほど、伸びます。その意味で、この国は人のポテンシャルがとても高いです。それが政治的な理由で抑えられていて、それに関与しない中国が跳梁跋扈しているという状況は、やはり残念です。

現在は、中国資本で巨大な水力発電所が何箇所も作られています。最近運転開始したエイワ発電所のおかげで、電力不足も大分軽減されてはいるようです。一方、シュエリという600MW、ちょっとした原子力発電所ぐらいの規模のある大型水力が、中国への輸出のために開発されました。案の定、という感じです。そうした中国資本の水力は、例に漏れず環境影響評価もろくに行われていません。もっと日本には、軍政民主化云々と政治的に無粋なことは言わず、積極的に関わって欲しいと思います。

ミャンマーは、人は真面目だし資源はあるし、日本として開発に関与すれば、リターンも、貨幣換算できない点も、得るところは大変大きいと思います。日本は中国と違い、収奪ではなくミャンマー自体の持続性を考えた開発をしようという姿勢を有しています。少なくともガイドラインではそうなっています。政治的状況が上向いて、日本人もここで仕事しやすくなってくれることを、切に願います。

さて、前回来ていたときは、結婚もできず人生に諦めが付いたら、この国で出家して尼になろうと心に決めていました。今は、それが現実となる可能性が否応が無く増しています。
なので、この国の発展を願いつつ。今のままででいて欲しいという勝手な外国人のノスタルジーも、やはりあったりします。もはや、変わらないことが貴重である世の中です。

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2010年12月06日

ラグーザの大鳥圭介像



桜吹雪ならぬ銀杏吹雪で、青空の下上野の公演は黄金色になっていました。
その上野の東京学芸大学美術館で「明治の彫塑 ラグーザと荻原碌山」が開催されていました。

ラグーザは工部美術学校のお雇い教師ですが、この方が大鳥圭介の石膏胸像を製作していました。ずいぶん前にその像の写真だけが辞書に掲載されていて、本物は何処にあるのか、と喚いたことがあったのですが。

12月5日までの、「ラグーザとその弟子たち」展に、展示されていました。

http://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/2010/ragusa/ragusa_ja.htm

普段は多摩美術大学美術館に所蔵されていて、未公開だったものです。今回始めて、公の形で展示されたのかと思います。

写真撮影は禁止だったので、図録より。


orotri-raguza_small.jpg
ラグーザ作大鳥圭介像。

「目、でか」と思いました。
展示ではガラスケースに入っていました。他の彫像はそのままだったのですが。保存状態があまり良くなかったのか結構痛んでいて、これ以上の破損を避けるためという意味合いが大きいのかと思いました。

広くなったおでこと立派な髭のおかげで、一見威厳があるのですが。よく見ると確かにやっぱり童顔だと思いました。

同じく展示されている山尾庸三と比べても、明らかです。山尾さんは肉の薄い苦労人らしい顔つきです。
工部大学校の生みの父にして工部卿山尾庸三は、石膏像のほか、ブロンズ像もありました。

yamao-sekkou_small.jpg yamao-bronze_small.jpg

三次元はやはり、当たり前ですが、立体感があります。写真や肖像の情報量も多いですが。人物の持つ実在感と迫力がよりいっそう伝わってきました。巨額の資金をつぎ込んでも作りたい残したいと思う方の気持ちが、良く分かりました。

上の写真は解像度を小さくしています。図録はこちらの芸大美術館のショップで通販で販売されています。価格は1500円。詳細をご確認される方は、ご購入いただければと思います。

この図録は素晴らしいです。かなりの入念な調査を元に作成された力作です。ラグーザの略歴のほか、工部美術学校彫刻学科の成り立ち、研究方法、授業のカリキュラム、技術指導方法、石膏像とブロンズ像の作成方法まで。工部美術学校や日本の彫刻史に関心ある方にとっては必携と言って良いと思います。

工部美術学校は「百工の補助」即ち、芸術のためというより、産業技術の補佐的な役割を担う、実学の一つとしての位置づけでした。しかし実際は、純粋な芸術家育成のための美術教育が行われました。これは、外交上フランスより文化的に優位に立って極東のイタリア文化伝播を行うために、来日したイタリア人教師たちがそのような教育方針としたと言われています。

図録中の吉田亮氏の「ラグーザと荻原碌山―彫刻における複製の問題を中心に」によると、ヴィンチェンツォ・ラグーザは、1841年シチリア島パレルモ近郊生まれ、ガリバルディ義勇軍の一員としてイタリア統一戦争に参戦している。その後も国民軍の兵だったが23歳で除隊。その後美術学校で彫刻美術を学んだとの事。元兵士の彫刻家です。明治8年にイタリア政府が日本政府からの要請を受けて絵画と彫刻の教師を派遣することになり、その募集を行った。そこでラグーザが応募して、15人の応募者の中から選出されたとの事。この時34歳。なお、同じく工部美術学校に招聘されたフォンタネージは54歳でした。

上の山尾像のようなブロンズ像は、石膏像を元に鋳造して作成します。展示では、荻原碌山のブロンズ像の「女」をモデルとして、ブロンズ像鋳造方法を詳しく説明していました。そのブロンズ像鋳造は、工部美術学校において日本ではじめてノウハウが伝達されました。「日本の鋳造技術はアダム・イブ時代を去ること遠くない」と最初ラグーザは酷評していたとの事。そして、大熊氏廣がラグーザが自宅に設置した鋳造場で鋳造技術を学んでいます。その後大熊は、その後1881年に留学して鋳造技術を学びなおしています。そして、日本ではじめての大型ブロンズ像として大村益次郎像を作成しました。現在、靖国神社の入り口で鳩と盆踊りのアイドルとなっている、あの平和極まりない像です。

大熊は「人体解剖図筋肉之部」という、骨格図、筋肉の解剖図を描いています。彫刻には解剖学的素養が必須であるということが窺えます。あの人としてありえていいのかと思う大村益次郎像の三次元的な眉毛もまた、解剖学の素養の賜物なのだろうか、という素朴な疑問はさておき。


ラグーザの山尾庸三像を鋳造したのは、同じく工部美術学校生徒の菊池鋳太郎。この方は明治31年10月14日の毎日新聞の記事によると、「白馬会」に大鳥圭介の銅像を出展しているとのこと。図録からは確認されませんが、菊池さんは山尾だけではなく大鳥の像も鋳造した模様です。鋳造された大鳥胸像の銅像。どこにあるのかという疑問が、また増えました。もちろん、上郡町役場に日清時代あたりの大鳥像が全身像にあり、それはそれで素晴らしいのですが。明らかになっていないものがあると思うと、きになります。

さて、クララは日記でラグーザがみちさんの胸像も作ったと書いていました。もしや、名前の確認されない二つある「日本婦人」の像のどれか一つがみちさんだった可能性もあるなと思いました。内ひとつは乳出しで、大鳥さんは多分その像を作るのは許さないようにも思う。もう一つは島田髷で、未婚か花柳界の女性の結い方だから、これも可能性が低い。うーむ。これもまたどこにあるのか。

一つ疑問が解決されると、又一つ謎が生じてくるから、困ったものです。
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2010年11月30日

薄桜鬼と大鳥


久しぶりに検索してみたら、大鳥圭介を含む記事がネット上に溢れかえっていて、何事かと思いました。女性人気の大きいゲームの「薄桜鬼」のアニメに、大鳥が出て来ているようです。嬉しいことです。

TVが家にない野蛮人ゆえアニメは未見なのにあれこれ言うのも気が引けるのですが、大鳥に興味を持ってくださる方が生まれるのは喜ばしいです。

キャラクターとしては「歳三往きてまた」や「北走新選組」などの女性作家・漫画家の描かれた姿に近いようです。その是非は別にして、「燃えよ剣」キャラのように、物語の都合で根拠なしに人物像を貶めたものではないというのは、誠に有り難いことです。福本龍先生や上郡の方々の活躍のおかげで、実在の大鳥圭介を大切にしている人間が世の中にいるという事実も、メディア側のクリエータの方々に認知され始めたのかなと思います。

もちろん、キャラクターと実在の大鳥圭介は別です。
「ちょっ、大鳥って本当にいたのかよ!」と驚かれたお嬢さんのブログなど拝見すると、とても微笑ましく感じます。

一方で、キャラクターとしか捉えられていないと、キャラ評は直感的で率直なだけに、容赦がありません。「何かうざい」とか「影薄いねこの人」などと言われてしまいますと、わかってはいますが、やはりほろりときます。

「薄桜鬼」アニメそのものは、とても出来の良い、ヒット作品として記憶に残るもののように見受けられます。「薄桜鬼」から、大鳥は実際はどんな人だったのだろうかと興味を持ってくださる方もいるようでした。中には「われ徒死せず」や「南柯紀行」を手にとって下さった方もいたようです。これは誠にありがたい限り。存分に生身の大鳥さんの魅力に浸って下さればと思います。

さて、アニメを楽しまれている方に対して、史実云々をのたまうのは、無粋極まりありません。それに、あまりやかましいことを行ってしまって、ファンの方に威圧感を与えてしまって、「大鳥マニアは怖い」という印象を与えるのは、全く好ましいことではありません。

作品のキャラクター像は、良いと思います。脇役として魅力あるキャラに描いて下さっていると思います。
ただ、いくつか感想を拝見してしまうと、アニメの姿と実物は違う、というか、「実物はもっと良いですよ!」と言ってしまいたい気持ちは、やはり沸き立ってしまいます。

しかし、実物そのままを描いてしまうと、大鳥が魅力的過ぎて、主役を食ってしまうことになると思います。自信を持ってそう思います。かわいそうな人を見る目で見られても、それこそ我が意なり。

実物の魅力を知られずにいるのは、やはり勿体無い。
アニメの是非を云々する気も、まして否定する気も、全くありません。ただ、実は実物はもっとこんなに味のある人だったのですよー、と言ってみたいがために、以下、まとめます。

○ 和魂洋才の人

「シェイクハンド」「ハンケチーフ」など、大鳥さんには舶来かぶれのイメージが付き物のようです。一方、実物の大鳥さんは、精神も技術も、とても和を大切にする人です。これは榎本総裁も同じ。

大鳥さんは、一般人に理解のない、不要なカタカナ外来語は用いません。日本人に理解してもらえる翻訳語に、大変苦労した人です。

南柯紀行でも、新人物往来社で同じく収録されている今井信郎の記録と比べると、カタカナ回数の少なさはすぐに感じられるのではないかと思います。武器の名前ですら、「元込銃」「先込銃」です。せいぜい人名と、ブリッキトゥースが1回出てきたぐらいですか。代表的な訳書の「築城典刑」を見ても、他の洋学者のように安易にカタカナを使っていません。「砦柵」「鹿柴」「狼穿」「水柵」「拒馬」「編柴」など、日本人に一目で理解されるよう、涙ぐましいほど訳語の苦労の跡が偲ばれます。これらは定着しなかったですが、「地雷」「覆道」など現代でも用いられる用語も見えます。だからこそ、敵味方の諸藩がこぞって大鳥の訳本をテキストにして戦争したのでしょう。

明治8年7月の工学寮(後工部大学校)の生徒謁見の際は、「いくら西洋の工業を習得しても自分の生まれた日本の事情をよく知らなければ現業はできない、わが国の事を怠らず勉励するように」と述べました。明治17年に特許制度を論じた際は、大鳥さんは「日本が外国に対抗して独自に持つ技術をこそ守る必要がある」と説きました。(万年会「本邦諸芸術の秘伝は容易に他人に洩すべからざる説」)

なお、「美術」もfine arts からの大鳥さんによる訳語です。地球儀用語も大鳥さんが作ったものが多いそうです。一般人にわかりやすい文書を、という適塾の洪庵先生の教えを生涯実践しています。

一方、吉田清成や伊藤博文への書簡など、相手も英語を知っているということを判った前提で、手紙で用いることはあります。カタカナを使うにも、TPOを弁えています。

あれだけ外国人と付き合いながら、大鳥さんは鹿鳴館に出入りした形跡もありません。一方で、クララの家でおかめ踊りを披露してました。それもどうかと思いますが。

様々な国を見て学び、視野を広くした人ほど、安易な舶来礼賛を避けます。真の国際人ほど、自国の良さを見出し、大切にします。

○ 嗜好・服装

嗜好も大鳥さんは和の人です。囲碁、謡曲を嗜み、和歌・漢詩が巧み。古書画を愛し、何百も書画を残しています。酒も、開陽に積んだワインはスルーでも、日光や会津の農家からもらった握り飯やどぶろくについては感動して事細かに日記に記した人です。
洋物でも、一般装飾品には大して関心は示さない。美的感覚も、「武士はいかん、船乗りの筋肉が実用的で最高」と、真面目に論じる人です。一方で実用品、写真機や望遠鏡は欲しがったり自慢したりしてそうですが。

なお、服装は、羅紗の黒又は紺の士官軍服だったと思われます。箱館では緋色の陣羽織を着ていたことが確認されます。(北関東〜会津で陣羽織を着ていたかどうかは不明)。コートやスカーフをひらひらさせながら、あの六方沢餓鬼道行軍や、磐梯山中で泥濘の中強行行軍を突破したと思うと、それはそれで萌えますが。藪の中で半日流離うと、スカーフはいつの間にか消え去ってしまうでしょう。勿体無い。


○ 戦い

以下、多くは大鳥の軍中記録である「南柯紀行」に拠ります。

・ 市川〜宇都宮〜日光

当時の新選組はそんなにネームバリューはなかったようです。大鳥は関東では独立した隊として新選組を記していないので、大鳥とっては独立した隊としての認識ではなかったか、知らなかったのではないかと思います。

まず、宇都宮の前に小山・武井村の三連戦を戦い、大鳥らは快勝。これは装備も兵力も経験も幕軍が優勢だった。一方、宇都宮を秋月・土方ら前軍が攻めた時戦った官軍側は、この三連戦でボロボロになった敗軍。しかも宇都宮は守りにくい城で、藩は一揆で疲弊し切っていた。攻め落としは容易だった。ただ、そもそも大鳥の目的地は日光だったので、前軍が宇都宮を落城させたのに驚いた。そして問題は攻めた後、守る方だった。総督府から薩摩・土佐など歴戦の主力が派遣されてきた。

宇都宮攻防では、朝から夕方まで戦ったのは大鳥で、殿まで率いた。町田老之丞は「只勇気不撓不屈は、大鳥圭介殿一人なり」と語った。なお土方は正午ごろに離脱。官軍薩摩の野津道貫「大鳥は実に戦上手だ。我々は負けても恥でない。なぜならば大鳥の反訳書で錬兵のことを習ったのだから、向こうはお師匠さんだもの」(「西郷隆盛詳伝」)と人に語った。のちにこの野津が、太ももに銃弾二つ穴を穿たれたことを後の日清の際に大鳥に文句を言ったが、大鳥は「気味の良いことよ」と言って笑って返したそうな。(野津元帥の面影)

大鳥の参謀は、土方ではなく、会津の柿沢。「士を愛すること赤子のごとく、死生ともに一なるべきを期する」とまで大鳥は柿沢を信頼した。宇都宮で柿沢は重傷。日光で、幕軍のこれからを思い苦悩の極みにあった時に、死に別れる。

日光は徳川の菩提寺で、いわば幕軍の心のよりどころだった。その日光の僧侶から篭城を拒否され、出て行けと言われる。これは堅牢な日光に篭られると困る土佐の板垣退助の企みもあった。大鳥は悩んだ末、会津の傭兵となり会津へ行く道を選ぶ。日光は今世界遺産で、板垣は日光の恩人と言われているが、これは実際、日光を戦火に晒さない決断をした大鳥の行動があって故のこと。

そして、敵を避けて会津入りするために、大鳥と幕軍は六方沢の険を越える。これが現在、自殺の名所ともなっている絶景の難所。食料もないまま、不安の極みで雨と泥濘の中歩き通し。餓鬼道とまで記された。飢餓と疲弊と極地で、泥の中で谷底で、闇の中絶望の思いで夜を明かす。そして、夜が明け、朝日の中の野州花の美しさに思わず詩を詠む人。さらにこの後、卵二個を兵からもらって、感動する大鳥総督。南柯紀行中、屈指の名文です。

なお、足指を負傷した土方は、直接会津に搬送されていたので、六方沢は経ていない。

・ 日光口、会津

土方が東山温泉で療養している間も、大鳥は、日光口を守り続ける。今市第一次、第二次戦では、土佐の板垣に敗れた。意思決定を、兵糧を提供していた会津にあったからで「後世、みだりに拙策と言うなかれ!」と伝習隊浅田は大鳥を激しく弁護している。その後、藤原の戦いでは300の寡兵で800の佐賀・宇都宮の官軍を撃退。日光口は難攻不落という恐怖を官軍に植え付けて、そこを2ヶ月以上守り抜く。なお、滞陣中、藤原は辺鄙もいいところで、女はおらず食事は粗末で、兵の不満が大きくなだめるのに大鳥は苦労。米味噌もろくに手に入らず、部下の浅田は蛇蛙を食っていたと記していたりする。あまりの待遇の悪さに、凌霜隊の兵から、あいつは敵と通じているのではないかと疑われた総督。苦労は重なる一方。

その後、会津から要請されて、母成峠へ向かう。農兵をかき集め800の兵で2000の官軍を守ることに。しかしその直前、大鳥を通さずに虎の子の伝習隊が勝手に山入村へ派遣されていた。山入村では、仙台・会津・旧幕の三部隊で戦ったが、会津・仙台は伝習隊を見捨ててさっさと退却してしまう。残った伝習隊が殿で包囲されて戦う羽目に。結果、伝習隊から三十九名もの死者を出した(これを星亮一氏は「会津藩三十数名が犠牲になった」と「会津落城」に記していましたが…)。 大鳥を補佐してきた浅田君は肘を打ち抜かれ重傷、右腕たる本多は、山中を流離って深夜にようやく帰陣できた羽目に。部下の無事を見て大鳥は泣く。会津・仙台の兵はもはや頼みにならないと、伝習兵の不信と不満は大爆発。

その、士気は崩壊、弾薬消耗、疲弊極まりない最悪の状況で迎えた、母成峠の戦いだった。
大鳥は、ここが敗れると会津が終わりになってしまうのだと、なんとか兵をなだめた。当時では斬新な縦深防御を編み出して、三線の陣地構築をして、考え抜いて最善を尽くした。それで実戦中、味方の会津藩兵がまたもや撤退してしまい、しかも勝手に陣地に火をつけてしまう。後方が大混乱。敵の大砲大量投入はまた的確で、陣が崩壊してしまった。この砲兵を率いたのは薩摩の大山弥助、大鳥の教え子。伝習隊はまたもや置き去りで、散り散りになりながら離脱。
大鳥はといえば、最後まで陣地で、直接弾丸を雨あられと降り注ぐ中にいる羽目になった。ここで死んでももはや甲斐はないと、会津の北原雅長らと話してようやく命からがら脱出した。
土方はこの戦いで何をしていたのか、実際参戦したのかかすら、記録が見当たらない。

母成峠の敗戦後、北の檜原・磐梯の道なき原野を、時に1日40km以上流離った。川に落ち、足を挫き「苦楚百端至らざるなし」という思いで、敗残兵を纏め上げた。はぐれた伝習隊と檜原で再会できたた。大鳥は兵から死んだと思われて、出会えて夢のようだと、兵と一緒に男泣きに泣いている。その喜びを伝習隊の大川も浅田も記録している。大鳥は兵が死んでも泣きはしないが、兵が生きて帰ってきたらその手をとって号泣する男だ。

その後、土方は配下の兵を大鳥に預けて庄内に援軍を呼びにいった。一方大鳥は、若松城攻防の最中も遊撃として城を援護し戦い続けた。西会津の木曾や小田村、泥浮方面の山中まで出向いて、少ない兵数・武器弾薬に悩まされながら新政府を牽制。古屋作久左衛門・今井信郎の衝鋒隊とも合流。もはや光明の無い泥沼の戦いだった。「万山千峰愁色を帯び、弾薬なく食料なく」の筆は、重厚な森羅の中、悲惨すぎて泣ける。

そして、背後の米沢が変心して官軍に降伏。このままでは退路を絶たれて全滅してしまう。ここに至って大鳥はようやく、犬死にするよりは仙台に行くしかないと、会津を離れる決断した。そして、仙台へ強行軍。ズボンが凍る寒さの中、暗夜険路、山を越え川を渡り、瀕死の思いで福島、仙台へたどり着いた。榎本と再会したときは、もはやボロボロ、ようやく生きた心地だった。

大鳥は、さっさと会津を捨てて兵を仙台に向かわせたのでは、決してない。

南柯紀行のここの記述を読むと幕軍の誰よりも会津を守ろうとしたのは大鳥ではないかと思います。あれだけ会津のコロコロ変わる藩論に泣かされ、我が子のような伝習隊を二度も置き去りにされ逃げられて大打撃を食らわされておきながらにも関わらず、です。
おそらく、参謀の柿沢や日光口で連携した山川大蔵ら、会津藩士との心の交流も大きかったのでしょう。
仙台に入った後も大鳥は会津が気になって、松島の絶景を前に詩も作れずにいました。

その大鳥を裏切り者や臆病者呼ばわりする作家もいますが、その神経は全く理解できません。

なお、土方のほうは、庄内の援軍を諦めて早々に仙台入りしていました。

・ 箱館

榎本海軍に合流して、蝦夷地を目指す。まず鷲ノ木に上陸して、大鳥・土方の二手に分かれて、風雪の中行軍して五稜郭へ向かう。土方の率いた川汲方面は出会い頭の打ち合いがあった程度。大鳥の率いた峠下方面は、膝まで埋まる雪の中の激戦だった。
五稜郭無血開城後、大鳥は五稜郭滞在。一方、松平・土方らが、松前城、江差を攻め落とす。これは敵の松前藩兵は旧装備で、士気も粗末な上、何より味方のほうは海軍の援護有りで、全く難しい戦ではなかった。

一方、榎本海軍希望の星の開陽丸が座礁で、海軍力は著しく低下。徳川による蝦夷地開拓の嘆願も新政府に受け入れらず。榎本軍は賊軍となり討伐対象となった。冬が過ぎて春が来て、箱館側は官軍と絶望的な戦いに突入。2月に宮古湾襲撃、甲鉄艦奪取の計画。この策定に当たっていたのは、フランス士官・下士官と荒井・甲賀。土方は計画では名前は出てこず、参加者の一員だった。「海軍奉行」が反対したとニコールが記録しているが、荒井は計画参画者なので、多分この反対者はそれまで陣地視察に出て1ヶ月以上留守だったのことではないかと。そしてブリュネにとりなされた。

なお大鳥は年明けから宮古湾直前まで、極寒氷雪の中、箱館〜松前の山中と海岸線の踏査をして陣地構築を考えていた。吹雪の中、馬が氷を踏み抜いて動けなくなり、馬を担ぎ、フランス人が凍傷でギブアップする中でも、調査を続けた。どこまでレンジャー魂なのだろう。この間、土方はずっと箱館の街中。

ちなみにこの人の健脚は、開拓使時代の幌内・層雲峡探査や、内務省の信越羽石油探査にまで後々発揮されます。お付きの人はたまったものではない。大鳥さんはインドア以上にすさまじいアウトドア人間です。南極でも愚痴りながら生きていけるでしょうこの人。


4月になって官軍が江刺・松前を落とす。箱館への道筋は、峠道の二股、海岸線の木古内・矢不来の二通り。土方隊は峠の二股、大鳥以下は海岸線を守る。

ここで司馬遼太郎が土方の二股防衛の活躍を華々しく英雄的に描き上げた。大鳥の海岸線は破れ、だらしなく負けた大鳥のせいで土方はやむなく二股を手放した、という書き方をした。これを後の作家がみな追従し、土方を賛美した。

実際は二股は、天嶮で防衛は容易な上、工兵隊の吉沢勇四郎が陣地を固めた。そして大鳥の両腕とも言える歴戦の伝習隊の大川と滝川、衝鋒隊の今井伸郎を、二股に投入した。司馬が描いた土方の活躍は、実は今井が描いた大川の姿だったりする。土方は「士卒の心を得た」と大野右仲は「函館戦記」に述べ、石井勇次郎も土方をほめていて、確かに新選組からは人望があったが、直接土方が前線に出て直接戦っていた記録は見られない。今井は記録で淡々と「土方歳三等を擁護して退却」とだけ記したのみ。大川に至っては名前を挙げただけだった。

大変だったのは、海岸線のほう。制海権を失った箱館。敵は艦砲。大鳥は、四月中旬の木古内第一次戦で、地形を三次元的に把握し、遮蔽を利用した臨機応変なゲリラ戦法と挟撃で、官軍をいったん撃退している。しかし、4月29日の茂辺地・木古内戦で甲鉄・春日艦などから、艦砲射撃が降り注ぎ、阿鼻叫喚の地獄だった。しかも、圧倒的兵力差の陸軍挟撃の三面攻撃を喰らう。大鳥は、降り注ぐ屍山血河の戦陣の只中で、せめて被害を減じるために、自ら馬で足で駆け、刀を振って撤退を指揮した。大鳥は、奮って玉砕しようとする自軍を撤退させ、防御に適した場所に固めさせるために、口を尽くして諸隊長を説諭している。七十名の死傷者を出したが、大鳥が指揮官でなければ、戦死者の数はいったいどうなっていたことか。
大鳥をふがいないと罵る作家やライターもいますが。一度艦砲の雨の中に自分で立ってみると良いと思います。

ちなみに、この艦砲には、大鳥の設計した大砲があったりもする。後年、遊就館に展示されているのを大鳥が見た由。洋学者時代に薩摩の下請け仕事を沢山請けていた。優秀な仕事の結果が、最悪の形で自分に返ってきた。

その後、何とか箱館に兵をまとめる。五月に入って連夜三連戦の夜襲。風雪と泥の中でゲリラ戦だったが、三戦目は榎本も出陣して大規模な戦闘になり、百名の死者を出した。大鳥と伝習隊は皆勤。土方はなぜかこの夜襲連戦に一度も名前は見当たらない。

五月十一日の箱館決戦。大鳥は、夜明け前から箱館の北側の桔梗野―大野―七重浜防衛ラインを走り回る。日が暮れ暗くなるまでひたずら戦場に居た。炎烟天に漲り、山海の色も変わる砲撃戦。隣で大川の馬が撃たれ、隊長も続々死傷する。大鳥も弾丸飛び交う最前線にいて、陣羽織に弾痕が空いた。弾丸が顔を掠めて耳がジーンとしびれた。しかし本人無事。「総督危険です、危険ですから下りなさい」と部下に叱られる。「死生の境」より「『ナーニ、おれに銃丸が命中るものか、銃丸の方が避けて行くぞッ』と大気焔を吐いて、尚も指揮しつつあると、部下の者は我輩の前に立ち塞がつて、銃丸避けになってくれる。それを突きのけて前に踏出すと、また立塞がる」 部下に庇われては、弾雨の前に出ようとする大鳥。部下もたまったものじゃない。

一方、官軍参謀、黒田清隆が、箱館南側の寒川から箱館山を陥落させ、箱館市街へ突入する。大鳥はこの箱館山からの攻撃を予期していて、兵を配備させていた。しかし霧で兵が敵を見逃し、気づいた時には山中に攻め入られていた。(大鳥は「番兵怠慢」と記したが、この「番兵」が新選組だと今井が暴露してた。大鳥は伏せたのに)

この段階になって、ようやく土方が五稜郭から箱館市街へ。その最中に流弾に当たり戦死。夜襲もそうだが、大鳥が自ら夜明け前から走り回っていたのに、土方はそれまで何をしていたのか、よくわからない。

土方はあれだけ評価されている割に、その根拠になる資料が見つからなくて、とても困ります。
「記録が見つからない」とのたまっているのは、もちろん私が知らない、見つけられないのに過ぎないの話でして、ずっと探しています。世には数多の史料があり、崩し字で眠っているものも多いでしょう。私ごときが手にし読み解けるものなど、ほんの一部です。上の疑問について、ご存知の方はどうかご教示下さいますよう、伏してお願いしたいです。また、反証や認識違いについてどうかご指摘下さい。

もしかして土方さんは大鳥さんをあまり敬ってなかったのかと思ってしまうような言動も無きにしも非ずで、辛いところです。

土方ら前軍の宇都宮攻めの際も放火にも、中後軍の大鳥に連絡がなかった。その際の略奪放火は放置されて火消しもされておらず、大鳥さんが自ら鎮火と慰撫に走り回っていた。本宮の土方らは、官軍不在のところを放火しただけとしか記録(復古記)では伺えないが、大鳥側に届いたのは戦勝という報だった(北戦日誌)。なお、大鳥は放火嫌いで、いつも戒めていた。母成峠では新選組の配置が妙だった。母成の後、庄内の援兵不備の際も土方から大鳥へは連絡は無かった。五稜郭攻めの時は約束していた狼煙を土方が上げてくれなくて大鳥さんは心配した。二股からも、海岸との連携のための連絡が土方からなくて榎本さんまで怒らせてしまった。

情報伝達は軍隊のみならず組織行動の基本です。ただ、近代戦初期で情報という言葉も成立してなかった時期ですし、これまで副長として連絡を受けるほうの立場だった土方なら仕方ないのかもしれません。ただ、これだけおろそかにされてしまったら、大鳥としては嫌われてたと思ってしまうところかもしれれない。大鳥を評価しないならそこまでの人だと思いますし、天然で連絡を失念したのだったらそれはそれで問題だし。苦しいところです。私も土方には優秀であってほしいですし、大鳥と土方は仲が良かったとするほうが嬉しいので、何か良い解釈は無いものかと悩んでいます。

前軍隊長の秋月の部下石黒は、土方を「夙に英明あり」にもかかわらず、秋月と争わず秋月をよく立てたため「一個の人傑」と高く評価しています。人間関係においては優秀な人ではあったと思います。だからいっそう、大鳥に対する上の点に首を傾げてしまう。

そして、大鳥のほうは土方を高くも低くも直接は評していません。土方の死に関して晩年「驍将として会津以来我輩と共に幾度か死生の間に出入した彼の土方歳三は遂に戦死を遂げた」(老雄懐旧談)と述べたので、少なくとも戦友としての連帯感はあったと思います。一方、「会津以来」ということは、市川や宇都宮の土方は大鳥の印象に残っていなかったのかという見方もできてしまって、あまりフォローにならない感じです。

○ 降伏まで

5月11日の土方死後も、大鳥は戦い続けた。12日〜15日、篭城戦指揮。古屋が砲撃で重傷、伊庭・春日、服毒死。貝塚道次郎らは自分の仕掛けた地雷で死傷。大鳥はその中で砲撃を指揮し戦った。そして、15日、中島親子が守る千代ヶ岱に突入。翌未明に大鳥は足を負傷した滝川と共に千代ヶ岱の包囲を突破し、中島親子の死に悲憤慷慨しながら、兵を引き剥がす思いで撤退させた。

16日も、榎本総裁には降伏する意思は全く無かった。土方が死んだら戦意喪失で終わり、という書き方をするフィクション多いが、そうではない。
降伏の勧告が官軍からあり、ここでようやく降伏議論となるが、榎本はじめだれも降伏しよう言う者は、幹部にはいなかった。みな「城を枕に討死にするの外はない、幕末の最後を汚す不忠不義の者になどなれぬ」と頑として降伏を拒む姿勢だった。(老雄懐旧談)
大鳥はこの会議の時、昼夜無い連戦で疲弊し、一室の押入れに閉じこもって前後不覚に熟睡していた。そして士官が探しに来て叩き起こされ連れてこられた。仕方なく目を擦りながら会議に出た。そして「士卒を殺すは極めて無意味、薩長ではなく朝廷の大命に従うのだ」と言って議論を降伏論にまとめた。(「ここは一つ降伏と洒落込もう」の言葉は有名だが、後世に作られた逸話ではないかと思う。大鳥や箱館戦参加者の言に、この言葉は見つからない)。 その夜、榎本が切腹しようとして、騒ぎで、大鳥はまた起された。その後、心配になって榎本の部屋を覗いてみると、榎本は高イビキかいてぐっすりと寝ていた。

さて、降伏先の敵将の一人もまた、江川塾時代の大鳥の教え子で「ゴロゴロしていた」という黒田清隆。その黒田が箱館山を落として官軍勝利をもたらした。黒田は、榎本・松平と行っていた降伏談義に大鳥も呼び出した。大鳥は衆の助命を乞う代わりに、首を差し出した。
その流れは、もはや文学的ですらあります。谷崎潤一郎的に。

その後、放り込まれた江戸城の牢獄は、自分が設計して作らせたものだったから、笑うしかない。
何故に、この人の人生は、ここまでオチにまみれているのか。関西人にもほどがある。


大鳥の戊辰戦争のまとめについては、資料引用含めてこちらでも書いてしまってますが。
総括すると、大鳥さんは、最終的に三十余の戦闘を経て、勝率は約5割。十戦程度の土方の少なくとも二倍以上の戦闘数。勝率も土方より高く、規模も大きく、様々な方の筆に出てきています。
土方は、敵が旧装備、地形の有利など、普通に勝てる戦闘で勝っている。大鳥は、普段は部下に任せ、兵少なく、装備の不利、武器なし弾薬なしという、劣勢極まりない困難な状況ほど出てきて、前線から殿まで居座る。そして負けを何とか収拾しては士気を回復させている。実際はそんな役どころです。

なお、安藤太郎が「大鳥さんが配下を派して戦はすと不思議に勝つ、自分が出ると必ず負ける」という証言を残したために、大鳥は戦下手との汚名を受けています。これは大鳥が、普通に有利で勝てる戦は部下に任せ、弾薬無く兵少なく不利極まりなく負けるしか無い困難な戦ほど大鳥が前線に出てくるからです。こ一面的な安藤の言ばかりを引用するのは不当でしょう。

なお、安藤の言が掲載されている「大鳥圭介伝」には、同時に「今日の陸軍の基礎を作って、そして夫れを進歩せしむべくした事に就ては至大の功労のある人」「小男の大鳥は満身是れ膽(きも)との評判」「幕末掉尾の歴史を飾る可き壮挙にして、男の名の世間に嘖々喧傳せられた」「大和魂の誇りとする武士道の好型たるに耻(は)ぢざる一英雄」等など、数々の評価が同時に記載されています。現在作家やライターたちがこれらの言を引用することがほとんどないのは、誠に残念です。

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上では、大鳥を持ち上げる一方、土方に優しくない書き方になってしまい、申し訳ございません。どうしても、フィクションで持ち上げられて過大評価されてしまっている方は、デフォルト値が高すぎなので、下方向の調整になってしまします。
資料から伺える土方氏については「戊辰物語」の紹介大河の感想にも疑問点を書きました。土方が嫌いなのでは決してありません。むしろ等身大の土方は、敵や上からの記述や評価はあまり無いですが、部下からはとても愛されていて魅力的な人だと思います。大鳥はそもそもが「燃えよ剣」などが人格を貶めたために過小評価なので、実物を描こうとすると持ち上げ方向にならざるを得ません。

実物の大鳥にはこんな味があるのです、ということを言いたかっただけでした。アニメに文句を付けようという意図は、全くございません。特に、顔。ええ。あの顔はすばらしい。服装は別として、外見のキャラクターデザインには感謝したい。大鳥さんのお顔は、けいすけじゃが一番ですが。童顔は本人も認めて歌に詠んでいるのは事実です。後年の髭は童顔隠しです。外国人に侮られないように頑張っているのです。

長くなりました。戊辰戦争を一回でまとめようとするのが間違いでした。
私がいくら稚拙な筆を尽くすより、南柯紀行を一度読んでいただくほうがよほど効果的です。一見古文ですが、慣れればとても読みやすいです。また、ブログで南柯紀行を現代語訳してくださっている方もいらっしゃいます。

このブログを見てくださっている方には、なんら新しいことはなく、すみません。一方で長くなり、見てほしいと思う文に限って、結局誰にも読んでもらえずに終わる。それはいつもの仕様です。はい。

posted by 入潮 at 07:22| Comment(4) | TrackBack(0) | 幕末明治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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